今回は「筑紫の日向の襲の槵触二上峯」を北九州を中心に考察します。
・南九州の天孫降臨伝承地は高千穂峰です。
明治政府が治定した「神代三山陵」は宮内庁書陵部の管轄下に置かれています。
その治平を巡る経緯は前報しました。
一方、北九州の天孫降臨伝承地は、政府の治定とは無縁に、多くの人が論じています。
天孫降臨地「筑紫の日向の襲の槵触二上峯」はどこか、の検討は必ずしも良好な結論を得ませんでしたが、ご報告します。
1「筑紫の日向」
天津彦々火瓊々杵尊は「筑紫の日向の襲の槵触二上峰に天降った」(先代旧事本紀)」と云いますが、この邇邇芸命の天降り地については、古事記、日本書紀一書第1、先代旧事本紀の三者は、ほぼ記述が一致しているのです。
他方、日本書紀本文は「日向の高千穂の槵触之峯に降り」と記し、そこには「筑紫の」と云う大地名表記がありません。日本書紀の一書第2・第4・第6にも、「槵日の二上の天の梯子」がその後に続くが、この降臨地には「筑紫」の記載がありません。図表1の通りです。
この「筑紫日向の高千穂」を巡って、瓊々杵尊の降臨地比定論争は行われてきました。
そのポイントは、「筑紫の日向」がどこを指すのか、「高千穂・櫛触」はどこか、にありました。櫛触山を探す目安となる「日向」はどこなのか、が検討されたのです。
1)北九州説の主張
南九州説の人々は「日向国」説に依り、高千穂を探し、高千穂町と高千穂峰(霧島市)を基に考究しました。
だが、北九州説の人々は、南九州の論拠「日向国」説そのものを否定します。
引用しましょう。
・上垣外憲一先生の指摘は、簡潔ながら、要を得ています。次の通りです。
引用:降臨の地、「筑紫の日向」の日向は、日向の国、宮崎県と解されてきたが、「ここは韓国に向ひて」と
いう句を重視すれば、むしろ九州の北海岸の方がよく当てはまる。
「天孫降臨の道」上垣外憲一著(福武文庫1990)17頁
・上田正昭先生は、ニニギノミコトが降臨した地は「筑紫の日向の高千穂の久士布流多気」で、
「此地は韓国に向ひ、笠沙の御岬にまき通りて、朝日の直射す国、夕日の日照る国なり。故、 此地はいと吉き地」
だと語られていることから、「韓国に向い...朝日の直射す・・.」は朝鮮 半島が望める地域・・奴国や伊都国の辺
りの北部九州だろう、とします。
更に、「日向国」は、国生み神話にもなく、律令制になって造られた「国」だから、天孫が降臨した時には「日向国」はなく、そこに降臨したとは云えない、とします。
引用:記紀編纂の7世紀後半から8世紀初期は、未だ律令制下の日向国は成立していないこと、記紀の国
生み神話にも筑紫国、豊国、肥国、熊曾国は出てくるが、日向国の存在は語られていないことから、
「筑紫の日向」を直ちに「日向国」とする解釈には疑問が残る。・・
現在の宮崎県・鹿児島県では「韓国に向」う地域とはなり得ない。本来の高千穂峰の原伝承は、韓国に向かう
九州北部地域だったと見るべきではないか。
(出所) 「私の日本古代史(上)」上田正昭著(新潮社):326~333頁
・鶴田裕一さん(元宮崎県学芸員)の「久留米大学講演」(要旨抄)も見て下さい。次の通りです。
(1) 日本書紀には、表現として「筑紫の日向」とのみあり、「筑紫の豊」も「筑紫の肥」もない。逆に「筑紫肥
豊三国屯倉」という記述は(筑紫・肥・豊の各国が)並列になっており、これなどは確実に筑紫国となる。
・筑紫火君という記述もあるが、これは註に「火、原作大」とあり、元来「筑紫大君」と記述されていたもの
らしい。しかし、「筑紫大君」とはいかにもおかしいとでも思ったのであろうか、書き直したのが真相とい
うところであろう。
(2) この日向だけ特別に筑紫を冠しているので、日向は国名ではなく、筑紫国内の地名だと云える。
