第5部 まぼろしの「吾田国」を特別追加します。
 

 「阿田国」は、日本書紀に記載があるにも関わらず、これまでその所在を吟味する人はいなかった、と云う状況が続いてきました。確かに、南九州に「阿多」なる地名があり、そこを「阿田」と決めた事もあったのですが、それは説得力に乏しく、多くの方々が「阿田南九州説」に疑義を呈しているのです。
 この南九州説は「九州伝承地」(ネット情報)に見出せますので、ここでは省略します。
   注1 和名類従抄(承平年間931~938、源順が編纂)には、薩摩国・阿多郡(郷:鷹屋・田水・葛例・阿多)が記録

      され、その後のこの阿多地名の変遷としては、阿多郡→阿多郷→阿多村と経て、現在は旧・日置郡に属した

      旧金峰町(薩摩半島の中心部の南さつま市)の270号線の一交差点名として「阿多」が残っているのみです

      が、公正を期すため、「笠沙町」(南さつま市)の現存には触れておかねばなりません。

      一方、日向国には、和名類従抄ベースで、「阿多」地名を見出しません。
   注2 2005年、加世田市・大浦町・笠沙町・坊津町が合併して、南さつま市となった。
   注2 (宮崎県)吾田あがた 延岡市には笠沙の御崎あり。

 

 それでは、記紀神話に出てくる「阿田国」は、どこを指すのか、確定的にその地を指定できる程ではありませんが、検討してみましょう。

1)事勝国勝長狭(塩土老翁)の「阿田国」

  阿田国をニニギに譲った塩土老翁を祭る神社を、筑紫に求めますと図表4(部分再掲)になり、吾田国の塩土老翁祭祀の分布を示す、と考えられます。

 

                                

 

 ここでは、筑紫の塩土老翁の祭祀社の相互距離を示しながら、阿田の範囲を探りましたが、塩土老翁の名前が示唆するように、当然のことながら、その祭祀社は海岸部にあり、内陸深く入るとしても、高々5kmです。これを出発点として、更に阿田領域を確かめてみましょう。

 

(1)宗形朝臣は吾田片隅命の後(すえ)なり

 事勝国勝長狭の「阿田国」の国譲り伝承では、明らかに「阿田」は地名ですが、この他にも、人名の上に乗る「阿田」は地名を表していると見て良いと思います。

 その「阿田」を冠に戴く古代神人の代表者は、第1に「阿田都久志尼命(天日方奇日方命)」です。この命は事代主命の御子で、前報「国譲り真話」では「筑紫の阿田の貴人」だとご紹介しています。

 

 第2に「吾田片隅命」は、「新撰姓氏録」に「宗形朝臣、大神朝臣同祖、吾田片隅命之後也」とあることから、この人も「吾田」にゆかりがあると見られます。
 勿論、右京以外でも、大和・河内でも、阿太賀田須命の末裔が名乗り出ています。
    注1 新撰姓氏録 ・・宗形朝臣:476 右京  神別  地祇  大神朝臣同祖 吾田片隅命之後也
                       和仁古   :568 大和国 神別  地祇  大国主六世孫 阿太賀田須命之後也 
                     宗形君   :677 河内国 神別  地祇  大国主命六世孫  吾田片隅命之後也 
      注2  阿田賀田須命(和迩君祖)は、事代主命の子・天日方奇日方命から数えて5代目に当たり、先代旧事本紀は、

       天日方奇日方命は神武朝に宇摩志麻遅命と共に政事大夫として天皇に仕えたと記しています。
    注3  宗像徳善の女・尼子姫は天武天皇妃になり、高市皇子の生母となられた女性です。当然ながら、朝廷は、
             宗像氏を厚遇します。


  吾田片隅命は、事代主命の5世孫、大国主命の6世孫ですが、新撰姓氏録」に「宗形朝臣、大神朝臣同祖、吾田片隅命之後也」とあることが「阿田の地」は宗像郡を含む北東九州だと推測する理由となります。

  「阿田は宗像」説に従えば、阿田・阿多を頭に頂く人名はこの広域宗像の地の出身と読めるでしょう。すると、これまでとは違った上古の姿が見えてくる筈です。

  宗像市神湊の津加計志宮と宗像周辺について、正見行脚さんがそのブログで、次のように書いておられます。
   引用1「宗像」10月号には、「津加計志神社の元は、神湊草崎に鎮座していた綱掛神社(現在、宗像大社頓宮祭祀)で、

