5回戦にしてすでに決勝戦の様相を呈した対鶴ケ丘戦。

 

平日の開催にも関わらず、観客席には大勢の人が訪れていた。

 

先発の斉藤夏輝はブルペンで入念な投球練習を行っていた。

 

夏輝の心は落ち着かなかった。

 

大事な決戦を前にした高ぶりが9割だが、やはりどうしても林礼子が来ていないか気になった。

 

投球練習中も観客席をチラチラ見てしまう。

 

ダメだ、流石に試合に全集中をしなくてはいけない。

 

投球練習を終え、グランド整備の間に観客席へあいさつに行った時に、これを最後に観客席を見るのは最後にしようと思った。

 

夏輝自身の掛け声でナインが深々と礼をする。

 

頭を上げて応援席を見回すと、いた。

 

スタンドのの一番奥の端に、申し訳なさそうにちょこんと座っている。

 

よっしゃ!夏輝は心の中でガッツポーズをした。

 

絶対にいい所を見せてやるんだ。

 

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1回表の旭が丘の攻撃は三者凡退に終わった。

 

いよいよ、だ。

 

マウンドに上がり、2球、3球と投球練習をするたびに夏輝の心は昂ってきた。

 

絶対に、絶対に抑えてやるぞ。

 

礼子にいい投球を見せて、そして甲子園へ行くんだ。

 

俺の夏物語が、ここから始まるぞ。

 

この1球から・・・

 

カーン!

 

あっ、という間もなかった。

 

打球はレフトスタンドへ一直線。

 

先頭打者の初球を捉えられホームランを食らってしまった。

 

呆然とする夏輝。

 

捕手の小西がマウンドに来たが、その言葉は全く耳に入ってこなかった。

 

自分を取り戻す間もないまま、2番打者を四球で出す。

 

「ああ、どうしよう。落ち着かなきゃ、落ち着かなきゃ。」

 

言葉とは裏腹に、言葉は冷静さを取り戻していなかった。

 

夏輝はランナーを目で牽制することもせずに、3番打者への初球を投げた。

 

「走った!」

 

周囲の声にハッとした夏輝は、思わず頭を下げた。

 

その上を小西の矢のような送球が通過する。

 

「アウト!!」

 

二塁審判のコールにハッと我に返った。

 

「ワンアウト、ワンアウト。夏輝、ここからだ。」

 

周囲の声も聞こえるようになった。

 

よし、まずはワンアウト。ランナーもいなくなった。

 

夏輝は周囲を見渡す。

 

スコアボードには鶴ケ丘に1点が入っているが、アウトカウントも一つ入っている。

 

その前には外野陣が、更に自分の周囲にはいつも頼りになる内野陣がいる。

 

そして前を向くと、努力でこの夏のスタメンを掴んだ小西がいる。

 

夏輝はごく当たり前の事を思い出した。

 

野球は一人で行うものではないという事を。

 

その後も、連打でピンチを迎えたが、今度はマウンドまで来た小西の言葉も耳に入り、ピンチを切り抜けた。

 

 

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その後も夏輝は鶴ケ丘の攻撃を受けたが、小西をはじめとした堅い守りで多くのピンチを切り抜けた。

 

6回で4失点。

 

春の準優勝校、強打の鶴ケ丘相手に上々の出来である。

 

7回裏に池田にマウンドを譲り、斉藤はベンチから声援を送る事となった。

 

マウンドを降りてもキャプテンとしての働きが残っている。

 

夏輝はベンチから声を張り上げ、戻ってくる選手たちを鼓舞し、勝利へ向けて全力を傾けた。

 

9回表、監督代理の高山恭子の言葉が終わった後、夏輝が檄を飛ばした。

 

「さあ、まだまだ俺たちの夏は終わらないぞ、旭高ファイト!」

 

ベンチの最前列で味方打線に対し声援を送り続ける夏輝。

 

最後の攻撃もツーアウトランナー無しとなる。

 

あと1アウトで夏が終わる。

 

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「お願い、まだ終わらせないで…」

 

林礼子は応援席の片隅で必死に祈っていた。

 

エースとしてマウンドに立つ夏輝もカッコよかった。

 

強力打線相手に一歩も引かず、打たれながらも必死に耐える姿には勇気をもらった。

 