こう考えると、日向という国名だけ特別に筑紫に続く不自然さはなくなる。
いずれも、日向=南九州説を否定しています。天孫降臨の時、未だ「日向国」はなく、筑紫は現在の福岡県の領域であり、その筑紫の内に「日向」がある。「筑紫の日向」は北部九州の福岡県だとするのがこれらの人々に共通する見解で、大いに人を納得させます。
2)「日向」東進説
筑紫の日向とは、(1)筑紫国内の日向を指し、(2)筑紫国内の一地点を指すと云うならば、それはどこなのか。興味深いのは上垣外先生の次の言説です。
古代文化の中心が北九州にあったなら、そこから見て東方の海岸、すなわち、豊前国の瀬戸内海岸が「日向ひむか」と呼ばれていただろう。・・中略・・歴史の中において、東国が開発されるにつれて、「関東」と云う概念は、逢坂山(*)の東を指す言葉から箱根山の東にまで、次第に後退しているのだが、「日向」という地名も、南海系の海人族の居住地が次第に南下するに従って、南下していったのだろう。 (出所)「天孫降臨の道」57~58頁
* 滋賀県大津市西部の標高325mの山、昔はこの山に逢坂の関を置き、これ以東を関東とした。
これで「日向」は決まりだと思われます。
北九州の開発が進むにつれ、「日向」も「関東」と同様、東に動いて拡大したと云うのです。
高祖山連峰の日向山・日向峠は、糸島平野の平野・三雲(遺跡)から見て東(日向)なので、最も古い時代に「日向峠」と呼ばれていたのでしょう。
その後、吉武高木・須玖岡本(遺跡)~板付・金隈(遺跡)から見て東(日向)へと、立岩(遺跡)から見て東(日向)へと、日向は東進・移動しており、その後の天孫降臨の時の「日向」は、高祖山連峰の日向峠よりも東に動いており、周防灘に面した九州東部海岸地域が日向であった、と見るのでしょう。
これが私なりの日向東進・上垣内説の理解です。
今、「日向」と云う地名を探しても、行橋平野に「日向」は見出せませんが、ここでは、上垣外先生流の「豊前国の瀬戸内海岸」を念頭に置いて、これを「k日向」とします。
3)日向を名乗る女人たち
日向の阿比良比売は、既に「まぼろしの阿田国」で取り上げましたが、阿田の小橋君の妹で、豊御毛沼命(後の神武天皇)の妃となった女性です。「日向」を冠にしているこの女性は「日向」の出身を意味しましょう。
日向賀牟度美良姫は、天日方奇日方命妃として知られます。天日方奇日方命は、亦名・阿田都久志尼命と云い、阿田国と縁深い筑紫生まれの貴人(事代主命の御子)ですが、その妃に迎えたのが「日向」の賀牟度美良姫です。ここにも「日向」ありです。 (先代旧事本紀・地祇本紀による)
上垣外先生の「日向=豊前国の瀬戸内海岸」説からすれば、行橋平野の辺りを日向としてもよいでしょう。「k日向」は長峡川下流域で、周防灘海岸に近い地域だと思われます。日向の阿比良比売(紀:吾平津媛)も日向賀牟度美良姫もこの地域の女人だと思われます。
注 「神代帝都考 全」を書いた狭間敬三翁は、京都郡(現・行橋市・苅田町・みやこ町)の地名考証をベースに「神代(日向三代)の帝都」の所在地を考察した人ですが、その中で、特に、「小橋」、「阿平津」の地名を挙げている点は「阿田の小橋君」、「日向の阿平津姫」につながるので重要です。
その後、「日向」は更に拡大移動して、律令制度時代までには、現・宮崎県域に「日向国」が出来たと理解してよいのではないでしょうか。
4)「日向の襲」
「筑紫の日向」の意味するところが判れば、次は、「日向の襲」の番です。
古今を通して、日本の住所表示は次の通り、大枠の地名から小さい地域指定の「字」や「番地」に降りてくる、東アジア共通の方式です。欧米の住所表示はこの逆です。
(現在) 県→市→町・村→番地、(近世) 国(藩)→郡→村→大字・小字、(古代) 国→郡→郷
