20世紀で最も成功した万博を実現した日本人の気概 | 朝日asahinobのブログ

20世紀で最も成功した万博を実現した日本人の気概

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54 20世紀で最も成功した万博を実現した日本人の気概
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国柄探訪: 20世紀で最も成功した万博を実現した日本人の気概

「大阪万博にあれほどの熱量を送り込んだのは『高度成長』などではなく、当時の日本人の気概であり情熱であり志だ」
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■1.「20世紀で最も成功した万博」

 日本が大阪誘致を目指す2025年万国博覧会の開催地決定に向け、博覧会国際事務局(BIE)の調査団が、東京、大阪を訪れた。団長の崔在哲BIE執行委員長(韓国駐デンマーク大使)は記者会見で、日本の計画を「調査団の暫定的な考え方としては良好だ」と評した。

 また、ディミトリ・ケルケンツェスBIE次長は「いのち輝く未来社会のデザイン」というテーマを「国際社会でも大きな意味を持つ」と指摘し、政府や地方自治体、国民の支持があることを確認したと語った。[1]

 このケルケンツェス次長は、1970年の大阪万博を「20世紀で最も成功した万博」と評したそうな。参加者数6400万人という記録は、40年後、2010年の上海万博まで破られなかった。規模だけでなく、内容面でも、専門家からは1世紀半におよぶ「万博史上10本の指に入る」[2, p4]と称賛されている。

 すでに2025年万博に関しては、100万人以上の国民の賛同が寄せられているとの事だが、その中には、半世紀前の大阪万博を子供の頃に経験して、それをぜひ子や孫に体験させたい、という声援も少なからず寄せられてる。たとえば、

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・子供の時、大阪万博に行ったことを思い出します(入場大変でした。泣いて親に連れて行ってもらったことも良き思い出です)。子供心に科学、未来、世界といったものを感じました。ぜひ、後世の世代そして世界の方が同じ思いを日本で感じて頂けるよう我が国への誘致お願いします。

・万博は子供たちに希望ある未来を見せるためのもの。70年の大阪万博では、子供たちは未来の生活に夢を抱き、日本の技術力を誇りに思いました。経済効果は大人の事情。日本の将来を担う子供たちに夢と希望をもってもらうため、ぜひ誘致してほしい。
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 子供たちにこんな影響を与えた1970年の大阪万博は、どのように実現されたのか、その経緯を辿ってみよう。


■2.「自分の仕事に集中できないのなら、辞表を書くことだな」

 大阪で万博を開催しようというアイデアは、1960年代前半、通産省でまだ課長にもなっていない若手官僚の頭の中に生まれた。堺屋太一である。堺屋は企業局工業用水課の一職員として、大阪での地下水汲み上げによる地盤沈下の問題に取り組んでいた。

 堺屋の頭の中にはもう一つの「地盤沈下」が問題意識としてあった。東京オリンピックを開催して経済的に発展しつつあった東京に対して、関西経済の地盤沈下である。これを食い止めるために、大阪で万博を開催すべきだ、と堺屋は考えていた。

 実は、戦前の昭和15(1940)年、皇紀2600年という記念の年に日本でのオリンピックと万博の同時開催が決まっていた。入場券まで売り出され、開催直前まで行ったが、戦争のために中止された。堺屋はその幻の東京万博の責任者だった人に経緯を聞き、資料も見せてもらった。

 ただ一介の若手官僚が唱えているだけでは、政府を動かせない。「将を射んと欲すればまず馬を射よ」の作戦で、堺屋は自費で万博の説明資料を作り、高級官僚の公用車の運転手たちのたまり場へ行って、万博の説明をした。運転手たちの間で「万博というのは面白い」という認識が広まった。

 高級官僚は、公用車で移動中、時々、運転手と話をする。こうして万博のアイディアが省内に広がっていった。堺屋は頃合いを見計らって、局長のところに行って、万博の話を始めた。

「きみは、ずいぶん勝手なことをやっているようだな」と激しく叱責され、「自分の仕事に集中できないのなら、辞表を書くことだな」とまで言われた。それ以後、堺屋は何度も上司から、辞表を書けと迫られたが、自分の職務をはきちんと果たしている以上、辞表を書く必要はないと考えていた。


■3.援軍あらわる

 孤立無縁の堺屋に、大阪から援軍が現れた。大阪の中小企業を一社ずつ回って地下水組み上げを止めるよう頼み、物理的な地盤沈下を食い止めた実績を持つ堺屋は、大阪の府、市、経済界との太いパイプを築いていた。

