記紀神代巻にある「国譲り」神話はフィクションでしかありませんし、その創作性は極めて高いと判断されます。そのわけは「宗像女神は高皇産霊命の女」説により全て説明されますので、ここで改めて、次の図表で「宗像女神は高皇産霊命の女」説を確認します。


    

 

 この系譜を確認した上で、ここから一歩前進して、私が、「出雲国譲り神話」に否定的で、それが全くのフィクションだと思う理由を述べましょう。

1「出雲での国譲り神話」はその内容構成も事実性も認め難い。

1)高皇産霊命の「大物主神に三穂津姫を娶せる」勅は虚構(フィクション)である
 高皇産霊命の「大物主神に三穂津姫を娶せる」勅は虚構(フィクション)であると思います。その第1の理由は、高皇産霊命の「大物主神に三穂津姫を娶せる」勅が全く合理的ではないからです。「日本書紀」の国譲り神話の後段(一書第二)も、「先代旧事本紀・(巻三)天神本紀」も略々同文意で、次のような「勅」が書かれています。

  時に、高皇産霊命が大物主神に勅されるのに、「お前がもし国つ神を妻とするなら、私はお 前がなお心を許していないと考える。それで、いまわが娘の三穂津姫をお前に娶せて妻とさせたい。八十万の神達を引きつれて、永く皇孫のために守って欲しい」と云われて還り降らせられた。

        ・「日本書紀(上)」講談社・現代学術文庫66頁
    ・「先代旧事本紀」ネット:現代語訳 http://mononobe.digiweb.jp/kujihongi/yaku/)

 ところが、 高皇産霊命の「大物主神に三穂津姫を娶せる」勅は、尤もらしく聞こえながら、上の図表に示すように、既に大物主神(大国主命)は高皇産霊命の女むすめに当たる二柱の宗像女神を娶っているのですから、「わが女を娶れ」とは、今更の勅であり、何とも訝しく、可笑しい。

 「宗像女神が高皇産霊命の女であること」を伏せておいた場合にのみ、その勅の趣旨は理解できますが、一度、「宗像女神が高皇産霊命の女であること」を知ると、何でそんなことを云うのか、と反問したくなるような、作為に満ちた「勅」に思われるのです。
 神話作者が、高皇産霊命にこのようなことを云わせるのはナンセンスと云うべきでしょう。

 従って、「三穂津姫」は、神話作者が神話ストーリーのために捻出した女神だ、と思われます。 

 後世、神話に合わせるかのように、三穂津姫を祀る多くの神社が創建されますが、辻褄合わせが図られたか、神話を尊重して、祭祀したのではないでしょうか。
 注 三穂津姫の祭祀神社の例:
        (島根) ・美保神社      (出雲、松江市美保関町美保関)            事代主神と共祀
          ・三穂津姫神社      (揖夜神社境内、松江市東出雲町揖屋宮山)
            ・三保神社      (内神社境内、松江市大垣町)
            ・三保社       (久武神社境内、出雲市斐川町出西字随心)
            ・三穂社       (須佐神社境内、出雲市佐田町須佐)
         (鳥取)  ・大江神社       (八頭郡八頭町橋本)
          ・都波只知上神社      (鳥取市河原町佐貫)
       (京都)  ・出雲大神宮      (丹波、亀岡市千歳町千歳)             大国主神と共に主祭神
       (奈良)  ・村屋坐弥冨都比売神社(磯城郡田原本町蔵堂)                      大物主神と共に主祭神
       (山口)  ・佐波神社       (防府市惣社町)
                   ・杜屋神社      (下関市豊浦町黒井杜屋町)
     (岡山)  ・大神神社         (岡山市中区四御神土師之森)
     (石川)  ・神杉伊豆牟比咩神社(鳳珠郡穴水町中居)
        (香川)   ・三穂津姫社        (金刀比羅宮境内、仲多度郡琴平町)
    (栃木)  ・女体宮           (二荒山神社境内、宇都宮市馬場通り)
    (三重)  ・神戸神社          (伊賀市上神戸)
    (岐阜)  ・水無神社          (高山市一之宮町石原)
      (静岡) ・御穂神社        (静岡市清水区清水区三保)                   三穂津彦命と共祀

