弥生神代考5   (3)多紐細文鏡の埋納遺跡の総括

 多紐細文鏡の埋納遺跡を、その近傍の神社群をチェックしながら、総括します。この部分は、今後も中身を充実させようと、追加補充もあり得ます。基礎情報ですので、全体流れを見るだけの方は、この各論は飛ばして読んで頂けます。

(1) 原の辻遺跡(壱岐市芦辺町深江~石田町)
 

 原の辻遺跡は壱岐島東中心部の深江にあり、朝鮮半島と宇木汲田遺跡や糸島地域(三雲・吉武遺跡)との中継地だったのでしょう。
 

 「魏志倭人伝」が記す「一支国」は、島全体に拡がる約60の弥生遺跡から構成されていた、と見られています。壱岐島内の車出遺跡群、カラカミ遺跡の2遺跡と共に、原の辻遺跡は環濠集落でしたが、その集落範囲や大陸系遺物の出土量が他の2遺跡と比べて突出し、日本最古の船着き場跡も発見され、「一支国の海の王都」に特定されています。

  この原の辻遺跡からは、弥生前期末から中期前半(紀元前8世紀末~前4世紀頃、Ⅲ~Ⅳ期品)の、日本では最古の多紐細文鏡の一部と細形銅剣の破片9点が出土しています。
 

 私たちの当面の関心は「日本最古の多紐細文鏡」と「細形銅剣の共伴」の2点で十分ですが、念のため、原の辻遺跡の諸情報を次の「(弥生神代考5 (4)壱岐島の神々」に纏めましたのでご覧下さい。

(2) 宇木汲田遺跡(唐津市宇木)
 

  ここは弥生早期~後期にかけての集落と埋葬施設が出土し、弥生前期末~後期に至る時期の甕棺墓129基、木棺墓3基が見つかり、その12号木棺墓から多鈕細文鏡一面(105φ A 二鈕 Ⅳ)が、細形銅剣・銅矛・銅戈の青銅製武器、銅釧、勾玉、管玉と共に出土したのです。
 

  西は宇木汲田遺跡の在る唐津平野から平戸の里田原遺跡、東は福岡平野の東側に隣接する古賀市域辺りまでが金海式甕棺の分布域で、馬渡・束ヶ浦遺跡E地区2号甕棺墓はその東端の代表例で吉武高木3号木棺墓に遜色のない内容だ、と云います。
 

  唐津市の柏崎田島遺跡群は宇木汲田遺跡の北方にあり、ここの二遺跡(柏崎大崎・田島)からは多紐細文鏡の次に渡来した前漢鏡(日光鏡)がそれぞれ1面ずつ出土しており、宇木汲田の衰退の後を継いでいます。

(3) 佐賀市・本村篭 & 増田遺跡
 

  北西九州(唐津・佐賀中心に天山・背振山の麓)での多鈕細文鏡の出土は次の佐賀市にもあり、この地域の先進文化取り入れの有利さを背景としています。
  A 本村籠遺跡(佐賀市大和町池ノ上、嘉瀬川西岸 低段丘上)
     58号甕棺墓(弥生中期初頭、大人用)から出土の多鈕細文鏡105mmφは 弥生中期初頭のものと見られ、板状二鈕の

       蒲鉾状縁を有します。
   2号甕棺墓(弥生前期末):青銅製斧(中期初+前期末)刃部残欠が出土。
     ・多鈕細文鏡は面径10.5cm、この本村籠鏡と朝鮮の大同郡反川里の鏡(#2)は、時期がⅣ段階、型式がAⅡで同じ             と見られています。

                                 参考:1反川里#1 135φ D二鈕 Ⅳ 朝鮮 大同郡大宝面(大宝山)2 反川里#2 105φ AⅡ二鈕 Ⅳ 
    ・青銅製ヤリガンナは幅2.1cm、長さ3.4cmで、使用による研ぎ減りあり。
    ・碧玉製管玉は長さ4~7mm、径は約3mmと小さい。
    ・青銅製斧は刃部が欠損し、長方形板状をなし、幅4.2cm、長さ2.6cmを測る。
   B 増田遺跡(佐賀市鍋島町):弥生中期初頭甕棺に細片として。
        佐賀市の北西部 標高8m洪積台地上、弥生時代から室町時代の複合遺跡
      弥生前期末~中期前半の大規模な墓地(500基以上の甕棺墓と58基の木棺墓)
     ・多鈕細文鏡:三鈕 CⅣ型 Ⅴ期((90φ)×縁幅12mm(梨花洞と同型)弥生中期初頭(BC1C)の所産
    弥生中期初頭の甕棺の下甕中央の底面付近で検出、鏡は割れた状況で、残存7割
  ・遺跡周辺からは細型銅剣 銅戈鋳型 朝鮮系無紋土器も出土し、半島との関係が深い