従って、「筑紫の日向の襲の」と云うのは、次第にその指定範囲が小さくなってくる、と理解出来ます。
「日向」が長峡川下流域(行橋市・苅田町、周防灘沿岸)とすれば、「襲」は「日向」の一部ですから、この近辺に「襲」の地名は見つかる筈です。しかし、私は見つけることができませんでした。
<1>「日向の小字・襲」を探り、脱線する
「日向の阿比良津姫」(阿田君小橋の妹)が豊御毛沼命(神武天皇)の妃となった、との伝承に因む地名・日向・小橋・阿比良津を探しますと、現在の行橋市地図上には、地名「日向」すらありません。
字アザ地名「小橋」はなくても、小波瀬・大橋、小波瀬川はありました。
字地名「阿比良津」もなく、新津・下津熊・中津熊・上津熊、やや離れて豊津、の地名しか見出せません。
だが、ここで注意すべきは、「小橋」は「小波瀬(おばせ)」と同音だと云うことです。
試みに「おばせ」と打つと、ネット辞書は「小橋・小波瀬・小長谷・小場瀬・尾場瀬・尾場瀨・おばせ・オバセ」と表示します。
これは大阪の「小橋おばせ」に引きづられての音かも知れませんが、大阪の難読地名に、住吉区長峡町(ながおちょう)・天王寺区小橋町(おばせちょう)・東成区東小橋(ひがしおばせ)があります。
九州の京都郡(行橋市・苅田町)の地名(長峡・小橋)が大阪難波の地にあるのは面白いし、何か、京都郡と関係がありそうです。次のようなこともあり、興味深いので、ちょっと脱線します。
◇大小橋命(おおおばせのみこと)について:
産湯稲荷神社は、大阪市天王寺区の小橋公園に隣接し、その祭神は宇迦之御魂神・下照姫・大小橋命とされます。
この大小橋命(亦名・御味宿称)は、父は中臣雷大臣、母は武内宿禰の女・紀氏清夫で、意穂命・阿遅速雄命の二弟がおり、父・中臣雷大臣は神功皇后に仕えて活躍して「対島県の祖」と云われ、対島市にその祭祀社が多く鎮座しているだけでなく、対馬神道の祖でもあるようです。
更に、久留米の高良大社の祭神・高良玉垂命に中臣雷大臣説もあるようで、大変な人物なのです。
大小橋命の系譜は、天御中主神から発し、天児屋根命を祖とする中臣氏の流れです。大職冠・中臣鎌足は25代とされる子孫です。偽作の系譜だといわれる方がおられるかも知れませんが、仲々のものです。
天王寺区小橋の産湯稲荷神社の近く、味原池の二町東に、大小橋命の胞衣を納めたと云われる「胞衣えな塚」があり、大小橋命はこの地に生まれたようです。
産湯稲荷神社は、式内社・比売許曽神社の境外末社ですが、元々、稲荷社の地が比売許曽社の旧鎮座地だと推定されています。下照姫・大小橋命は両社に共通する祭神となっていますし、産湯稲荷神社・胞衣塚・比売許曽神社の三社は同じ小橋地名内にあり、近接しています。
・産湯稲荷神社(大阪市天王寺区小橋町3-1) 祭神:宇迦之御魂神・下照姫・大小橋命
・胞衣塚 (大阪市東成区東小橋3-9) 大小橋命の胞衣を埋納
・比売許曽神社(大阪市東成区東小橋3-8-14)祭神:下照比売命、
(配祀)速素盞嗚命・味耜高彦根命・大小橋命・大鷦鷯命・橘豊日命
○「古事記」は新羅から来た阿加流比売神が難波(*)の比売碁曽の社に坐すと記します。
だが、「延喜式神名帳」では下照比売社が比売許曽神社だと記し、阿加流比売命を祀り、一方、赤留比売神社は住吉郡
に記しており、そこには,阿加流比売と比売許曽姫との差し違えがあります。 *天王寺区・東成区の辺り
垂仁天皇2年7月、愛来目山(現・天王寺区小橋町一帯の高台)に下照比売命を祀り、「高津天神」と称したことに始まる
と伝わり、顕宗朝に社殿造営、延喜式神名帳では名神大社に列し、新嘗・相嘗の奉幣に預ると記載されています。
阿田の小橋おばせ君の妹・阿比良津姫から、話を「大小橋命」に脱線させましたが、その背後に「天御中主神・天児屋根命」など弥生神代の神人が潜んでいるので、いつか「弥生神代考」の本論に結びつくことを願って、擱筆しましょう。
