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海の武士道 〜 伊東祐亨と丁汝昌

 

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      国史百景(22) 海の武士道 〜 伊東祐亨と丁汝昌

 

 連合艦隊司令長官・伊東祐亨の清国北洋艦隊提督・丁汝昌への思いやりは世界を驚かせた。

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産経書評「第1章に登場するのは、大村智さん、近藤亨さん、イラクのサマワに派遣された自衛隊、皇太子殿下である。同じ空気を吸う人々を冒頭で紹介することで、著者は読者に気付きと勇気を与えようとしている」 pic.twitter.com/YwJTvwf5rR

 

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■1.「日本艦隊が、まるでひとつの生きもののように」

 

 明治27(1894)年9月17日の日清戦争における黄海海戦は、1866年にオーストリアとイタリアが戦ったリッサ海戦以来、およそ30年ぶりの艦隊同士の決戦であった。その間にそれまでの木造艦に替わって、鉄や鋼で防備を固めた装甲艦が中心となっていた。

 

 装甲艦どうしの艦隊決戦がどのようなものか、世界の注目を浴びて、イギリス、フランス、ドイツ、アメリカ、ロシア各国の軍艦が、

観戦のために黄海に集まっていた。

 

 勝利は清国7割、日本3割というのが世界の大方の予想だった。なにしろ清国艦隊の主力艦「定遠」「鎮遠」は排水量7335トン、世界最大級、最新鋭の巨艦であった。一方の日本の主力艦「松島」「厳島」「橋立」は4278トンと半分近くの大きさでしかない。

 

 しかし日本艦隊は高速性を生かして二手に分かれて清国艦隊を挟撃し、小口径ながら速射砲で砲弾を雨あられと浴びせかけた。「鎮遠」に乗っていた米国顧問マクギフィン海軍少佐は次のように記している。

 

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 日本艦隊が、まるでひとつの生きもののように、・・・有利な形で攻撃を反復したのには、驚嘆するほかなかった。清国艦隊は守勢にたち、混乱した陣型で応戦するだけだった。[1, p448]

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 4時間余りの海戦で、清国艦隊は4隻が撃沈され、1隻が擱座(座礁)自沈したのに対し、日本艦隊は2隻大破、2隻中破と損害は大きかったものの1隻も失わなかった。日本艦隊の完勝だった。

 

 

■2.「長官、ご無事でありましたか」

 

 兵員の志気においても格段の違いがあった。旗艦「松島」は「鎮遠」の30センチ砲弾が左舷に命中し、鋼鉄の舷板が10メートル余り吹き飛ばされて、艦骨が露わになった。28人が戦死、68人が重軽傷を負った。死屍累々として、鮮血が甲板に溢れた。

 

 連合艦隊司令長官・伊東祐亨(ゆうこう/すけゆき)は破損状況を見聞するため、艦橋から甲板に降りた。負傷者収容所の横を通りすぎようとした時、顔面が火傷で紫色に腫れ上がった水兵が伊東を認めると、力を振り絞って足元に這い寄り、「長官、ご無事でありましたか」とかすれた声を出した。

 

 伊東は、その気持を察し、その水兵の手をしっかりと握り、「伊東はこのとおり大丈夫じゃ、安心せよ」と、二、三度足踏みをしてみせた。それを見た水兵は、さも安心したように「長官がご無事なら戦いは勝ちです。万歳!」と、かすかに言い終えると、頭を垂れて息絶えた。伊東は頬に涙を伝わらせながら、しばらくはじっと水兵の手を離さずにいた。

 

 一方、清国艦隊の最左翼にいた「済遠」は、日本艦隊から砲撃を受けると艦首を巡らせて、逃走を図った。「鎮遠」の艦長・林泰曾は憤って、逃げる「済遠」をめがけて砲を放ったが、「済遠」は脇目もふらず遁走した。

 

 海戦が終わって敗残の北洋艦隊が翌朝、旅順口に入港すると、「済遠」は無傷で安閑とこれを迎えた。怒った丁汝昌提督は、「済遠」艦長を軍法会議にかけて、即日銃殺刑に処した。

 

 

■3.「日本武士道精神の精華」

 

 黄海の制海権を得た日本軍は、朝鮮半島の付け根から西側に伸びた遼東半島の先端部、旅順口をわずか一日で落とした。北洋艦隊はその対岸に伸びた山東半島の威海衛に逃げ込んだ。

 

 この北洋艦隊の根拠地、威海衛を、伊東はそれまでに2度、訪ねたことがあり、丁とは肝胆照らす仲だった。8年前の明治20(1887)年に、伊東が小艦隊を率いて威海衛を訪問した際に、丁は非常な歓迎をしてくれた。

 

 その後、丁が2度、北洋艦隊とともに日本を訪問した際には、伊東が歓迎した。2年前の明治26(1893)年にも、伊東は「松島」以下3艦とともに、威海衛を訪問している。この時も、丁は心を尽くして日本艦隊を歓迎した。伊東と丁の間もうちとけて、まるで兄弟のようになって、写真の交換までしたほどであった。

 