 

(4) 吉武高木遺跡
 

 吉武高木遺跡(福岡市西区飯盛・吉武)は、早良平野を貫流する室見川中流左岸扇状地で、飯盛山東の平野部に立地し、弥生前期末から中期初頭の遺跡(金海式甕棺墓・木棺墓11基)です。その3号標石木棺墓M3(大人用)から佐賀本村籠遺跡と同時期の多鈕細文鏡1面が青銅製武器(銅剣、銅戈、銅矛の武器11口)と玉類464点と共に出土しました。
 

 早良平野では複数の武器形青銅器出土遺跡が平野最奥部にまで及んでいますが、吉武高木遺跡は弥生中期初頭までで終わりを迎え、その東50mの吉武樋渡遺跡(中期後半~後期)や吉武大石遺跡(前期末~中期後半の甕棺主体の墓地)は中期後半~後期に及んでいます。

(5) 小郡若山遺跡(福岡県小郡市小郡若山、小郡市埋蔵文化財調査センター)
 

  小郡若山遺跡(弥生前期末から中期前半の集落跡)からはやや遅れて多鈕細文鏡が出土している。
  ・小郡若山遺跡は、小郡・大板井遺跡群に含まれ、弥生中期から後期の小郡地域の中心遺跡。
   多鈕細文鏡が一度に二面見つかったのはここだけ。ほかに甕形土器一点。
   面径16cm,15.3cmの多鈕細文鏡はほぼ完形で鋳上がりも良い。
   ・集落内の直径と深さが40cm弱の小さな土坑穴で、鏡面をあわせた形で埋され、水平に置かれて

    いた。穴は土器でふさがされ、土器には穴が開けられていた。
     ・類似性:小郡若山 埋納 153φ B 二鈕 Ⅴ、小郡若山 埋納 160φ B 二鈕 Ⅴ 
          御所長柄 埋納 156φ B 二鈕 Ⅴ (奈良県御所市名柄字田中60) 


(6) 梶栗浜遺跡(下関市安岡梶栗浜) 大人用石棺墓から出土。副葬品。鏡径8.8cm
 

 弥生前期末~弥生中期の墓地遺跡。響灘に面し現海岸線から500m入った標高3.5mの地に南北に長く存在する。近くにある、綾羅木郷遺跡、延行条理遺跡、秋根遺跡(朝鮮式土器の出土あり)、伊倉遺跡は一括りにして下関響灘遺跡群としてその特徴を捉えることが出来ましょう。
   大正2年、現山陰線敷設工事の際、箱式石棺から多鈕細文鏡1面が細形銅剣2口と共に出土。
   昭和7年・同10年にも各1口の細形銅剣を発見。
   昭和32年、この遺跡が組合式箱式石棺や石囲を主体とする埋葬遺跡だと解り、この他にも、木棺や合蓋壺棺に

                        よる埋葬も確認。埋葬主体の直上の旧表に、墓標または墓域を示す列石・積石状の遺構が築かれ、

                        その傍らに1〜2個の壺が供献されていた。
       ・出土土器は、全て弥生前期末の様式であり、墓地が営まれた時期を確定した。
   昭和47年、弥生中期の埋葬施設を検出。


(7) 大県遺跡(大阪府柏原市、東京国立博物館蔵)弥生中期~後期。出土遺構&用途不明。
 

  ・「高尾山山頂遺跡」(高地性集落跡、弥生後期から古墳初期)で、大正14年、「多紐細文鏡」(径21.7cmの最大

   サイズ)が山頂から南に続くぶどう畑(大県切山の30度近い急斜面)の開墾中に発見された。
  ・ 山麓の「大県遺跡」(古墳期~奈良時代の遺跡)は、渡来系鍛冶技術集団の集落遺跡で、多数の韓式土器・鉄縡など

         が出土している。

(8) 名柄遺跡(奈良県御所市名柄宮)
 

    ・長柄神社西の名柄遺跡(弥生中期)の祭祀土抗穴から、小型の銅鐸と共に出土。直径15.5cm。

   柏原市の鏡と同じ鋳型か?、小郡若山の二鏡と同型 

(9) 社宮司遺跡(佐久市野沢地区)弥生中期。出土遺構・用途不明。

 

      鏡径推定10.0cm(鏡の断片のみ)破片を加工し二つの孔をあけて呪符か護符に転用された形で出土した。

(10) 須玖タカウタ遺跡・・毎日新聞 2015年05月27日
 

  ・須玖タカウタ遺跡は、「魏志倭人伝」に登場する「奴国」王都とされる須玖遺跡群の中核・須玖岡本遺跡の

         約200m西にあり、多鈕鏡の鋳型(弥生中期前半=紀元前2世紀)が国内で初めて出土。
    ・国内最古の青銅鏡鋳型で、国内の青銅鏡生産の開始時期が200~150年さかのぼる。多鈕鏡は、最初期流入の