<2>「日向の襲」と景行天皇の九州妃
次は、景行天皇の九州遠征譚に登場する九州妃です。
この遠征譚は日本書紀に詳しく、古事記では系譜が出てくるのみですが、「日向の襲」に関連した記述が見出されます。
景行天皇の九州妃の三人は日向・襲を何らかの形でその名に含んでいるのです。
第一の妃は「襲国の御刀媛」(書紀、古事記では美波迦斯毘売)です。
書紀では、景行天皇は「平定した襲国の御刀媛を娶り、生まれた豊国別命は日向国造の祖となる」とするのに対して、古事記では「(景行天皇は)日向の美波迦斯毘売を娶り、生まれた豊国別王は日向国造の祖となる」とあるのです。子の豊国別命(豊国別王)の名前と職名が記紀で同一なので、御刀媛(書紀)は美波迦斯毘売(古事記)と同一女人と見られています。
豊国別命は、書紀では日向国造祖とされ、古事記では日向諸県君祖・喜備別祖とされ、その母は日向御刀媛(記:美波迦斯毘売)なのです。「国造本紀」に、応神朝の日向国造は老男(おゆ)と云い、豊国別皇子三世孫で、日向国児湯郡の人だとありますが、これは「景行天皇紀」と対応しています。
この御刀媛の出身地が、日本書紀では「襲国」なのに、古事記では「日向」となっている点が注目です。この場合、誤記・誤伝でないとすると、「襲国」と「日向」は同一地域を指し、「日向=襲」と考えることが出来ます。「日向の襲」と云う表現を考える時には、「日向」が広く、「襲」は狭い、と判断しますが、その可能性もあるのです。
従って、日向御刀媛は、「k日向」説によれば、京都郡(豊国)の女人だったのかも知れません。日向御刀媛の御子・豊国別皇子の名前は「豊国」ゆかりです。「別」を分国の意にとれば、日向国造祖とされる点も理解できます。
だが、景行天皇紀の前後の文意は「日向国」(現・宮崎県)を指しているとも理解できますので、どうも上垣内「k日向」説も決定的とは云えないようです。
「景行天皇13年5月、襲の国を平らげ、高屋宮に住むこと6年」(紀)の記事の後に、御刀媛を召して妃とする話が出てきます。だが、その前に「景行天皇12年11月、日向国に着いて行宮・高屋宮を建てて住む」(紀)の記事があり、僅か6ヶ月後に「高屋宮に住むこと6年」とは訝しい話です。何時も「訝しさ」と対面しつつも、頼らざるを得ないのが記紀史料です。
そして、ここに「日向国」と「襲国」が重複してあるのです。「日向の襲」とは「日向=襲」の意なのかも知れません。これも未だ解けない謎です。
第二の妃は「襲の武媛」です。襲武媛の二皇子(国乳別皇子・国背別皇子)は、水沼君(水間君)として現・三潴郡域の首長となったと思われ、もう一人の豊戸別皇子は火国別祖(紀)となったと云います。
豊門別命(奄智首、壮子首、粟首、筑紫火別君の祖)
ブログ・「ひもろぎ逍遙」は、この「襲」とは背振山系の南にあると考えられています。即ち、「襲ほり(背振)山」の南の「襲の国」で、景行天皇はその地の襲武姫を妃に迎えて、その三皇子は、夫々、水沼国(福岡南部)と火国(佐賀県~熊本県)を分け与えられた、と見ています。
そうだとすると、「襲」の地は一つではなく、上垣内説の京都郡の「日向の襲」に加えて、幾つもあることになります。「襲」は方位・南を指すのかも知れません。或いは、関東の東進、日向の東進と同じように、時代の情勢により移動しり、該当する地域が拡大・縮小したのか、とも思われます。ここは迷います。
第三の妃は日向髪長大田根です。日向髪長大田根の御子は日向襲津彦皇子と云い、阿牟君の祖とされています。母は「日向」の女性で、子は「日向の襲」の皇子なのです。