 伊東も丁も東洋的武士道の体現者であり、しかも日清それぞれの海軍の育ての親でもあった。言わば、二人の心中は「海の武士道」によって深く結ばれていたのである。伊東はなんとか丁の生命を救いたいと思い、降伏を勧める文書を送った。

 

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 謹んで一書を丁提督閣下に呈す。時局の変遷は、不幸にも僕と閣下をして相敵たらしむるに至れり。しかれども今世の戦争は、国と国との戦いなり、一人と一人との反目に非ず。すなわち僕と閣下との友情は、依然として昔日の温を保てり。[2, p289]

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 と、互いの友情を確認した上で、日本が明治維新を通じて近代化に成功したように、清国も近代化が必要であることを説き、丁にしばらく日本でその時節を待ってはどうか、と勧めたのである。その際は、天皇陛下が閣下を厚くもてなすことは僕が誓う、とまで言った。

 

 各国はこの書を「日本武士道精神の精華として、最も鑽仰(さんぎょう)すべきことであり、世界の海軍礼節として、大いに範とすべき快事である」と評した。

 

 丁汝昌は書信を呼んで、深い感動を覚えたらしく、文書を幾度も読み直してから、眼をとじたまま、しばらくは一語も発しなかった。

 

 そして各艦長を呼んで、この書信の内容を説明し、「伊東中将の友誼は感ずるに余りある。しかし、われわれ軍人の胸にあるのは尽忠報国の大義のみである。一死をもって臣たる者の道を全うしようではないか」と語った。その言葉を聞いた諸将はみな感服し、提督と生死をともにすることを誓い合った。

 

 

■4.「君国のために、どうぞ一命をなげうって成功して下さい」

 

 やむなく伊東は、水雷艇による港内への夜襲を決心した。2月3日、水雷艇の司令たちを旗艦「松島」に招いて訓示を与えた。

 

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 敵の港内に侵入して攻撃することは、水雷艇が出来て以来、世界の戦史に例を見ないことであるから、まさに至難の難事である。死を覚悟すべきは無論である。

 

 貴官らにそれを命ずることは、伊東としては辛いことであるが、君国のために、どうぞ一命をなげうって成功して下さい。[1,p465]

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 伊東の人柄をにじませた丁重な訓示であった。司令たちは、顔色ひとつ変えずに答えた。「承知いたしました。われわれは黄海の海戦では、ただ指をくわえて眺めていました。いま死場所を与えて下さったことをありがたく思います」

 

 

■5.「三勇士の遺体を手厚く葬るように」

 

 北洋艦隊は、水雷艇の夜襲に気がつくと、サーチライトで狂ったように海面を照らし、機関砲を打ちまくった。水雷艇の一隻は「定遠」に300メートルまで接近し、魚雷を発射して旋回しようとした瞬間に、銃弾を機関に浴びて、白い水蒸気が闇の中に上がった。

 

「定遠」の兵員は快哉を叫んだが、それと同時に艦底に轟音が轟き、凄まじい震動が伝わった。魚雷が命中した箇所から海水が激流となって入り込み、艦体は傾き始めた。丁は、艦を付近の浅瀬に乗り上げさせて、乗員を退艦させ、「定遠」は打ち捨てられた。

 

 翌朝、銃撃された水雷艇が発見された。なかには日本兵の死体が三体見つかった。いずれも洗濯した下着に、折り目のついた軍服を着て、微笑んでいるような満足な死に顔をしていた。丁は遺体に対してうやうやしく敬礼し、三勇士の遺体を手厚く葬るように命じた。

 

 水雷艇の夜襲攻撃で「定遠」を含め4隻が失われ、北洋艦隊は大きな打撃を受けた。さらに伊東は全艦隊を威海衛湾口に集結させて艦砲射撃を行い、ここに北洋艦隊は戦闘力をほとんど失った。

 

 

■6.「深く生霊(生き残った兵員)のために感激す」

 

 2月12日朝、メインマストに白旗を掲げた砲艦「鎮北号」が威海衛から出て、「松島」に近づいてきた。やってきた軍使は、丁からの「乞降書(降伏を乞う書)」をうやうやしく伊東に捧げた。

 

 それには「すべての艦船と港内の砲台を献ずるので、兵員の命を助けて欲しい。承諾いただけるなら、英国司令長官を証人としたい」とあった。

 

 伊東はこれを了承し、しかも丁と諸将を捕虜とはせずに、清国の適当な地まで送り届けること、丁の名誉に信を措くので保証人は不要であることを返書に述べた。

 

 翌日、再び丁からの使者が来て、「深く生霊(生き残った兵員)のために感激す」との返答書を持ってきた。使者はこう伝えた。

 

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 提督は昨日私が返書をお届けしますと、伊東閣下の仁慈のお心を知って感泣なさいました。そしてこの返答書をしたためられるや、「いまは思い残すところなし」とおっしゃり、はるか北京の空を拝してから毒杯を呷(あお)って自殺なされたのです。[2, p303]

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 伊東は息を呑んだ。いま読み終えたばかりの返答書が丁の遺書だったとは。

 

 

■7.「国難に殉じたその亡骸が粗悪なジャンクに載せられるとは」

 