しかし、マウンドから降りた後の夏輝の姿に、礼子はもっと感動していた。

 

チームのために、仲間のために必死になって声を出し続ける夏輝。

 

自分にスポットが当たらなくても、仲間を応援する姿には高貴なものまで感じた。

 

最終回も2アウトになり、もう後がなくなった旭が丘高校だったが、夏輝をはじめベンチも選手も応援団も誰一人諦めていない。

 

人を応援する力をヒシヒシと感じた。

 

だから、まだ終わらないで…

 

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ツーアウトランナー無しで、バッターは7番阿部。

 

「よし、昨日もここからだったぞ!」

 

夏輝が手を叩きながら全員に言い聞かせるように叫んだ。

 

前日の川越戦、6回ツーアウトランナー無し、バッター阿部から怒涛の攻撃で5得点を奪っている。

 

 

諦めたら終わりだし、諦めない限り何が起こるか分からない。

 

夏輝の中には、ここから逆転できるような確信めいたものがあった。

 

それは妄想みたいなものだったが、根拠はある。

 

俺たちは今までずっと苦しい思いをしてきたのだから、最後くらいは野球の神様が微笑んでくれるはずだ。

 

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阿部がセンター前ヒットで繋いだ時、礼子は大きな歓声を上げた。

 

自分の前や横にいる、おそらく生徒たちの家族だろう人たちと一緒に手をたたき合って喜んだ。

 

こんなに大声を出したのは何年ぶりだろう。

 

見ず知らずの人たちと共に喜べるなんて、今まであったかどうかも思い出せない。

 

礼子の目から涙があふれてきた。

 

横にいたおばさんが、「まだだよ、まだこれからだよ。」と励ますように礼子に声を掛けた。

 

うんと頷いた礼子は、打席の小西に対して必死に声援を送った。

 

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小西の放った打球が、レフトの頭上をおそった。

 

映画のワンシーンのように、そこだけスローモーションになったようだった。

 

「いけ~!」

 

ベンチの夏輝が、応援席の礼子が力の限り叫ぶ。

 

その声援に乗せられるかのように、ボールはレフトスタンドに吸い込まれた。

 

土壇場での逆転2ラン。

 

ベンチも応援席も、喜びが爆発した。

 

礼子の隣では、今度はおばさんも泣いていた。

 

周囲の人と抱き合って喜ぶ。

 

何て素晴らしい事なのだろう!

 

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9回裏、ツーアウト1塁3塁。

 

守備の時は応援の声を出すことが出来ない。

 

礼子は必死になって祈った。

 

ストライクが入ると手を叩いてマウンドいる池田を励ます。

 

そして、最後の打球がショートに転がり、一塁アウトになった時、再び歓喜の渦がスタンドに溢れた。

 

隣のおばさんはもう知らない人ではない。

 

握手をして、お互いに勝利を祝福し合った。

 

試合終了後に流れる校歌を口ずさむ周囲の人たちにチョッピリ羨ましさを覚えた礼子だったが、「礼!」という夏輝の声に胸の高まりを覚えた。

 

あいさつのために応援席の前に走ってくる旭が丘のナイン。

 

その先頭に夏輝の姿があった。

 

「礼!」と言って垂れた頭を上げた時、ふと夏輝と目が合った気がした。

 

思わず手を振る礼子。

 

すると、夏輝が去り際にスッと左手の拳を上げた。

 

気付いてくれたんだ。

 

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ベンチで荷物の片づけをしている夏輝に、高山恭子がそっと近づいてきて言った。

 

「彼女来てたわね。」

 

一瞬ドキッとした夏輝だったが、そう言えば礼子と手紙のやり取りをし始めたきっかけが恭子であったことを思い出した。

 

 

夏輝は照れたように、「いや、彼女だ何て、まだ全然そんな事は…」と言った。

 

「何言ってるのよ、最後の挨拶の時に手を上げて応えていたくせに。」

 

あっけにとられる夏輝を後に去って行く恭子。

 

何て観察力の鋭い人なのだろうと夏輝は思ったが、すぐにずっと試合を見てくれた礼子の事を考えた。

 

今日の試合、どうだったか直接聞いてみたい。

 

直接会って話がしたいという思いが夏輝の中で強くなっていった。