         朝鮮半島製青銅鏡とされていたが、今回の出土で国内生産の可能性も出てきた。
  ・出土鋳型は長さ5.1cm、幅2.5cm、厚さ2.3cm、重さ39gの滑石製。


<付属資料>多紐細文鏡とは何か
 

 多鈕細文鏡に関するこれまでの説明記述ネット上の情報を次に要約します。

                                ソースが多様なため、必ずしも 内容は統一されてはいませんが、・・。

 (1) その形式:

       多鈕細文鏡は、鏡の裏面に紐を通す鈕が2、3個付いているので多鈕と呼ばれ、細線の幾何学
   紋様を施した朝鮮半島系の銅鏡です。
   <鏡の形状・文様>多鈕とは、通常鏡の背面にある鈕(紐を通す穴)は一つだが、これが複数あ

                                  るものを多鈕と呼ぶ。多鈕細文鏡は、通常2,3個の鈕を持つ。
         ・円で区画された内・外区には直線で幾何学文様が描かれ、縁断面が半円形である。
         ・細文とは、何千、何万という細線文様が有ることから付けられた。

                   この鏡は、このような細線を描くことが可能な鋳型で製作されたと考えられ、他の

                   鏡の表が殆ど凸面なのに対して、この鏡は凹面になっている事も大きな特徴である。
         ・多鈕細文鏡は、中国系の漢式鏡とは異なり、片寄った位置に二個の鼓形の鈕が並ぶ。
                    鏡背には鏡縁・外区・内圏帯・内区から構成され、縁は断面蒲鉾形を呈し、全体は

                    凹面を成しています。

                    鏡面が凹面を成すのは、この種の鏡の大きな特徴で、鏡背には極めて緻密な幾何学

                    文が鋳出されて、繊細かつ幾何学 美に溢れた鏡です。
 (2) 起源&制作時期:

      紀元前7~前6世紀の中国遼寧地方に起源を持ち、朝鮮半島と日本の遺跡で出土する青銅製舶載        鏡で、紀元前200年頃に朝鮮半島で製作された。
 (3) 渡来時期:多鈕細文鏡は、前漢鏡の伝来に先立って、弥生前期末から中期初頭に日本に流入し

      たらしい。弥生中期前半とする見方もある。
         ・この鏡は、朝鮮半島を中心に一部は遼寧省や沿海州など東北アジアの一角に拡がり、

                    弥生時代中期前半になると、日本古来の勾玉などと共に副葬品に加わった。
 (4) 漢鏡への交代:多鈕細文鏡流行期より50~100年後の弥生時代中期後半に、中国の前漢鏡が

                   大量にもたらされ、多鈕細文鏡は姿を消してしまう。
           ・前漢鏡・後漢鏡の殆どが北九州域内にのみ普及し、畿内には渡っていない。
 (5) 用途諸説:

          1弥生人の権威の象徴、また、シャーマンの祭祀具でもあった。
         ・日本の鏡は本来の目的を離れ、次第に大型化して、純粋に祭祀用具として用いられる

                    ようになった。古事記には、鏡を榊の枝につるすという表現が見える。
                 ・中国東北部の顎倫春(オロチョン)族には、祭祀行事に神と人間の交信の仲立ちをする

                    司祭者(シャーマン)がいる。その衣装には、鈕に通した紐で鏡が下げられ、光り輝く鏡

                    は神との交信を行う最も重要な道具として使用された。
                 ・日本の古代でも、シャーマン的な性格が強い支配者達がこのような使い方で自らの権

                    威を高めたのかもしれない。
             ・地域の支配者の墓に一死者一面に限らず、中国や朝鮮半島には例のない程の大量埋納

                    が行われた。この習俗は、倭人社会特有の現象で、古墳時代にまで継続された。
      2化粧道具ではないかという見解もある。
      3太陽光を集めて火をとる採火器・陽燧(ようすい)目的だとの見解もある。
 (6) 出土状況:朝鮮半島では29面以上知られ、日本では11面見つかっている。
           ・原の辻と増田遺跡の鏡は、欠片だけだから、これを入れないと9面になる。
       ・発見された数が朝鮮の方が多いためか朝鮮半島を経由して日本に伝わったと書かれ

                    ているものや、朝鮮特有の鏡と書かれているものがある。
       ・中国から直接もたらされたと考える学者もいるらしい。
               (出所)ネット情報1多紐細文鏡 - e国宝、

                                      2多鈕細文鏡 - Wikipedia、

                                      3多紐細文鏡の画像、
                      4http://www001.upp.so-net.ne.jp/wi12000/forGmap/html/tatyu.html
                     「韓半島の青銅器研究と弥生時代青銅器2010」宮里修(季刊考古学、第113号39-42頁)