更に追加すれば、「襲小橋別命 (菟田小橋別祖)」が「先代旧事本紀・天皇本紀」の景行天皇段に登場します。先代旧事本紀はその母名を伝えませんが、この名前からすると、「日向の襲」の「小橋(おばせ)」の出身か、とも思われます。この皇子・襲小橋別命は「日本書紀」や「古事記」の景行天皇段には見られませんが、「日向の襲」に強く結びつく人と考えられるので、ここにご紹介します。
景行天皇紀12年秋9月条には、景行天皇が豊前国長峡県に行宮を建て住み、そこを「京みやこ」と名付けた、とあります。「長峡県ながおあがた」は行橋市を流れる長峡川沿いの地域です。この「京」に滞在して、地元の女人を妃に迎えた、とすると、「日向の襲」が有力です。
以上、色々な「日向」事例を集めると、どうも「k日向」説で全てを解釈できません。
景行朝に「日向」が現・宮崎県まで南下したとする論理は決定的な証拠がなく、ニニギ・日向と景行朝・日向との差をどう評価するか、がこの「日向の襲」問題の決着を左右します。
最後の詰めが甘くなりました。
<3> k日向説の縁辺を探る
この「k日向」が「まぼろしの阿田国」で取り上げた地域(*)と重なるのも注目です。
ここでは、狭間翁の「神代帝都考 全」付属地図を発端として、この上垣外先生の「k日向」説の縁辺を探ってみます。
詳しくは、明治時代の地図を探して、狭間翁の「神代帝都考 全」付属地図の地名確認をいたさねば成りませんが、今は止むなくネット上のマピオン地図によります。
具体的には、河川と低い丘陵・山塊の麓に弥生期~古墳期の遺跡がありそうなのです。
東九州道の行橋IC付近(現地名:延永・吉国・二塚・長木・津熊)は、古代、この地域の中心地だったと思われ、最近、東九州道の建設の事前調査のお陰で、弥生期から古墳期にかけての「延永ヤヨミ園遺跡」が発掘され、近くには、「ビワノクマ古墳」や椿市廃寺、草野津港跡などがあります。
亦、10号線の行橋バイパスの建設事前調査でも、「徳永川ノ上・弥生遺跡」が発掘されています。
◇徳永川ノ上遺跡(行橋市徳永)
・豊津町北東部で祓川右岸の洪積丘陵上に位置し、弥生時代終末から古墳時代初期の墳墓が発見された。
・京都平野の東側には、周防灘に面した長井浜との間に広がる低丘陵群があり、これに祓川がぶつかって流れを北に
向ける地域が大字・徳永地区で、祓川に面する遺跡の位置が標高24~30mで、対岸の水田地帯との標高差が8mも
ある。遺跡のある丘陵は祓川に沿って南北に細長く連なっている。
・南端の丘陵基部に神手遺跡:弥生前期の環濠集落は川ノ上に属す。古墳群は小字神手地区に広がる。
・丘陵の尾根が変わって北側に鋤先遺跡、北半分の弥生終末集落と墳墓群が小字果願寺に属す。
・弥生期から古墳期にかけての頃、行橋市中心部は海が湾入していた。長峡川は草野津近くに河口があったらしい。
◇「延永ヤヨミ園遺跡」(行橋市延永)はその湾を見下ろす丘陵上に造られ、しかも、ビワノクマ古墳下の古層には
弥生墳墓が未だ埋もれている。
古墳時代の遺跡としては、八景山山麓の古墳群、甲塚方墳、八景山南古墳群、古門山古墳群、椎ノ木古墳群、
彦徳甲塚古墳、惣社古墳、節丸古墳群などがある。
いずれも高位段丘面上や丘陵地に分布する古墳ないし古墳群で、六世紀のものである。
特に節丸付近の祓川を挟む両岸一帯、八景山周辺は顕著な古墳地帯である。
(みやこ町歴史民俗博物館WEB遺産より引用)
◇「ビワノクマ古墳」(行橋市延永ビワノクマ、古墳前期)
長峡川と小波瀬川に挟まれた標高約25mの丘陵の頂上に築かれた、古墳時代前期の前方後円墳(墳丘長約50m)。
1955年、墓地の造成中に石室が発見された。内部の埋葬施設は長さ3.9m、幅1.3m、天井までの高さ1.7mの竪穴
式石室です。
その後、前方後円墳の形状が明らかになる。この古墳の盛り土の下にも墓が複数あり、古墳が造られる以前から