 その日の夕刻から、清国代表との降伏手続きについての協議が深夜12時まで続いた。あとは明日午後2時に再開と決まって、葡萄酒で労(ねぎら)ううちに、島村速雄参謀が「ところで失礼ですが、丁提督の亡骸(なきがら)はどうなされるおつもりか」と訊ねた。

 

 清国代表はこう答えた。「威海衛構内の艦船はすべて貴国のものですから、提督の柩(ひつぎ)を運ぶ船はありません。いずれ、ほかの死体と一緒にジャンクかなにかに乗せて、芝罘(チーフー、山東半島北部の港湾都市)へ送ることになるでしょう」 ジャンクとは平底の木造帆船である。

 

 翌日2時から再開された協議が大方終わって、一息入れた時、それまで細部の詰めを島村に任せていた伊東が、やおら上体をテーブルの上に乗り出すようにして、「参謀、通訳せよ」と言った。

 

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 昨夜代表は、丁提督の柩はジャンクででも運ぶといわれた。しかし丁提督はまことに忠義の士であって、もしも北洋水師が健在ならば、その柩をゆだねられるべきは「定遠」か「鎮遠」でありましょう。

 

 それがいかに敗軍の将となったためとはいえ、国難に殉じたその亡骸が粗悪なジャンクに載せられるとは、智・仁・勇を重んずる大和武士のはしくれとして看過いたすには偲びざるものがあります。[2,p308]

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 話すうちに眼を潤ませ、口ひげを振るわせていた伊東は一気に続けた。

 

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 ここにおいて・・・本官は提案したい。わが方は、貴方所有の運送船のうち「康済号」のみは収容せず、貴方に交付します。ですからこれに丁提督の御遺体と遺品とを乗せ、なお余裕あらば将士も運ぶことにする、と。

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 宣戦講和・条約締結は天皇の大権に属し、いかに司令官とはいえ、戦利品の一部を勝手に敵国に返還することは許されない。伊東は自分に確かめるように言った。

 

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 本官は、おそれながら大御心もかくあらせられると信じております。お咎めがありましたら、本官も丁提督のように一死をもってお詫びいたすだけのこと。

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 清国代表は肩を震わせて、深く頭を下げた。

 

 

■8.「伊東よ、もうよい」

 

 2月17日朝、連合艦隊が威海衛に入港した。かつて軍艦22隻、総排水量5万トン強を誇った北洋艦隊は、すでに10隻1万5千トンしか残っておらず、それらがすべて連合艦隊に引き渡される。

 

 その日の夕刻、これら残存艦の間から、大型輸送船が抜け出した。丁提督の柩を乗せた「康済号」であった。連合艦隊の全将士が舷側に並んで敬礼をする登舷礼式で「康済号」を見送った。「松島」後方の主砲が弔砲を撃った。ゆっくり前を進む「康済号」にむかって、伊東も荘重な敬礼を送った。

 

 一夜明けて、清国は休戦会議の開催を申し入れてきた。ここに日清戦争はようやく幕を下ろそうとしていた。

 

 2月27日、伊東は帰朝を命ぜられ、3月3日に広島宇品港に着くと、すぐに「広島大本営」に向かった。「大本営」とは言っても、粗末な木造2階建てで、明治天皇は前線将兵の労苦を偲ばれて、その一室に起居されていた。

 

 伊東は天皇に対し、戦闘経過を伝える軍令状を淡々と読み上げ、それが終わると、自分個人の判断で「康済号」を交付した事に触れた。天皇は、よく分かっているというように、「伊東よ、もうよい」と言われた。伊東の処置に十分満足されているようだった。

 

 すでに2月22日付け『東京日日新聞』には、伊東と丁の間に交わされた計4通の文書が全文掲載されていた。天皇と海軍首脳は、伊東の処置を日本武士道に適ったものとして高く評価し、公表に踏み切っていたのである。伊東の丁汝昌への礼節はタイムズ紙にも報道され、世界を驚かせた[3]。

(文責:伊勢雅臣)

 

 

 

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投稿者: shin ★★★★★ まずは小学生に読ませたい

 

 小さい頃から自国に誇りを持てる教育をするべきだと今更ながら痛感しています。なぜなら、私は10年ほど前までは日本は悪いことをしたと思っていたからです。これは、正しい近代史が教えられておらず、欧米視点の歴史観を鵜呑みにしていたからに他なりません。

 

 外国に行って初めてわかりましたが、自分の生まれ育った国に誇りが持てないのは悲しいことです。教育現場やマスコミがおかしな方向である現実を見ると、我々一般市民が草の根で広めていくしかないですね。

 

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■1.メダル数を大きく減らしたロシア、中国、韓国

 

 リオ・オリンピックが終わった。日本選手団の獲得メダル数は金12、銀8、銅21の計41個と、過去最多となった。ロンドンでは金7個、合計38個だったので、金で大幅増、合計でも若干増という結果となった。

 

 メダル数を国別で見ると、ロシア、中国、韓国が大きく減った。ロシアはソチ五輪の組織的ドーピング(薬物)問題で多くの選手が出場禁止となり、ロンドンでは金24個、合計81個だったのが、今回は金19個、合計56個と約7割に減少した。