    (埼玉)  ・氷川女體神社        (さいたま市緑区宮本)

 「国津神の女を娶らず、吾が女・三穂姫を娶れ」との高皇産霊命の勅は、国譲り物語の創作要素として神話作者が編み出した虚構だ、と見られます。実際は、その時既に、大国主命は高皇産霊命の二女をも妃に迎えているのですから、「今更、何おおっしゃいますか。私は貴方さまの二女を妻としているではありませんか」と言う大国主命の声が聞こえてきそうです。
 

  「古事記」の大国主命神裔譜が神屋楯姫命の出自を隠したのはこの辻褄合わせのためだったかも知れません。そう云えば、日本書紀は神裔譜を出来るだけ示そうとしません。

 意図を持って「物語」を纏めようとする場合、或る事実を記述しないことによって、その意図にそぐわない要素を切り捨て、隠してしまうことは間々あるのです。しかし、物語が大きいと、作者独りで物語を構成する場合でも、或いは幾人かの作者で分担してそれを纏めようとする場合でも、その行為は細部での記述が相互に矛盾し、全体としては破綻している事があるのです。完全犯罪はなかなか難しいのです。この場合がそれです。

 記紀神話作者は、「宗像女神が高皇産霊命の女である」との事実を意図的に隠すようにして、神話を創作していたのです。宗像三女神が高皇産霊命の子であることは伏せられていましたが、諸史料を照合すると、矛盾が浮かび上がり、古代史の隠されていた一断面が浮上したのです。

 この天孫降臨と皇孫の葦原中津国支配の正当性を主張するために、記紀神話には様々な作為が織り込まれ、或いは、重要要素が削除されたのでしょう。
 神話作者は「宗像女神」の真実を隠して、記紀神話を構成していました。その隠された真実が明らかとなると、記紀神話は大きく綻びました。この「女神物語」の冒頭に「宗像女神」を持ってきたのは故なきことではなかったのです。

 九州の現地に赴き、「宗像女神の九州伝承」(弥生神代考3)を追うと、「鎮西彦山縁起」と「楯崎神社伝承」に遭遇しました。すると、この二縁起では、大国主命が宗像女神二柱を妃としたことを明記し、先代旧事本紀(地祇本紀)の記述と一致しているのです。
 本ブログの冒頭では「諸史料照合法」でこれを解明し、「大発見」した積もりでしたが、九州伝承は、「鎮西彦山縁起」も「楯崎神社伝承」も、既にそのことを明らかにしていたのです。

 更に、この「縁起」は、天忍穂耳尊への彦山譲りの後、大国主命が宗像女神と共に許斐山へ移動した、と明かしています。 この「彦山譲り」こそ「大国主命の国譲り伝承」なのだと思います。

2)記紀の「国譲り神話」における事代主命に関する記述は信用できない

 事代主命について、「国譲り神話」での貶めと「日本書紀」のその後の評価は対照的です。
 大国主命の国譲りに際して、事代主命が「青柴垣」を作り、舟を傾けて、海中に没したと云う

  「青芝垣神事」のような「事代主命の海没事件」も認め難いです。
 事代主神の神性の高さは記紀の随所に読み取れます。既に記しましたが、再掲しましょう。
   先ず、事代主神は皇祖神・高皇産霊命の外孫であり、宮中八神殿に祀られている八神の一柱です。

 それなのに「国譲り神話」では神話作者に事代主命は自殺させられているのです。

 余りにも矛盾していませんか。
      参照:1)「宗像女神は高皇産霊命の女」説は謎を解く(1)事代主神の系譜
          2)「宗像女神は高皇産霊命の女」説は謎を解く(2)「宮中八神殿」で事代主命祭祀の理由

 

 神武紀では、神武天皇の皇后・媛蹈韛五十鈴媛命は事代主命の女むすめだから、事代主命は神武天皇の岳父でもあります。「先代旧事本紀」(天孫本紀)によれば、事代主命の子・天日方奇日方命は、宇摩志麻治命と共に、神武天皇の食国政事大夫(後の大連・大臣に相当)に任じられているのです。
 更に後には、神功皇后は三韓征伐に際して、事代主神に祈り、神徳を得たとされます。
 