この丘は墓地として使われていた。この丘の西側斜面には 古墳後期の横穴墓もある。
石室の内部:石室内には銅鏡、硬玉の勾玉やガラスの小玉などのアクセサリー、刀と短剣、鉄鏃と布製の矢筒、
小札革綴甲など、豊富な副葬品が納められていた。(出土品は九州大学が所蔵)
国内に2例しかない甲冑類小札「小札革綴甲」とは、小札(小鉄板)を革紐で綴じ合わせて作った甲で、全国でも当地
と奈良県の別所城山第2号墳出土品の2例しか確認されていない。朝鮮半島や中国の大陸文化の影響と考えられ、
ビワノクマ古墳の被葬者が、ヤマト政権の近畿地方と並び、他地域に先がけて先進文化を取り入れることのできる
人物だった、と判断されています。
この弥生・京都みやこ湾に造られた港が「草野津」であり、更に古代は「片平津」だったと思われ、今の地名では上・中・下の津熊となって陸地化しています。
ビワノクマ古墳のある「延永」に西接する「二塚」は、「天孫・瓊瓊杵尊と妃・神阿田津姫の夫婦御陵」だと、「神代帝都考」は推定しています。「二塚」の名前からして尤もらしい感じがします。
注 他の地でも、例えば地名「大塚」が弥生墳墓地だったりします。
この行橋・みやこ平野には、長木丘陵・幸山&観音山連峰・稗田丘陵などの低丘陵が古代の格好の住居地と墓域を差し出しているかのような印象を与えています。
時代がやや下りますが、綾塚・橘塚の両古墳は観音山東裾にあり、長木はホホデミの育った地と云われています。
行橋平野の地形を考察すると、28号線、64号線と201号線に囲まれた地域、及び、これら道路から1~2kmのベルト地帯には、低丘陵の麓地帯が多く、今後も弥生遺跡が見つかるかも知れない、注視すべき地域でしょう。
64号線沿いには、国崎八幡宮・国崎八幡神社(祭神は古代の豊国国造・宇那足尼命、国崎臣祖・菟名手)があり、64号線を北上すると、京都峠から高城山を見て、宇原神社付近で254号線に交わります。
そのやや東には、苅田町役場の敷地内に、石塚山古墳(古墳時代前期)と浮殿神社があります。2km南下すると、10号線沿いに御所山古墳があります。
・高城山は狭間翁がニニギの降臨地(高千穂・櫛触峰)と見立てた山です。
・宇原神社(苅田町馬場410)と浮殿神社については次の由緒が興味深いです。
宇原神社由緒: 古老口碑に抑当神社は神代の鎮座にして初め彦火々出見尊及豊玉姫尊海神の宮より還らせ給ふ時、
日向の神田に御船を繋ぎて(又は鰐とも云ふ)陸に上らせ給ふ、船化して島となる神島之なり、碇
化して厳石となる哮石之なり、二柱神上陸の路あり、豊玉姫尊石に腰を掛けさせ給ひし地を石の
神と號す。(今布留御魂の神を祭る)其石今に至るまで土中に埋まることなし。夫れより清地を
選びて産屋を造らせ給ふ地を鵜原崎といひ、鵜羽を以って産屋を葺き終らざり し内に御降誕あり、
其子神を彦波瀲武鵜茅草葺不合尊と申す。それより浮殿に移り後今の宮所に移らせ給ふ、之れ当社
の草創にして、その先駆の神を左右御前の神と號し、当社辰巳の方に斎き奉ると伝ふ。 (出所)「福岡県神社誌」・・ (事代主のブログより再引用)
・石塚山古墳(苅田町富久町):古墳時代前期古墳)
・御所山古墳(苅田町与原御所山):5世紀前半から中頃の、全長119m(周濠を含めると全長140m)と北部九州でも
屈指の規模を誇る前方後円墳・豊の国縣主墓
201号線沿いには、長木丘陵地に長木・二塚・上津熊が隣接し、上片島の菅原神社辺りが、「神代帝都考」の云う、ホホデミの宮居の地であったかも知れません。
28号線は矢山(諫山村矢山はホホデミの生育地との伝承あり)を通り平尾台から西へ通じる古代道です。64号線と交わるところが椿市廃寺跡です。その昔は、椿市の市場が立ったのでしょう。高来を通り、矢山から山道に入り、この道は平尾台を抜けて322号線と出くわしますが、この322号線も御井・大刀洗・甘木・嘉麻市・香春町から小倉三萩野香春口に通じる古代道です。