 

 同様に惨敗したのが中国で、ロンドンでは金38個、合計88個で国別では2位だったのが、今回は金26個、合計70個で、英国に抜かれて3位に転落。韓国は前回、金13個、合計28個で5位だったが、今回は金9個、合計21個、8位まで落ちた。

 

 中国はドーピングでの出場禁止処分こそ受けなかったが、かつては組織ドーピングの内部告発があった。今回は、検査がはるかに厳しくなっており、その影響があったのだろう。

 

 韓国はロンドン五輪では、サッカー、柔道、フェンシングなど、「韓国がらみのおかしな判定」が起きていた。今回は「誤審防止」との名目で、判定に異議を唱えたら、ビデオ判定するシステムが導入された[1]。今回の柔道では、16年振りに金メダルゼロに終わった。

 

 ドーピングや審判買収による嘘が消えて、選手達のスポーツにかけた真心が輝きだした大会だった。

 

 

■2.「相手がいますから。しっかりと冷静に礼をして降りようと」

 

 まずは、美しい柔道で金メダルをとったのが、柔道男子73kg級の大野将平選手。ロンドンでは日本男子柔道は史上初の金メダル無しで終わったが、今回も男子90kg級、女子48kg級、男子66kg級、女子52kg級といずれも銅で終わり、重苦しいスタートとなった。それを一挙に吹き払ったのが、大野選手だった。

 

 準決勝を除くすべての対戦に一本勝ちを収めた。決勝戦の相手は、アゼルバイジャンの欧州王者ルスタフ・オルジョフ。「一発のある選手」と警戒しながらも、接近戦で勝負に出た。得意の内股で1分44秒に技ありを奪った。

 

 ポイントをリードした後に、大野の消極的な姿勢に指導が入ると、「逃げるより、攻め抜いて投げてやろう」と、再び攻めて、3分15秒、鮮やかな小内刈りで一本をとった。日本柔道界に2大会振りの金メダルをもたらした勝利だったが、大野選手は笑顔もなく、厳しい顔をしたまま、深々と礼をして、オルジョフと握手で健闘を讃えあった。

 

 ガッツポーズも、喜びの表情もない理由として、大野選手は「相手がいますから。しっかりと冷静に礼をして降りようと」と語った。

 

 勝負には勝ちもあれば、負けもある。敗者への思いやりを込めて、礼に始まり、礼に終わる武道の精神。試合後、大野は「柔道の素晴らしさ、美しさ、強さを伝えられたと思う」と語った。だが、井上監督から「プレッシャーの中、よく取ってくれた」と声をかけられると、張り詰めたものから解放されるかのように涙があふれたという。

 

 柔道が世界に広まって「ジュードー」となり、ポイントを奪ったら、いかに逃げ切るか、というせこい勝負になった時期もあったが、礼に始まり、礼で終わる「美しく、強い柔道」という理想を追い求める大野の真心が爽やかだった。[2]

 

 

■3.「それは無駄な質問だ」

 

 真心の籠もったライバル関係を見せたのが、個人総合で金メダルをとった内田航平選手と銀メダルをとったウクライナのオレグ・ベルニャエフ選手。内村選手は5種目までベルニュアエフ選手にリードを許しながら、得意の鉄棒で最後に大逆転した。オリンピック2連覇で、世界選手権も含めると8年連続で個人総合の王者の座を守った。

 

 表彰後のインタビューで、ある海外の記者から「あなたは審判に好かれているんじゃないですか?」という質問が飛んだ。失礼な質問にも内村選手は淡々と「まったくそんなことは思ってない。みなさん公平にジャッジをしてもらっている」と答えたが、横にいたベルニャエフ選手が怒った。[3]

 

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 審判も個人のフィーリングは持っているだろうが、スコアに対してはフェアで神聖なもの。航平さんはキャリアの中でいつも高い得点をとっている。それは無駄な質問だ。

 

 航平さんを一生懸命追っているが簡単じゃない。この伝説の人間と一緒に競い合えていることが嬉しい。世界で1番クールな人間だよ。

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 銅メダルの英国ウィットロック選手も、「大変素晴らしい。彼は皆のお手本です。今日の最後の鉄棒は言葉がない。クレイジーとしかいえない」と声をそろえ、内村選手は気恥ずかしそうにはにかんでいた。

 

 

■4.「誰にもできないところまでもっともっとやってほしい」

 

 ベルニャエフ選手の祖国ウクライナは争乱状態が続いており、練習施設も貧しく、国からの給料も月100ドルほどしかない。毎週試合に出て、活動費を自分で稼がなければならない状態だという。

 

 その実力を見込んで、他国から、国籍を変えて出場しないか、という好条件の申し出がなされたが、ベルニャエフ選手は家族や友人のいるウクライナから離れることを拒否している。

 

 内村選手に関しては、過去にこんな発言をしている。

 

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内村は本当に神話的な選手。

でも、僕の目標はシンプルだ。彼と戦うことさ。

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 こういう選手が、内村選手に対する質問に怒ったのも、当然だろう。質問が内村選手にとって失礼というだけでなく、自分が目標としてきた内村選手を貶めるような質問は、自分の生き方に対する侮辱でもある、と受け止めたのではないか?