        祭神は市杵島姫命、相殿に宗像大宮司の遠祖・吾田片隅命を併祀と古伝にある」と記されていた。
       2宗像大宮司の遠祖・吾田片隅命(阿田賀田須命、赤坂比古命)を祀る神社は、津加計志神社の他にもある。

      宗像市内では、氏八幡神社摂社(吾田片隅命)があり、また隣接する福津市生家の大都加神社(阿太賀田  

    須命)や、福岡市博多区の櫛田神社摂社石堂神社(吾田片隅命)などが知られている。
       3津加計志神社旧地のある草崎丘陵や、現在地の茶臼山丘陵を含め、神湊には多くの古墳が存在しているが、 

      これらの古墳は、吾田片隅命に係わりのあるものだと考えることはできないのだろうか。
         4吾田片隅命(和爾一族)が宗像市から福津市にかけて発生した海洋族だったと仮定した時、後代の壬申

      の乱(大海人皇子、高市皇子)に連なる歴史の視点が変わってくるかも知れない。

  阿田賀田須命(吾田片隅命)は、大物主命を祖とする三輪氏(大神氏)の一族、宗像君(宗形君)はその子孫説がある人です。ここに、和爾部の祖神と云う説が加わりましたが、何よりも、宗像地域に宗形氏と共に阿田賀田須命が祀られている点を改めて注視したいと思います。
 
  その祭祀社を図表5にリストしましたが、これが宗像地域での吾田片隅命の祭祀は、「吾田は広域宗像の地を指す」とする言説を支持してくれるでしょう。

 なお、愛知の春日井市でのその祭祀社の集中も注目されます。

   図表5              吾田片隅命(阿田賀田須命・赤坂比古命)を祀る神社
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 福岡 ・石堂神社(福岡市博多区上川端町、櫛田神社境内摂社) 祭神:吾田片隅命・宗像三神
      ・津加計志神社(宗像市神湊、宗像大社摂社)               祭神:阿田賀田須命
        ・大都加神社(福津市津屋崎町)   祭神:大国主命・田心姫命・阿田賀多命・宗像君阿鳥主命・宗像君徳善・

                      宗像朝臣秋足主神 ・難波安良女神・宗像君鳥丸主神
        ・氏八幡神社(宗像市田島2241) 摂社の吾田片隅命
         祭神:宗像大宮司清氏霊、宗像大宮司正氏室、息女菊姫、侍女四人の霊、吾田片隅命外二柱
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 徳島 ・朝立彦神社(徳島市飯谷町小竹101,平石山(648.8m)の中腹/標高323.9m) 
           祭神:豊玉毘古命、豊玉姫命、                                                                            海人族の安曇氏の祖・阿田賀多須命(大国主命 六世孫)「微古雑妙」

                         VS  真の祭神:阿佐多知比古・和多津見豊玉彦命「神名帳考證」
 奈良 ・八柱神社(大和郡山市、賣太神社摂社) 祭神:赤坂比古命
      ・和邇坐赤坂比古神社(天理市和爾町)  祭神:阿田賀田須命(赤坂比古命)、市杵嶋比賣命
 愛知:延喜式神名帳・尾張国山田郡和爾良神社の比定社は和爾良神社など複数存在す。
     1両社宮神社(春日井市)  祭神:誉田別命 配祀:日本武命 大国主命 建手和尓命 阿田賀田須命 
            由緒:延享元年(1744)に八幡神社と熱田社を併せて両社大神宮とする。徳川末期に森の中に和爾良神社

          を発見して合祀、慶応2年(1866)に和爾良神社両社宮と称する。
     2和爾良神社(春日井市上条町) 祭神:阿太賀田須命、建手和爾命、伊弉册命、磯城津彦尊、菊理媛尊
     3朝宮神社 (春日井市朝宮町) 祭神:阿太賀田須命
        社伝:朝宮町鎮座の和爾良神社は、建保6年(1218)、上条城主・小坂光善により上条町に和爾良白山神社