 この事代主命については怨霊・鎮魂の話(記述)を聞きません。「青柴垣」神事に怨霊鎮魂の狙いがあるのでしょうか。因みに、古代の怨霊は次の様な例が「日本書紀」などに伝わります。
    例1 長屋王     ・・奈良・東大寺に鎮魂、
    例2 井上内親王(光仁天皇皇后)・他戸親王(光仁天皇皇子)・早良親王(崇道天皇、光仁天皇皇子)・藤原大夫神

            (藤原吉子、桓武天皇皇子・伊予親王の母)・文屋宮田麿・橘大夫(橘逸勢)
           ・・京都の上御霊神社・下御霊神社、奈良の祟道天皇社に鎮魂、
    例3 大友皇子  ・・大津・御霊神社に鎮まる。
      例4  明智光秀   ・・福知山・御霊神社に鎮まる。


   要するに、「国譲り神話」における事代主命に関する記述は信用できないのです。
 勿論、高皇産霊命が大国主命に下した「三穂姫を娶れ」勅も信用できないのです。

 

3)神話作者は「国譲り神話」の状況設定を意図的に間違えたか。
 これまで、国譲り神話への疑義を挟む学者先生たちは確かに居ました。
 

 その最も素朴で根底的な疑問は鳥越憲三郎先生によるものでしょう。
  「国譲りの談判が成立し、いよいよ天孫を天から降ろすことになったのに、その降り着いたところは、九州の最南端にある薩摩半島の、しかもその先端の笠沙の岬であった。地理の上からみると、現在的常識では理解できないことである。」・・「神々と天皇の間」(朝日文庫)210頁

 井上光貞先生は、あの爆発的なヒットとなった、「日本の歴史1神話から歴史へ」(中公文庫)を書いた碩学です。その82頁にはこうあります。
 「天忍穂耳尊を地上に降ろす時、その地点が、出雲でなく日向であったとされていること相まって、神代史の構想それ自身として、大きな矛盾を犯していると云える」

 お二人には、疑問投げかけや矛盾指摘から一歩踏み出して、その疑問なり、矛盾の原因を解明して欲しかったところです。これは難問ですから、いい加減な解明はかえって不信を買うかも知れませんが、シロウトの私が、敢えて、一考察を提出いたします。

 私は、「国譲り神話」の作者が何らかの意図を働かせたのではないか、と推測します。

   或いは、その手元に収集した資料の不備やスジ読みに錯誤があったのかも知れません。

 最大の可能性は、神話作者に「ドラマチックな神話創りへの意欲」が大き過ぎたことでしょう。

 神話作者は、全体的にドラマチックに描写しようとしているように見えます。

 その場合、国譲りの交渉場所を「出雲」に設定しないと、このドラマは迫力を欠く、と神話作者は考えたのではないでしょうか。

 その冒頭は、次のように始まります。「二柱の神は、五十田狭の小汀(記:伊那佐の小浜)に十握剣を逆さまに大地に突き立て膝を立て・・」と。・・「日本書紀」(講談社学術文庫)57頁
 そして、この後に続く「国譲り神話」の諸場面もドラマチックに描かれ、立派にストーリー構成されていますので、この「国譲り神話」は、虚構ではありますが、それなりに「一幅の絵」になっているのです。

 神宝検校を受けたり、神宝を献上するのは一種の服従・帰順を意味しますが、出雲での大和朝廷への神宝検校・神宝献上は、弥生神代よりずっと後の古墳前期(崇神朝~垂仁朝)に行われています。
 これは、それまでは各地に割拠する首長と同様に、この頃までは出雲も独立していたことを示唆します。

 <日本書紀・崇神天皇60年秋7月14日条>

 群臣に詔した。「武日照命が天より持参の神宝が出雲大神の宮に収められている。是非、これを見たい。」矢田部造の遠祖の武諸隅を派遣して献上させた。飯入根は、兄・振根の不在中に、神宝を献上したが、兄・振根はそれに怒って弟を殺す。すると、ヤマト朝廷は、吉備津彦と武渟河別を派遣して、振根を殺させた。

