祖母を悼む手記    2012/01/28
 
27日の朝7時、夢の中、
 
ショッピングセンターでの強盗事件に巻き込まれて、
 
なんとか逃げ出し得たところで、
 
父より国際電話をうけ、祖母の死を知る。
 
今朝がた七時前に亡くなったという報に、
 
寝惚けた頭には時差の概念が無く、
 
僕が起き出す時間に配慮してくれたのだと、
 
気がついたのは少し経ってからのこと。
 
弔電を打つべきか、という問いに、
 
弔電を打つぐらいなら、
 
祖母との思い出を手紙にするよう、
 
と応う父であったが、
 
日本から遠く離れて、
 
己の身勝手を許す気持ちにある僕には、
 
期待されるであろう涙物の手紙は、
 
どうも書けそうもない。
 
それでも祖母を悼む気持ちを、
 
そのままに表す手記、
 
という形でなら書けるかもしれない。
 
果たして、そうして出来たものが、
 
父の言うとおり親戚縁者の前で、
 
読まれるか否かは、
 
僕の知るところではないとするのは、
 
前述の身勝手さの為す通りである。
 
 
 
大学時代、車の免許を取った後、
 
しばし祖母を車に乗せて、
 
あちこち連れまわしたのは、
 
もちろん小遣い銭欲しさの
 
邪な動機があってのことではあるが、
 
それでも、それはそれで
 
なかなか面白いことでもあった。
 
未だにではあるが、当時はもっと甘えたところのある、
 
世間知らずの僕にとっては、
 
旧世代、という言葉さえ軽々しく感じる大正の女性に、
 
六本木やら青山らのハイカラな都をみせること、
 
あるいは昭和初期の建造物残る、
 
知的な雰囲気漂う大学キャンパスを案内することは、
 
得意げなことでもあった。
 
そんな心意気での案内であるから、
 
果たして祖母が本当に楽しんでくれたかは、
 
自信のないところではあるが、
 
それでも当時90間近の祖母が、
 
母よりもあるいはスタバのカフェラテを嗜んだ
 
回数が多いかも、
 
と考えるのは、今もってしても愉快なことである。
 
 
邪な動機と書いてみて、
 
今さら思い浮かぶのは、僕は自分の母には、
 
将来決してしないような孝行を、
 
祖母に対して(形だけでも)することで、
 
未来の自分に対する免罪符になる、
 
とも考えていたのかもしれない。
 
だから母には子どもからの孝行は諦め、
 
孫に期待をしてほしいところではあるが、
 
孫が生まれる保証がどこにもないのは、
 
致し方がない。
 
 
父を見、祖父を見ると、
 
どうもO橋家の傍系には、
 
身勝手な血が流れているようにしか思えない。
 
それは当然、長男であっても、
 
家父長制を考慮しない僕の血でもある。
 
それに対し、それに連れ添うは、
 
祖母に代表されるような従順な女性のように思える。
 
もちろんその従順というのは、
 
大正が育てた美徳なのかもしれないが、
 
祖母の中に見るのは、
 
それとは少し異質な、
 
もっと強度あるものにも思える。
 
というのは、男らの身勝手が、
 
身勝手を意識しつつ、どうしてもそれに徹しきれない、
 
葛藤を孕んだ歪んだものであると、
 
僕には思えるのと同時に、
 
女たちの従順も、あくまで従順に徹することが、
 
したたかな抵抗であるという戦略でもって、
 
自立を保持しているかのように、
 
僕には思えてならないのだが、
 
これは余りにも
 
文学かぶれ的な発想なだけかもしれない。
 
それでも、もしもこの身勝手に
 
徹しきれない歪さに対する、
 
ある種の贖罪という想いが、
 
祖母に対してデートを誘っていた、
 
本当の動機であったとするならば、
 
このことは祖母に対する弔いに、
 
少しはなるであろうか。
 
 
大正八年生まれ、ということは、
 
龍之介の死は記憶していてもおかしくなく、
 
中也の死はまさに
 
彼女の春の一つの椿事であったことだろう。
 
春樹や吉本ばななを青春のバイブルに掲げる世代には、
 
決してない深みと切なさを、
 
祖母もその若き日々に胸に刻んだのではないだろうか。
 
惜しむべきは、
 
そのような彼女の物語をきちんと聞くことなく、
 
他界してしまったことである。
 
しかし物語とは、
 
惜しむことから初めて紡ぎだされるものでもある。
 
その意味で、「祖母」という物語は、
 
今から語られ始められるものなのかもしれない。
 
そう思う事が、故人への手向けとはならなくとも、
 
僕なりの祖母を悼む方法だと考える。
 
アフリカにて 2012 年 1 月 27 日記