          と改めて建立し、朝宮町の地には白山比咩神社(白山市)から菊理姫命が勧請 ・合祀され、朝宮白山

                            宮と称した。
         4天神社(春日井市牛山町)  祭神:吾田片隅命、品陀別命 天照大神 火産靈命 菊理姫命 建速須佐之男
 新潟 ・赤坂諏訪神社(燕市西蒲原吉田町) 祭神:和爾坐赤坂比古命
 群馬 ・榛名神社(安中市)                      祭神:赤坂彦神
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(2)阿田の小橋君の妹・阿比良比売は豊御毛沼命(神武天皇)妃となる

 「日本書紀」の本文によれば、火闌降命(海幸彦)は、彦火火出見尊(山幸彦)に許され、阿田君小橋らの遠祖となります。但し、「日本書紀」一書第2&第4は火闌降命は「隼人の祖」となった、と別伝を記します。

 これに対して、古事記には「神武天皇の皇后選定の条」に次のように記しています。
 「日向に坐しし時、(神武天皇は)阿多の小橋君が妹・阿比良比売を娶りて、生める子は多芸志美美命、次に岐須美美命、二柱坐しき。」

 すなわち、即位前の豊御毛沼命(神武天皇)は日向に居られる時、阿田(阿多)の小橋君の妹・阿比良比売を娶り、二児をなしており、この阿田の小橋君の遠祖が火闌降命(海幸彦)だと云うことなのです。

 阿田小橋君の血筋の女性は、豊御毛沼命(即位前の神武天皇)の「はとこ」(又従姉妹)に当たり、豊御毛沼命の妃となっていたのでした。次にその系譜を示します。

 

                                                              

 

 

 豊御毛沼命(神武天皇)が、妃・阿比良比売との間にもうけた、多芸志美美命と岐須美美命の二児は、共にミミなる美称を授かり、両親の祝福を受けて、未来を約束されたのです。

  豊御毛沼命は阿田の小橋君の妹を妃に迎えましたが、「妻に迎える」のは現代風の云い方です。

  古代風ならば「妻問い」したでしょう。それは入り婿的な当時の風習ですから、豊御毛沼命は「阿田」の地に落ち着かれた筈です。豊御毛沼命は「豊」を含み、いかにも「豊国ゆかり」を思わせますので、ここに「豊」と「阿田」が結びつくのです。
 ひょっとすると、北九州の阿田国は豊国内の拠点地域だったのではないでしょうか。

(3)北九州における神武天皇伝承が阿田国の範囲を推定させる

  図表6を作成しながら、思い当たったのが、宗像地域~遠賀川流域~に神武天皇伝説が多い事の理由(わけ)です。この地域に「阿田国」があったのではないか、と見る疑念です。

 次に「北九州における神武天皇伝承」の一覧表(図表7)を示しますが、未だ収集は完全ではありません。
 これは「神武天皇東征伝承」を根本的に検討する出発点となるでしょう。北九州での「神武天皇東征前史」は吟味・考察すべき課題を孕んでいますが、ここでは「阿田」探しの具とします。
 注 記紀の伝える神武東征伝承が、実は、北九州での神武天皇即位前の活躍をヒントにして、記紀編者が創作した

         フィクションだと云うことすら、可能性として浮かび上がって来ます。
  ・「神武天皇社」をはじめ、「神武天皇伝承」の多くは「神武」を強調し過ぎです。これは後世のフィクションと

          取られ兼ねない可能性をはらんでもいます。何しろ、「神武天皇」を初めとする歴代天皇の漢風諡号は、遙か後

          世・平安時代(8世紀)に、淡海三船により一括撰進されたのですから、中古の時代に「神武天皇社」など存在し            ようがないのです。だから、と云って、無碍にもできません。迷います。

          取り敢えずは、今回は深く吟味せず、データ収集に努め、それを一括して置きます。

 ここでは、只一つ、図表7で、「神武天皇伝承」の多い地域が嘉穂郡であることだけを指摘して置きましょう。基礎データとしては収集が不十分ですが、これだけで、もう十分な感じがします。

 「神武天皇伝承」が阿田国の範囲を推定させるのではないか、と思われます。

                            
              