 その中から、大阪の経済的地盤沈下を食い止めるための万博開催というアイディアに共鳴する人々が出てきた。堺屋は年収10年分の費用を銀行から借りて、自費で説明資料を作り、説得に当たった。やがて大阪商工会議所が、関西を地盤とする与党議員に万博開催の陳情を始めた。

 ここで絶大な援軍が現れた。東京オリンピックの直後に病気で退陣した池田勇人に替わって首相となった佐藤栄作である。佐藤は、自分の政権で東京オリンピックに匹敵するような大きなイベントを実現したいと考えていた。佐藤首相のもとで、ようやく万博構想が正式に日本政府の決定となった。

 幸い東京オリンピックの成功が追い風となって、日本での万博開催を支持する国が急速に増えた。これによってアジアで最初の万博開催が承認されたのである。


■4.「鐸々(そうそう)たるメンバーが口角泡を飛ばして」

 主催団体となった日本万国博覧会協会の会長には、東芝を再建して経団連会長となった石坂泰造が推された。政府に頼まれて会長を引き受けたものの、初年度の政府予算は論外の少なさであった。向こうから頼んでおいて、どういうことかと、石坂は腹を立てて、佐藤総理のもとにねじこんだ。

「失敗したら、恥をかくのはあなたの方だ。こちらはどうでもいいんだから」と、一方的に怒りをたたきつけると、「ヘイ、さいなら」と腰を上げて、歩き出した。総理はあわてて後を追って「わかりました、わかりましたよ。石坂さん」。そんな豪腕会長だった。[a]

 事務総長は鈴木俊一。東京オリンピック開催の総指揮にあたって成功させ、のちに東京都知事を4期16年も務めた敏腕家である。

 この2人の方針であろう、万博の構想立案には当時の日本屈指の頭脳が惜しげもなく投入された。日本人初のノーベル賞受賞者・湯川秀樹、ソニー創業者・井深大、国民的作家の武者小路実篤や大佛次郎、日本を代表する国際的エコノミスト・大来佐武郎、東洋学者・貝塚茂樹、「世界のタンゲ」と呼ばれた建築家・丹下健三等々。

 こんなオールジャパンの頭脳が、激しい議論を展開した。それを傍聴した人が「あれほどの鐸々(そうそう)たるメンバーが口角泡を飛ばして議論する姿に感動した」と語っている。

 こうした議論の結果、原子爆弾のような科学技術の負の側面はもとより、地域紛争や人種対立などを含む「人類の不調和」を解消しうるのは人間の「知恵」だけであり、万博はそのために世界から英知を持ち寄る広場なのだ、と言うコンセプトが生まれた。ここから「人類の進歩と調和」というテーマが設定された。


■5.「やりたいようにやってくれ」

 会場や建物、展示のプロデュースには、思い切って若手の登用が図られた。丹下と共にお祭り広場を設計した磯崎新38歳、『せんい館」のディレクター・横尾忠則33歳。生活産業館などのユニフォームをデザインしたコシノジュンコ30歳、等々。会場計画を統括した丹下健三と、太陽の塔をデザインした岡本太郎ですら50代だった。

 実績のある大家たちを抑えて、どうしてこのような若手を思い切って登用したのか。[3]の著者・平野暁臣氏はこう推察する。

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 万博という一世一代の大舞台で国際社会に「新しい日本」を打ち出す千載一遇のチャンスがめぐってきたとき、関係者の多くは「欧米にもまだないもの、欧米を超えるものをつくって、世界を驚かせてやろう」と意気込んだはずです。「世界を相手に一発カマしてやろう」と。

 だとすれば、「かつてないものをつくる以上、実績よりもアイデアだ」「新しいアイデアをもつ者を使ったほうがい」「一か八か若い連中にやらせてみよう」と考え、思い切って生きのいい連中に任せようと腹を括ったにちがいないと思うのです。[3, p135]
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 会場随一の独創的な『せんい館』をデザインした横尾忠則が、出展組織の日本繊維産業連盟会長かつ東洋紡の社長、会長を歴任した谷口豊三郎に直談判したとき、谷口は「あなたの芸術論はまったく理解できない。だが情熱はよくわかった。いいだろう。やりたいようにやってくれ」とその場で全権を委任したという。


■6.「なにが進歩だ」

 丹下チームが設計したお祭り広場は、5千人のスタンド席に取り囲まれ、「情報手段が発達してもなお万博に意義があるとすれば、世界の人々が一カ所に集い、生身でふれあうこと以外にない」との理念からつくられたイベント空間だった。