 

 内村選手も、ベルニャエフに関して、次のように語っている。

 

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 オレグ選手がすごいことをやってきたので、本当にぎりぎりで勝ったという感じなので、次はないと。・・・それぐらいの選手になったし、次からの世界の体操は彼に引っ張っていってほしいなという感じもあります。

 

 オレグ選手には、全種目を高難度でやるという僕には信じられないことをやっているので、誰にもできないところまでもっともっとやってほしいとも思っています。

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「誰にもできないところまでもっともっとやってほしい」という発言からは、体操という道を共に究めようとする同行者と考えているように聞こえる。

 

 

■5.記憶に残る真心のドラマ

 

 金メダルをとれなかった事が、ニュースになった場面もあった。誰もが金メダル間違い無しと信じていた女子レスリング53キロ級の吉田沙保里選手が決勝戦で敗退して、銀メダルに終わり、五輪4連覇を逃した時だった。

 

 吉田選手を破ったのは、米国のヘレン・マリーレス選手。終始、闘志をむき出しにして立ち向かい、1点先取されたが、その後4点取って、逆転勝ちを収めた。敗戦が決まった途端、吉田はマットに泣き伏したが、マリーレス選手も同様に泣き崩れた。[4]

 

 サリーレス選手は12歳の時に吉田選手を観て憧れ、両親の反対を押し切って、吉田選手に勝つことを目標にレスリングをやってきたという。サリーレス選手は、表彰台で米国初の金メダルを受けとった際も「これをずっと夢に見てきた」と顔を覆って大粒の涙を流した。

 

 そして、試合後には「彼女と戦う準備をずっと続けてきた。彼女は私のヒーロー。彼女は最もたたえられているレスラーで、彼女と試合をできたのは本当に名誉なことだった」と語った。[5]

 

 吉田選手の4連覇はならなかったが、事前の予想通りすんなり4連破を記録するよりも、記憶に残る真心のドラマが生まれたのではないだろうか。

 

 

■6.「そんなことないですよ。素晴らしい戦いでした」

 

 試合後に、吉田選手が号泣しながら受けたインタビューがまた、感動的だった。[6]

 

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─ 素晴らしい試合でした。今の気持ちを振り返ってください

 

(吉田選手は号泣しながら)「たくさんの方に応援していただいたのに、銀メダルに終わってしまって申し訳ない」

 

─ そんなことないですよ。素晴らしい戦いでした

 

「日本選手の主将として金メダルを獲らなければならないと思って、ごめんなさい」

 

─決勝戦、非常に厳しい戦いでしたが、あえて敗因をあげるとしたら?

 

「やっぱり自分の気持ちが、最後は勝てるだろうと思って、とりかえしのつかないことになっていまって・・・」

 

─そんなことは誰も思ってないと思います

 

(中略)

 

「最後は自分の力が出し切れなくて・・・」

 

─日本中では拍手を送ってくれていると思います。素晴らしい銀メダルでした。ありがとうございました。

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 アナウンサーはNHKの三瓶宏志氏。応援してくれる人々に申し訳ないという吉田選手の真心と、その奮闘振りに感謝するアナウンサーの真心が響き合ったインタビューだった。

 

 

■7.「マオ(浅田)にも感謝したい」

 

 内山航平選手とオレグ・ベルニャエフ選手、吉田沙保里選手とヘレン・マリーレス選手の真心の籠もったライバル振りを見て、どうしても思い浮かんでくるのが、フィギュア・スケートの浅田真央選手とキム・ヨナ選手の関係だ。

 

 浅田選手の高難度の演技につけられた点数が余りにも低いので海外メディアが「馬鹿げている」と怒り、会場がブーイングに覆われたり[7]、逆にキム・ヨナが転倒しても最高得点を出して、解説者も「(得点が)ここまでどうして出てしまったのか、わからないと正直感じた」 と語った場面まであった[8]。

 

 浅田真央選手が高難度の演技に真摯に取り組む姿は、世界の選手に感銘を与えていた。[9]

 

「女子でトリプルアクセルに2回転をつけて跳ぶことがどれだけ大変か。それでも勝てないなんて・・・。」

「マオ(浅田)にも感謝したい。果敢にトリプルアクセルに挑んだ姿を見て、私は悲しいことなんか忘れて正直、燃えたわ。ありがとう」(ジョアニー・ロシェット、カナダ、10年バンクーバー銅メダリスト)

 

「なんて言ったらいいのかわからない。ジャッジはキムの何もかもに加点しまくっている」

「真央のスケートには誠実さがある。素晴らしいことだよ。傲慢さがない。そこが好きなんだ。」

「浅田のスケートには静かな無垢さ(イノセンス)があって、そこが魅力的だと思う。作った見せ掛けの態度みたいなものがなくて、スケートそのものをするという感じ。」(エルヴィス・ストイコ、カナダ、94年リレハンメル銀、98年長野銀)