但し、往古、宗像神領だった宮若市は、宗像郡域に含めたが、近世、鞍手郡に属し、市制により独立す。

              古代に嘉穂郡はなく、嘉麻郡と穂波郡があり、明治期に二郡を併せて嘉穂となり、今は飯塚市・

                    嘉麻市・桂川町です。
       *天皇は大野邑の田中の庄で、邑長荒木武彦の奉迎を受け、筑紫郡の諸豪族を御綏撫の上、武彦の

                        案内で宇美に進み、同時に四王子山**に遣使、山上に武甕槌尊を祭って王城の鎮守とす。
        **大城山(410m)を中心に岩屋山・水瓶山・大原山の四山の総称

 

(4)「阿田国」がらみの女人たち

  瓊々杵尊は、大山祇神の娘・神阿田津姫(木花之開耶姫)を妃とし、火照命(海幸彦)・火闌降命(火須勢理命)、彦火火出見尊(山幸彦)を生んだ、とされます。神阿田津姫は「阿田」の姫です。

 私は「木花之開耶姫」が本名だと思い込んでいましたが、古事記では本名は「神阿多都比売」と云い、木花之開耶姫はその別名なのです。

 日本書紀の本文でも「(塩土翁ー事勝国勝長狭に国を譲られて)・・その国に美人がいた。名を「鹿葦津姫ー亦名を神吾田津姫、また木花之開耶姫と云う」とあって、木花之開耶姫は亦名の最後なのです。

   加えて、日本書紀の一書群も「豊吾田津姫」(一書第6)、「神吾田鹿葦津姫」(一書第2&第3、先代旧事本記)と云う表記を優先させています。

 これは、立ち止まって、一考すべきでしょう。

 「豊」も「葦津」も豊国つながりを思わせますし、「神」を冒頭に置く点も気になります。
 「豊葦原瑞穂国」の内の二つの文字がここにあるのです。神阿田津姫は大山祇神の娘ですが、この二神は、どうも、「豊国」にも「阿田国」にも縁ゆかりがありそうです。

 豊御毛沼命(神武天皇)は、伝承上、瓊々杵尊ニニギの三世孫で、その妃・阿田津姫の血を引いています。その「阿田」の血を引く、豊御毛沼命が、「豊」を冠にして、「阿田」の阿比良比売を妃に迎えたのです。

 曾祖父・瓊々杵尊と同様に「阿田」の女性を妃に迎えたのです。

 少なくとも、豊御毛沼命はその「妻問い」には阿田国を訪ねた筈です。但し、瓊々杵尊妃は大山祇命の娘で、豊御毛沼命(神武天皇)妃の「阿田」の阿比良比売は親戚の娘です。その差はあります。

(5) 神阿田津姫(瓊々杵尊妃)の父・大山祇神は嘉穂郡を中心に祀られている

 私は、今や、阿田国と豊国と宗像を結びつけようとしています。敢えて申しましょう。

 

 「豊・宗像・阿田」の三国はこの地域にオーバーラップして存在していたのでしょう。

云い替えると、「豊国」の中にあった「阿田」のみがその後の歴史の中に埋没したのかも知れません。

 大山祇神は神阿田津姫の父です。そして、神大市姫の父でもあります。
 その素性は、愛媛県今治市大三島に鎮座する大山祇神社により明らかになるだろう、と考えていました。

 ところが、この伊予一宮は摂津国の御嶋から勧請したというのです。
 ・大山祇神社(愛媛県今治市大三島町宮浦)式内社(名神大社)、伊予国一宮
        祭神:大山津見神
        由緒:境内には弥生時代の神宝や祭祀遺跡があるといわれており古いことは明らかだが、「大三島記文」(社伝)

                     は、大山祇神の子孫・小(乎)千命が大三島に勧請したとする。「伊予国風土記」逸文では、大山積神は

                     百済から渡来して津の国(摂津国)の御嶋に鎮座、後に伊予国に勧請されたと、する。
  ・三島鴨神社(大阪府高槻市三島江2-7-37)摂津国の御嶋  祭神:大山祇神・事代主神


 豊国は摂津御嶋よりも時代的に古い国と思われますので、大山祇神は、確かに摂津御嶋に関係があるかも知れないが、更に上古には豊国にゆかりがあると考えます。

<大山祇神妃の鹿屋野比売神は伽耶のゆかりを示唆する>
 

 その理由の一は、神話が伝える大山祇神の妃・鹿屋野比売神の名前が示唆するからです。
 鹿屋野比売神のカヤは、加悦・伽耶・可也・蚊屋・萱・茅と同音で、加羅とも通じます。そして、南朝鮮の金官国の辺りが「伽耶(加羅)」なのです。それ故に「鹿屋野比売=伽耶姫」と読み、日本書紀では「草祖・草野姫」とも云います。