5)高千穂・櫛触山の謎:
「筑紫の日向の襲の」までを不十分ながら一応理解したとして、次は「高千穂・槵触二上峯」に移ります。
この内、古事記のみは「高千穂・槵触二上峯」を「久士布流多気クシフルタケ」と記します。これは気にしませんが、「二上峯」は考えなければなりません。
北九州説に説得されて、それならば、次は「筑紫の日向の高千穂くじふる嶺」(古事記)の「櫛触山」を探そうと、この地域の国土地理院地図に探しますと、本当に不思議なことに、そこには「櫛触山」なぞと云う山は、現在は、ないのです。
しかし、情報を漁ると、「日向峠の掲示板に櫛触山が記されている」という方が二人(出羽弘明・朴炳植)もおられるます。その内の一例を引用します。
引用:「日向峠は、北西の平原遺跡によって、1800年前からの古代名をもつ、日本神話を伝承すると地と考えられ
ます。この峠から南西に韓国(王丸山)、北西に櫛触山、その先に高祖山といった神話の山々が連なり、日向三
代神話の源流となる処です。」という内容の標識板が立てられているという。
「神話と古代史の旅」平凡社AUTUMN’86よりの引用として、「卑弥呼は語る」朴炳植著(学習研究社1986年
刊) 54頁にあり。
この日向峠の現地の掲示板を確認することが「櫛触山」探しの決め手になりますが、今は、現地に行くことができない私としては、高祖山連山縦走のハイカー達がこの掲示板の写真をネット上に掲載してくれることを祈るばかりです。(尤も、この掲示板は今は無いかもしれませんが、・・・)
次の図表2には、国土地理院地図に高祖山・叶岳・飯盛山・王丸山は明記されていますが、A・B・Cの三山には名前が付けられていません。だが、その位置関係を略示し、備考欄には、A・B・C三山の名前を示唆する、ハイカーのネット記事を載せました。
しかし、この記事は「日向峠の掲示板」を紹介するものではなく、また、ズバリと「櫛触山」を記しているものではありません。
6)「二上山」は連山・双耳峰の意味
二上山は「一般的に二つの頂がある山に付けられる名称」(ウイキペディア)だと云います。
ウイキペディアが次の5例を紹介してくれていますので、標高情報を加えてご紹介します。
1葛城・二上山:奈良県葛城市と大阪府南河内郡太子町に跨がり、北方の雄岳517mと南方の雌岳474mの二つの
山頂がある双耳峰だ、と云います。
・「二上山」の名は、現在の二上山(東峰)と西隣の城山(西峰)を二神に見立て「二神山」と呼んだ
のが語源であるとする説がある。
2高岡・二上山:市の中心市街地から5km北の、高岡市の最高峰274m。西側に城山、東側に鉢伏山、北側に大師ヶ岳
がある。
3岩美・二上山:鳥取県岩美郡岩美町にあり、頂は一つ。この二上山333mの北西隣にある立岩山が二つの頂を持ち、
元来「二上山」は今の立岩山を指す名前だった。
4久米・二上山:岡山県久米郡美咲町両山寺にあり、標高689m。山名は最高地点の西峰と東峰の二つの頂上を有する
ことに由来する。東峰山腹には山岳密教寺院・両山寺や二上神社、天邪鬼の重ね岩がある。
5高千穂・二上山:宮崎県西臼杵郡高千穂町と同郡五ヶ瀬町に跨り、標高1,082m。
これからすると、天孫降臨の櫛触山は「二山から成る連山形状」だと推定できます。
夫々の山名と標高を記したのは、低い山でも山名を持っていることを明らかにするためです。
高岡・二上山は、この5例の中で最も低く、標高は274mです。次いで岩美・二上山333m、葛城・二上山517m、
久米・二上山689m、高千穂・二上山1082mです。