 

 

■8.日の丸と真心

 

 キム・ヨナの得点に関する疑惑と反感は、スケート選手の間では相当広まっていたようで、ソチ五輪の競技後のエキジビションではキム・ヨナ一人が仲間はずれにされたり、記者会見でもキム・ヨナがまだ話している内に他の選手が席を立ったりした[10]。

 

 メダルさえとれれば、何をしても良い、という姿勢が、自分たちの神聖なスポーツを汚している、という怒りが、広がっていたのだろう。

 

 疑惑の採点などがなければ、浅田真央選手もフィギュア・スケートの究極を究める事に集中し、その過程で世界のライバルとも美しい争いを繰り広げられたはずだ。そう思うと、改めて、ドーピングや疑惑の判定で、スポーツの神聖さを汚してきた国々に対する怒りが込み上げてくる。

 

 今回、大きくメダル数を減らしたロシア、中国、韓国。一事が万事である。これらの国々は、「南京大虐殺」や「従軍慰安婦」といった嘘を国際社会に流し、北方領土、竹島、尖閣と我が国の領土を不当に奪ったか、奪おうとしている。金メダルさえとれれば何をしても良い、と考えるような国々とは、信義ある外交も不可能だということである。そういう国々に、わが国は囲まれている。

 

 そういう国々のメダルが大きく減って、今回は表彰式で日の丸が何度も上がった。日の丸の白は「神聖と純潔」、赤は「博愛と活力」を現すと言う。正々堂々とルールを守り、自らの競技の究極を究めようとする日本選手たちの真心を象徴した国旗ではないか。

(文責:伊勢雅臣)

 

 

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 日本人が日本で生まれ、育ち、教育を受けていく中で、日本人が持っている根っことは何かをよく理解させてくれる本である。

 この本が全ての小学校、中学校に行き渡れば、さらに外地で活躍する企業の駐在員のバイブルになるべく拡散してもらいたい。

 私はここ数年来著者のメルマガ愛読者であり、本当にいつも内容には関心させられることが多い。 日本人が古来より育んできた「和をもって尊しとなす」の精神を礎にやがて日本が世界をリードする国になって欲しいと願っている。

(伊勢雅臣)学校や図書館には寄贈させていただいています。
申し込みは以下の頁からどうぞ。
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■1.ボストン公共図書館の半旗

 ボストンの中心街に聳えるボストン公共図書館は1848年創設、その面積は東京ドームより広く、いかにもアメリカの国力を誇示するような広壮な建物だが、その正面に何本も並ぶ星条旗がすべて半旗になっていた。

 最近、白人警官が無抵抗の黒人を射殺する事件が相次ぎ、全米各地で抗議デモが広がる中、ダラスで黒人容疑者に狙撃されて死亡した5人の白人警官に弔意を示したものだろう。

 一方でボストンでは街中で白人と黒人のカップルをよく見かけた。ハーバード大学やマサチューセッツ工科大学など一流大学があるせいか、なんとなく黒人も知的な顔立ちの人が多いような気がする。しかし、こういう進んだ光景は全米でもごく一部の地域だけで、人種差別はいまだに米国全体を悩ませている宿痾である。

 ただ米国人の名誉のために付け加えれば、米国ほど人種差別の問題に悩まされつつ、その解消のために努力してきた国もない。

 アメリカの13の植民地は1776年に独立宣言を発し、連邦国家として出発したが、その当初から、黒人奴隷に依存したプランテーション農園を経済基盤とする南部諸州と、黒人の少ない北部諸州では奴隷制に関して対立していた。

 建国の父たちは、この点にこだわっていては一つの国家としてスタートすることは不可能と判断し、憲法では奴隷制を表立って取り上げることなく、南部諸州の既存の制度を守ることを憲法上の権利として、国家統合を優先したのである。

 この矛盾が表面化した1860年代の南北戦争、その最中のリンカーン大統領による奴隷解放宣言、1950年代からの公民権運動と、200年にわたる努力がなされてきた。それでも根絶し得ないほど、人種差別の問題は根深いと言わざるを得ない。

 実は我が国も、明治維新以降、人種差別の渦巻く近代世界に漕ぎ出し、差別されている有色人種による唯一の近代国家として戦ってきた。この視点なくしては、我が国の近代史における苦闘の足跡は見えてこない。

 この足跡に関しては、拙著『世界が称賛する 日本人の知らない日本』の中で述べたが、今回はそれを補完するために岩田温氏の『人種差別から読み解く大東亜戦争』[1]をご紹介しよう。

 この書は書名の通り、人種差別との戦いが大東亜戦争の発端であったことを述べている。その本論は、同書に直接あたって貰うこととして、ここでは同書の前段となっている、人種差別と奴隷制が常に西洋とともにあったという史実を見ておきたい。