                     注 鹿屋野比売神は萱野姫の名で、熊野神社(糸島市可也小金丸)境内に祀られています。
   大山祇神社(大山祇神・萱野姫)・・熊野神社(糸島郡可也村小金丸)境内

 

 日本の各地に「カヤ」地名がありますが、いずれも伽耶人の来住地だと云われています。行橋市や三井郡の「草野」は今はクサノと読みますが、往古はカヤノと読んだと思われます。

 「可也山」(糸島半島)は筑紫富士の異名のある山365mですが、朝鮮にも、次の如く、「伽耶山」ありです。高霊郡:大韓民国慶尚北道南西部にあり、大伽耶国の故地。
              ・ 東は大邱広域市、西と南は慶尚南道陜川郡、北は慶尚北道星州郡に接する。
              ・ 小白山脈の一脈の「伽耶山」は郡の西北~南東に連なり、郡中央の大伽川は小伽川を合わせて錦川

                           となり、洛東江 に流入する。
          ・古代の大伽耶は始祖・内珍朱智から道設智王まで16代520年続き、562年、新羅に滅ぼされると、

                           大伽耶郡となる。

         757年、高霊郡と改称。伽耶前期盟主は金官伽耶(現・金海市)、5世紀以降、大伽耶が伽耶連盟の盟主となる。

<大山祇神の系譜>

 図表8は大山祇神の系譜です。女神の下に文字囲で示す神々はその女神の夫君です。大山祇神は、その女ムスメ(神大市比売・奇稲田姫・神阿田津姫・木花知流比売)の婚姻を通して、有力部族長(素戔嗚尊・瓊瓊杵尊)とつながり(血縁関係)を持ったのでした。

                                

 

<大山祇神一族の祭祀分布>
 

 既に「国常立尊の祭祀形式」の所で集計した結果を再掲しつつ、これに大山祇神・阿田津姫(木花之咲耶姫)・塩土老翁の祭祀状況を追記すれば、次図の通りです。


                                                                

 

 このまとめ表を見ると、国常立尊と国狭槌尊の祭祀状況はほぼ同等です。
 神話通りに理解すれば、大山祇神は国狭槌尊の親神としてしっかり祀られている筈であり、事実、 豊日別圏に大山祇神は確かに61社、筑紫全体では86社に祀られています。

<嘉穂郡は大山祇神一族の拠点>
 祭祀社数から見ると、嘉穂郡は大山祇神一族の拠点だったのだろう、と推測させます
 この図表9の総括により、嘉穂郡(飯塚・嘉麻・宮若・桂川)の上古史での価値(位置づけ)は、大山祇神一族の祭祀の多さ故に、大いに高まりました。次の如くです。

 先ず、嘉穂郡を中心に豊日別圏に、大山祇神と木花咲耶姫命(神阿田津姫)の祭祀社が多い。
 嘉穂郡の大山祇神・阿田津姫祭祀は特異的に多く23・8社を数えます。国常立尊の祭祀図表9の注記に記したような欠落データのため、正確性に欠けながらも、です。
 無格社の情報を入れる事ができれば、この集計値はかなりな数となるでしょう。
  注 福岡県神社誌(下巻)はネット上で利用出来なくなり、残念ながら今回は無格社情報は割愛です。

 神阿田津姫(木花咲耶姫命)は阿田国の女性で、ニニギ妃となり、阿田国近傍に居を構えたと思われるだけに、阿田とのからみで嘉穂郡が注目されます。
  注 神話では、姉・磐長姫は美人でなかったのでニニギに袖にされる悲劇の女神です。その磐長姫の祭祀は、嘉穂郡

            にはなく、宗像市一社、福岡市早良区の四社、に祀られています。
       ・大森三島神社(宗像市上西郷)大山祇神・岩名姫
       ・大山積神社(早良郡脇山村横原) 大山積命・木花咲耶命・岩永姫
       ・大山積神社(早良郡脇山村小笠木)大山積命・岩永姫・五穀三神          
       ・山神社  (早良郡脇山村板谷) 大山積命・木花咲耶命・岩永姫
       ・山神社  (早良郡内野村曲淵) 大山積命・木花咲耶命・岩永姫
  注 (神話)大山祇神は、ニニギが磐長姫を妃として受けなかった事を怒り、磐長姫を差し上げたのは天孫が岩のよう