  <日本書紀・崇神天皇26年安芸8月3日条>出雲2:物部十千大連に詔して「出雲神宝を現地に行き検校せよ」と。
 

従って、この間の流れは、次のようなシナリオに読むと良いでしょう。
 1大国主命は、天忍穂耳尊に(英)彦山を譲った後、玄海灘に面する宗像郡域へ移動します。
 2その後、何らかの理由で、主力は元々の拠点・出雲地域に引き上げ、宗像との交流は続きます。

 3大国主命およびその後継出雲集団は、古志(北陸~新潟)から会津~中通りへと展開して行き、基本  

  的には独立性を保っていたものの、その展開が周辺指向だったため、中原に覇を唱える、と云い

  ますか、政治の中心に位置することが出来なかったのです。
 4ヤマト朝廷が次第に強大化してくると、崇神朝~垂仁朝になって、出雲は神宝の検校を受け、

  あまつさえ神宝を献上し、服従的な「出雲国造神賀詞(かみよごと)」を読み上げさせられるなど劣

  勢・服従的な立場になったのでした。

 もう一つ感じられるのは、神話作者が「国譲り神話の中へ込めようとした天孫支配の正当化の信念」が強い事です。

 勅を下したり、出雲の砂浜に十握剣を突き刺したり、のドラマを盛り上げていますが、実際の国譲りは、「出雲」ではなく、「(英)彦山」(北東九州)で行われた、と思われます。

4)国譲りは、出雲ではなく、彦山で行われた

 出雲勢力が北東九州に展開していたのは事実でしょう。
 朝倉には大国主命を祭神とする式内古社が鎮座するなど、大国主命奉祭の痕跡が遺ります。

    参考 大己貴神社(朝倉郡筑前町弥永)式内社 筑前國夜湏郡 於保奈牟智神社、県社

         祭神:大己貴命  相殿:(東)天照皇大神、(西) 春日大神

               美奈宜神社(朝倉市林田)式内社 筑前國下座郡「美奈宜神社三座」論社の一

         祭神:大国主命・素盞嗚尊・事代主命の出雲三神

                                    背後に、筑前國にある他の式内社十社を「十九神」として並べ祀る。
  

 その出雲勢力が彦山に拠点を持っていた時、天孫族・天忍穂耳尊集団が到来したのです。

 この時の「国譲り」伝承は、最も典型的には 「鎮西彦山縁起」に明記されています。
 「大国主命は、宗像女神二柱を娶り、英彦山に居を構えていた。そこへ天孫族・天忍穂耳尊が移動してきて、天孫族と出雲族とが接触し、大国主命は天忍穂耳尊に彦山を譲ります。大国主命は、(玄界灘に面する宗像津屋崎の)許斐山に移った。」と。

 また、「楯崎神社縁起」にもこの伝承の裏付けが残っています。 

 これが九州現地での「国譲り伝承」です。
 

 従って、この記紀が伝える「国譲り」の実際の場は、「出雲」ではなく、北東九州の「英彦山」で起こった可能性が高いのです。しかも、神話作者が描く程にはドラマチックではなかった、と思われます。国譲り神話の原形は案外こんな処にあるのではないでしょうか。
 

 北東九州で出雲族の展開があった事実、そして、出雲族と後来の天孫族との接触が彦山であった事実を知っていたとしても、記紀神話作者は、彦山での安穏な国譲りではドラマにならないと見て、一挙に「出雲」を押し出して、そこでの国譲り神話ドラマを創作したのです。

 「出雲での国譲り交渉なのに天孫は九州に降臨したのは何故か、判らない」との鳥越憲三郎先生の疑問も、「神代史の矛盾だ」として井上光貞先生が指摘する訝しさは、これで一応読めたと思います。

 この北九州伝承は、江戸期の縁起文書に依存してはいるものの、これを無視、乃至、知ろうとしなければ、そして、記紀の伝える「国譲り神話」のみを取り上げて議論しても、神話の含む虚構性は理解し難いのです。

 因みに、「出雲風土記」に「国譲り神話」が一切出てこないのも、これで判るのです。

 追記:近く、弥生神代考5:「天降り・天孫降臨の考察」を論じます。

    そこでは「九州における諸神降臨の伝承」、及び、「天孫降臨神の素性の考察」で天降りに

    触れます。ご期待下さい。