■2.奴隷制と共存していたギリシャの民主主義

 ギリシャは西洋文明の源流、特に民主主義の発祥の地として高く評価されているが、実はその民主政治は奴隷制と共存したものであった。哲学者アリストテレスは著書『政治学』で次のように奴隷制を擁護している。
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 自然によって或る人々は自由人であり、或る人々は奴隷であるということ、そして後者にとっては奴隷であることが有益なことでもあり、正しいことでもあるということは明らかである。[1, p44]
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 人間には生まれながらに知性に欠けた人々がおり、そうした人々は「奴隷であることが有益」で「正しい」ことだ、とまで言っているのである。

 ちなみに、奴隷を英語では“Slave”と言うが、これは中東欧のスラブ語での「スラブ(言語)」を語源とする。ギリシアとの戦争に負けたスラブ人の捕虜が戦利品として奴隷とされたために、ギリシャ語で「スラブ」が「奴隷」の意味となり、そこからローマ帝国のラテン語経由で、ヨーロッパの諸言語に広まった。

 そのような奴隷は当然、市民には含まれず、民主主義の対象とも考えられていなかったのである。


■3.「神が真黒な肉体のうちに善良な魂を宿らせたはずはない」

 ヨーロッパ人はアフリカ大陸の黒人と接触することで、この人種差別を一層強めたようだ。近代的な司法、行政、立法の三権分立の原則を説いたモンテスキューですら、著書『法の精神』で次のように述べている。

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 現に問題となっている連中は、足の先から頭まで真黒である。そして、彼らは、同情してやるのもほとんど不可能なほどぺしゃんこの鼻の持主である。

 極めて英明なる存在である神が、こんなにも真黒な肉体のうちに、魂を、それも善良なる魂を宿らせた、という考えに同調することはできない。[1, p55]
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 ヨーロッパ人は、科学やキリスト教などを持つ自分たちが「足の先から頭まで真黒」な黒人よりも優れた存在である事は当たり前の事だと考えた。

 ローマ教皇ニコラウス5世は1452年、アフリカの地中海沿岸部を征服してアフリカ王と呼ばれたポルトガル王アルフォンソ5世に対して、異教徒を永遠の奴隷にする許可を与えている。人種差別と奴隷化に、キリスト教のお墨付きが与えられたのである。


■4.「キリスト教徒たちの暴虐的で極悪無慙な所業」

 西洋人の強欲非道ぶりは、コロンブスによって新大陸に展開された。コロンブスがバハマで出会ったタノイ族は温和で、武器の存在すら知らなかった。コロンブスは感激して、次のように記している。

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 さほど欲もなく・・・こちらのことになんでも合わせてくれる愛すべき人びとだ。これほどすばらしい土地も人もほかにない。隣人も自分のことと同じように愛し、言葉も世界で最も甘く、やさしく、いつも笑顔を絶やさない。[1, p80]
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 この「愛すべき人々」をコロンブスは捕らえて、奴隷としてスペインに連れていった。さらに圧倒的な武力で脅して、タノイ族に金の採掘を命ずる。採掘作業のために、畑作業が出来なくなった結果、深刻な饑餓が起こり、5万人の原住民が餓死した。

 同様の強欲非道は、その後、さらに大規模にくり返された。1532年、フランシスコ・ピサロ率いる200人未満のスペイン人の一隊がインカ帝国にやってきた。彼らは奸計をもって、皇帝アタワルパを捕らえ、莫大な金銀を身代金として巻き上げた上で、処刑してしまう。さらに住民たちを搾取し、虐待、殺戮した。

 ピサロによって傀儡皇帝とされたマンコ・インカは次のようにスペイン人に語ったと伝えられている。

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 私は心から君たちに好意を寄せ、友人になりたいと願って数々の親切をしてきたのに、君たちはそれをすっかり忘れ去り、わずかばかりの銀のために私の願いを無視し、挙句の果て、君たちの飼っている犬に対するよりも酷い仕打ちを加えたのだ。・・・結局、銀を欲するあまり、君たちは私と私の国のすべての人びとの友情を失い、一方、私や私の部下は君たちの執拗な責め立てや甚だしい欲望のために宝石や財産を失った。(ティトゥ・クシ・ユパンギ「インカの反乱」)[1, p74]
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 ピサロらの悪行を、従軍司祭として見たラス・カサスは「この四○年間にキリスト教徒たちの暴虐的で極悪無慙な所業のために男女、子供合わせて1200万人以上の人が残虐非道にも殺されたのはまったく確かなことである」と述べている。(ラス・カサス『インディアスの破壊についての簡潔な報告』)[1, p76]

 ヨーロッパ人たちは愛を唱えるキリスト教を信奉しつつ、その仮面の下では、ローマ帝国の崩壊以降、何世紀にも渡って内部抗争や、異教徒との戦争をくり返しており、その過程で他には例を見ない強欲非道ぶりを身に付けたように思われる。


■5.「彼らは自分と肌の色が違うものを隷属させ」

 強欲非道ぶりに関しては、北米に入植したイギリスも負けてはいない。1606年、144人の入植者をバージニアに送り込んだが、多くが病や寒さで死亡してしまう。彼らにトウモロコシの栽培を教えて、助けたのがインディアンだった。

 インディアンの族長が「武器を船においていらっしゃい。ここでは武器は要らない。われわれはみな友人なのだから」と言ったが、返ってきた言葉は「トウモロコシを船に積め。さもないとお前等の死体を積むぞ!」