            に永遠のものとなるように、木花咲耶姫命を差し上げたのは天孫が花のように繁栄するようにと誓約を立てたか

            らであることを教え、磐長姫を送り返したことで天孫の寿命が短くなるだろうと告げた。

<立岩遺跡は大山祇神一族の拠点か>

  「嘉穂郡は大山祇神一族の拠点」説を持ち出す時、嘉穂郡域で最も有名な弥生遺跡・「立岩遺跡」(飯塚市立岩)がクロ-ズアップされるでしょう。

 その王墓だと推定される10号甕棺出土の前漢鏡を考究して、この遺跡の築造時期は紀元前後と見られています。

   報告書「立岩遺跡」は「(漢鏡)第2期に現れる日光鏡・昭明鏡は、5銖(古銭)を伴出し、宣帝・元帝の時代(BC74

         ~33)に出現したことになる。」としています。

 この立岩遺跡の地は、今も、福岡県総合庁舎・飯塚市役所・福岡地方裁判所などが建ち並ぶ遠賀川東岸の微高丘陵地にあり、いかにも古代の王都だったと思わせます。
 地勢を見ると、遠賀川と穂波川との合流点のやや下流にあり、その川向こうには、伊岐須や川津の船着き場があり、古代からの現201号線が東西に抜けています。西に笠置山、南に馬見山、を擁し、北流する遠賀川とその先に岡湊が河口に位置します。

  立岩遺跡の考古学的な知見を抜粋すると、次のようで、この地域は「弥生王国」をなしています。不弥国に擬する向きもあるようですが、ここは「大山祇神王国」を想定する方が楽しいのではないでしょうか。
 (1) 前漢鏡の出土結果、紀元前の遺跡と見られること。
 (2) ゴホウラ貝(沖縄特産)の腕輪多数の出土は、嘉穂人が遙か南海の沖縄と交流があったことを示します。

   34号甕棺の人骨右腕には14個のゴホウラ貝の腕輪が嵌められ、腹部からは鉄戈が、頭部からは前漢

   式鏡が出土しました。この人物は30歳前後の男性で、身長166cmと推定され、半島からの渡来人と見ら

   れています。
   (3) 石包丁(弥生前期から中期)の生産跡が笠置山(嘉穂郡域)にあり、そこから九州各地の稲田地域に石包丁が

   頒布されていた。須玖・岡本を中心とした福岡地区が石包丁の最大移出先で、朝倉地区が続き、次い

   で、鞍手・直方地区に、笠置山製石包丁が多く見出されているようです。
 (4) 絹(蚕糸)の生産、絹織物の出土を布目順郎先生が確認しています。立岩出土の剣・鉄戈には絹の撚糸

   が巻かれたり、平織の絹片が付着していたのでした。

<国狭槌尊は大山祇神の子神>
  山の神・大山祇神、草の神・鹿屋野比売神は、神話上は、伊弉諾・伊弉冉の神生みで生まれ、結ばれて四組の神を生みます。その一柱の「国之狭土神」(古事記) は「日本書紀」の天地開闢の段に登場する「国狭槌尊(別名・国狭立尊)」と同音ですから、多分、同神なのでしょう。

 日本書紀はこの神を「神代七代の一柱」としていますが、大山祇神が国之狭土神(国狭槌尊)の親神である点は十分に注目しなければなりません。

 大山祇神の子神・国狭槌尊の祭祀は朝倉・嘉穂・田川に多く(図表8参照)、嘉穂郡よりは、むしろ、朝倉郡に多いと云うべきでしょう。朝倉は嘉穂の山越えの西隣です。

 嘉穂を中心地にしてきた大山祇神一族は、嘉穂の地を婿神・ニニギに譲り、大山祇神の男子神・国狭槌神は隣地へ移動した、と読むことも出来ましょう。と云うのは、これは母系社会時代の上古史によく出てくる譲国・譲位形式だからです。
 