これと比較すると、高祖連山のA・B・C三山の標高は、夫々、358m・419m・365mなので、山名を付けられて然るべきです(と未だ、拘っています)が、前述の通り国土地理院の地図には山名がついてないのです。
当然のことながら、「国土地理院地図」をベースとして作成されたと思われる、マピオン地図にも、yahoo地図にも、山名(A、B、C)は見出すことはできません。
「櫛触山」の名を残しておくと、「天孫降臨地:筑紫の日向の襲の槵触二上峯」問題がクローズアップされる時、「櫛触山」それ自体が天孫降臨地を巡る紛糾の源となることが予想されます。
ひょっとすると、それが理由で、「櫛触山」の名が「国土地理院地図」と云う「公式」の地図上から消されたのでしょうか。疑念が広がります。
注 ご参考までに申しますと、飯盛山・高尾山は九州だけに絞っても、夫々、多数の同名山がありです。
全国に拡大捜査すると、会津の白虎隊自刃の地の「飯盛山」を筆頭に更に多数あります。
「櫛触山」も多数あっても良さそうに思えるのですが、・・。
図表3の備考欄に引用したハイカー報告からすると、どう見ても、「櫛触山」はこの高祖山連峰のA・B・Cの三山の内のどれかでしょう。
A・Bが二上山なのか、 B・Cが二上山なのか、いずれかでありそうです。
こうして、天孫降臨の地「筑紫の日向の襲の槵触二上峯」はどこか、と問い続けてきましたが、「筑紫の日向」は福岡県のいずれかの地であり、外垣内先生の「日向」論を受けて、それが周防灘海岸近くを有力候補地と判定しました。
すると、糸島市の高祖山連峰から遠く離れて、日向灘沿岸まで東進してしまいました。そこは、行橋市・苅田町です。勿論、高祖山連峰の「櫛触山」も候補地として未だ残っています。
更に、「二上山」は「二山から成る連山形状」を表現するものと見ます。
2「高千穂櫛触峯=高城山」説・・北九州における第二の櫛触山
実は、外垣内先生の「日向」論を受けて、辿り着いた周防灘海岸近くに、第二の櫛触山候補地があったのです。北九州のもう一つの「櫛触山」は「高城山」416m(京都郡苅田町南原)です。
「神代帝都考 全」狭間敬三著(明治32年刊)の中で、「高城山」は、南原と白川村山口との境にあり、上古、「高千穂櫛触峯」と呼ばれていたとし、ここが天孫(瓊々杵尊)降臨の地だとしています。これが北九州のもう一つの「櫛触山」です。
挟間翁は、この著作を宮内省に献本し、「天孫降臨の京都みやこ郡」説を紹介します。
だが、神代三山陵は、既に、明治6年に鹿児島(旧薩摩藩内)に治定地が設けられていましたし、この当時、挟間翁には、後ろ盾となるべき、有力な支援者や政治家がいなかったこともあるでしょう。
明治政府は、その内容を認めることはなく、その後も「薩摩三山陵治定説」を採り続けています。
そこで、挟間翁の「天孫降臨・高城山」説を基に、この周辺地域の情報を加味して、豊前における天孫族(日向三代+)の動向をまとめてみます。
挟間翁の「天孫降臨・高千穂櫛触峯=高城山」説は、京都郡(現・行橋市・苅田町・みやこ町)の地名考証が大きな役割を演じているのですが、挟間翁は「日向」については特に言及していません。
それがやや気になるところですが、「まぼろしの阿田国」で取り上げた地域(*)と重なっているのが私にとっては興味深いです。 *嘉穂郡(飯塚市)・宗像郡・遠賀郡・・広くは豊前国
特に、挾間翁が、阿田小橋、阿平津の地名を挙げている点は「日向の阿平津姫」「阿田の小橋君」につながるので興味深いのです。前述しました。
こうして、ニニギの降臨伝承を求めた北九州の旅は、多くの未解決問題を孕みながらも、高祖山連峰から周防灘沿岸の「高千穂櫛触峯=高城山」に辿り着いたのです。
次回は、ニニギを祀る神社を北九州に探して「天孫降臨の道」とし、また、「天孫降臨の時期」を推定して、北九州の弥生遺跡の年代と比較してみましょう。