 彼らはインディアンを「人間」とは見なしていなかった。インディアンの村々を襲撃し、食べ物を強奪していった。1610年に、植民地の住人2人がインディアンによって殺害されると、イギリス人は報復措置として二つの村を焼き尽くし、女子供に至るまで殺戮した。こうして、血で血を洗う復讐合戦が始まったのである。

 入植者たちは、神によって新大陸が与えられたと信じていたので、異教徒のインディアンを殺す事は神の意思に従うと考えた。
キリスト教の指導者コトン・マザーは、ピクォート族の戦士たちを殺戮し、生き残った女子供を奴隷として西インド諸島に売却した。彼は誇らしげに「この日、われわれは600人の異教徒を地獄に送った」と記している。

 以下のインディアンの言葉を読めば、ヨーロッパ人の強欲非道ぶりがよく分かる。

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 白人の中にも善良な人間がいることは認める。しかし、その数は悪意を持った白人の数に比べると比較にならない。白人たちは圧倒的な力で支配した。彼らはやりたい放題のことをやった。人間はみな同じように大いなる精霊によって作られたのにもかかわらず、彼らは自分と肌の色が違うものを隷属させ、従わないものたちを殺した。白人の誓いはいかなるものも守られたためしがない。(デラウェア族パチガンチルヒラス)
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■6.大西洋奴隷貿易

 17世紀中葉には、キューバやハイチなど、カリブ海諸島でサトウキビのプランテーション(大規模農園)が広まった。ヨーロッパで飲茶の風習が広がり、砂糖の需要が高まったからである。

 しかし、このプランテーションには大量の労働力が必要であり、地元の原住民人口が激減していたことから、熱帯の気候に強いアフリカの黒人が奴隷として大量に連れてこられた。

 アフリカの奴隷商人たちが、ヨーロッパ人から購入した銃で大陸内部の村々を襲撃し、捕まえた原住民を海岸部でヨーロッパ商人に売り渡す。奴隷は奴隷船にすし詰めにされて大西洋を越えてカリブ海まで運ばれた。

 その後、北米大陸の南部でも綿花のプランテーションで黒人奴隷を輸入するようになった。16世紀から18世紀の300年間で、奴隷貿易により大西洋を渡ったアフリカ黒人は900万人から1100万人と学界で推定されている。まさに世界史的な悪行である。


■7.日本の植民地化も狙ったポルトガル

 ポルトガル人は、日本にもやってきて、布教を始めた。マカオなどと同様に、最終的には植民地にする事を狙っていたのだ。しかし戦国時代で戦い慣れていた信長や秀吉、家康は、彼らの企みを見抜いた。

 信長は宣教師たちがキリシタン大名を育てているのを知り、布教を許したのは「我一生の不覚也」と後悔したが、鉄砲部隊や鉄製軍艦などで宣教師を威嚇して、「日本は征服が可能な国土ではない」と諦めさせた。[a,b]

 ポルトガル人たちは布教のかたわら、日本人奴隷を海外に売り払っていた。秀吉はイエズス会の宣教師ガスパール・コエリョに対し、「何故ポルトガル人は日本人を購い奴隷として船に連れていくや」と詰問している。さらに教宣教師たちが、九州のキリシタン大名を焚きつけて寺社を焼かせているのに激怒し、宣教師追放令を出した。[c]

 キリシタンとの冷戦は、その後の徳川幕府にも引き継がれて、キリシタン禁制と鎖国の政策がとられた。島原の乱[d]という戦闘もあったが、ヨーロッパ人の毒牙から我が国の独立を守ったのは、この反キリシタン政策の功績であった。


■8.西洋の強欲非道と戦った日本の400年

 18世紀以降の産業革命によって、ポルトガル、スペインに替わって、イギリスやフランス、オランダなどが台頭し、アジア、アフリカを植民地化していった。またカリフォルニアまで開拓したアメリカは太平洋を越えて、アジアへの触手を伸ばしつつあった。

 こうして、アメリカからの黒船が来た時に、すでにアジア、アフリカで完全な独立国と言えるのは、日本とタイぐらいしかなくなっていたのである。

 幕末の「攘夷」とは世界を植民地化しつつあるヨーロッパ人の強欲非道から我が国の独立を守る事であった。その戦いは日露戦争から大東亜戦争まで続く。国際連盟創設の際は人種平等条項を入れようとして欧米諸国に拒否され[]、またカリフォルニアの日系移民が差別を受けた。

 これらに対する国民的怒りが大東亜戦争の発端となった。この経緯を岩田温氏の著書は詳しく辿っているので参照されたい。

 近代世界史から、ヨーロッパ人の人種差別と奴隷制という強欲非道の行いを隠してしまえば、キリシタン禁制は宗教弾圧であり、鎖国は文明世界から国を閉ざした愚かな政策であり、幕末の攘夷は無知愚昧なスローガンであり、大東亜戦争は軍国主義による近隣諸国侵略としか見えない。それでは真実の世界史も日本史も見えてこないのである。
(文責:伊勢雅臣)