 ニニギは「阿田国主」の塩土老翁(事勝国勝長狭)に阿田国を譲り受け、その地の高貴な出自の神阿田津姫を妃に迎えています。塩土老翁は余程上位の首長だったのでしょう。大山祇神の女ムスメ神・阿田津姫を聖嫁させ、その領地も譲らせたのです。

<ニニギの降臨伝承>
 この嘉穂郡の南端・馬見山978mに、ニニギの降臨伝承があります。これを受けてか、馬見山中腹にある馬見神社の祭神は伊弉諾尊・天津彦火瓊瓊杵尊・木花咲哉姫命で、ここでは豊阿田津姫ではなく木花咲哉姫命の方が祭神名に用いられていることに気づかされます。

 また、この馬見神社近くには鎌田原弥生墳墓群があり、その規模は吉野ヶ里遺跡並みだと云われ、馬見地域の弥生神代を想像させてくれます。図表10にその略情報を載せましたのでご覧ください。

 後世、馬見神社は中腹から平地に分祀され、産土神・荒穂神社(嘉麻市大隈町牛隈、馬見大明神)が嘉麻盆地に鎮座しています。位置関係としては、その10km北の遠賀川流域に大山祇神の立岩王都(遺跡)があります。 

                              
  

<豊御毛沼命伝承の多い嘉穂郡域>
 豊御毛沼命(幼名:狭野尊、ニニギ裔・後の神武天皇)も、やはり阿田がらみの、遠戚・阿田小橋君の妹・阿比良比売を妃に迎えます。母系社会的な「妻問い」が前提の時代ですから、豊御毛沼命にまつわる伝承の多い嘉穂郡域は「阿田国」であった可能性が高い、と云えます。

 実際、「神武天皇伝承」は、悉皆調査ではないのですが、圧倒的に嘉穂郡と宗像郡に多いことは

図表7に示されています。

(6)まぼろしの阿田国

 以上のような傍証探しからすると、「阿田国」は嘉穂郡域ではないか、とも思われます。
 先に、「阿田」は広域宗像を指すとしました。だが、「広域」はその通りでも、より狭くは「嘉穂郡域」であるかも知れません。

 現在の私の「阿田国」の理解を次にまとめます。

1塩土老翁が「阿田国を譲る」と云ったから、塩土老翁の祭祀社付近が阿田国でしょう。
    ・そこは宗像郡・京都郡など玄界灘・周防灘に面した海岸部です。
2宗形朝臣の祖は阿田片隅命(事代主命裔)なので、宗像の地が阿田だった可能性が高いです。
  ・阿田片隅命を祀る四社は全て宗像郡にあり、特に宗像大社摂社や氏八幡神社は宗像内です。
  ・阿田都久志命(天日方奇日方命の亦名)は、事代主命の子で、且つ、阿田片隅命の祖ですから、

   宗形朝臣の太祖とも云える「筑紫の阿田の貴人」です。

    「宗像の地が阿田」説を更に支援しています。
3ニニギ伝承地
   ・ニニギ妃・神阿田津姫の祭祀社は嘉穂郡に多く鎮座しています。
   ・神阿田津姫の父・大山祇神の祭祀社も嘉穂郡に多い。
 ・嘉穂郡の中心地・立岩弥生遺跡に王墓あり、です。
 ・ニニギの降臨伝承は馬見山(嘉穂郡と朝倉郡の境の山)にあり、馬見神社と荒穂神社はニニギを祀り、

  注目される地域で、そこに発掘された「鎌田原墳墓群」(嘉麻市馬見123-1)は吉野ヶ里遺跡に匹敵

      する規模の弥生遺跡だ、と云われています。
4阿田を冠する神々
   ・阿田の小橋君は、神話上の海幸彦が山幸彦に赦されて分地を得た方の子孫です。豊御毛沼命

        (神武天皇)は、小橋君の妹・阿比良比売を妃に迎えます。
   ・その「神武天皇伝承」地は嘉穂郡に多く、宗像郡がそれに次ぎます。

 残念ながら、これだけの傍証を以てしても、今の処、阿田国は確定できていません。
 

 「まぼろしの如く」にしか「阿田国」が見えてきていないようです。

   しかし、踏ん張って、云いましょう。 
 

         仮説: 阿田国は宗像神領・嘉穂郡の地なり