 お祭り広場を覆う大屋根は、野球場グラウンド部分の2.4倍もあり、その屋根の中がテーマ展示のためのスペースとなっていて、未来の「空中都市」を構想したものだった。それは「技術の進歩が未来をひらく」という万博の精神を体現していた。

 しかしこれに待ったをかけたのが岡本太郎だった。

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 この世界一の大屋根を生かしてやろう。そう思いながら、壮大な水平線構想の模型を見ていると、どうしてもこいつをボカン!と打ち破りたい衝動がむらむら湧きおこる。優雅におさまっている大屋根の平面に、ベラポーなものを対決させる。屋根が30mなら、それをつき破ってのびる-70mの塔のイメージが、瞬間に心にひらめいた。(岡本太郎『日本万国博 建築・造形』恒文社、H46)
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 万博会場を埋め尽くしていた「超近代」に対して、土偶を模した太陽の塔は「反近代」を表していた。「人類は進歩なんかしていない。なにが進歩だ。縄文土器のすごさを見ろ。馴れあいの調和なんて卑しい。フェアにぶつかりあって、闘って、そこに生まれるのがほんとうの調和なんだ」と岡本は公言していた。

 この横やりに「おまえにそんなものを作る権利はない」と怒ったのが丹下健三だった。関係者の眼の前で、二人は取っ組み合いの喧嘩を始め、お互いの弟子を巻き込んでの大喧嘩に発展していった。それだけ皆、真剣だった。

 長い議論の末、お祭り広場の屋根は、太陽の塔の周囲を丸くくりぬいた異様なデザインとなった。これが万博で最も記憶に残る風景となった。


■7.「この手で万博をつくれるなら、あとはどうなってもいい」

 無数の無名の人々も、同様の情熱を持って万博に取り組んだ。[3]の著者・平野暁臣氏は語る。

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 ぼくの父もそのひとりでした。37歳で保険会社のサラリーマンを辞め、テーマ館のサブプロデューサーとしてこの万博に賭けたのです。当時は終身雇用が大原則。いまとちがって簡単に転職できる時代ではなく、万博が終わったあとの生活保証などありません。家庭をもつ者として大きな冒険だったでしょう。

 おなじように自分の人生を賭けて万博に挑んだ者たちがたくさんいました。彼らに話を聞くと、みな例外なく「こんな仕事にかかわれるチャンスは二度とない。とにかくやってみたかった。この手で万博をつくれるなら、あとはどうなってもいいと思った」と言います。彼らのような存在こそが、大阪万博をあのレベルで実現させた原動力でした。[3, p117]
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 このように多くの人々が人生をかけて取り組んだ万博は、日本国民に大きなインパクトを与えた。

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・・・なかでも最大のインパクトは、国際舞台で世界と互角にわたりあえたことを肌で感じた日本人に、大きな自信と誇りを育んだことだったように思います。小学校6年生だったぼく自身、「日本ってすごいl日本に生まれてほんとうによかった。これからもっともっとすごい国になるぞ」と感激しました。[3, p156]
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 冒頭で紹介した「子供心に科学、未来、世界といったものを感じました」「子供たちは未来の生活に夢を抱き、日本の技術力を誇りに思いました」という感想は、大阪万博を経験した多くの子供たちに共有されていたのである。


■8.我々自身の気概と情熱と志が問われている

 しかし、皮肉なことに、70年大阪万博をピークとして、その後の万博は入場者数においてもインパクトにおいても低迷を続ける。国内では沖縄、筑波、大阪、愛知と開催が続いたが、多くても2千数百万人規模となった。海外でも2000年のハノーバー博に至っては入場者数は目標の半分以下の1,810万人で、1,200億円もの赤字となった。

 唯一の例外が2010年の上海万博で7,300万人と大阪万博を抜いたが、これは史上初の共産圏かつ発展途上国での開催ということで、特殊ケースと考えられている。

 従来型の万博は先進国におけてはすでに役割を終えたのかもしれない。 2025年万博の大阪招致が成功すれば、日本はこの難題にチャレンジしなければならない。それは経済の成熟や少子高齢化という先進国共通の課題に対して、日本がリーダーシップをとって挑戦するという役割を担うことになる。

「大阪万博にあれほどの熱量を送り込んだのは『高度成長』などではなく、当時の日本人の気概であり情熱であり志だ」と平野氏は言う。ならば今度は、我々が子孫のためにどれほどの気概と情熱と志を持てるかが問われている。
                                        (文責 伊勢雅臣)