宮本武蔵のライバルにして、謎の多い剣士 佐々木巌流小次郎 | 日本剣豪列伝

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勉強させて頂きます。

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朝日 文左です。

今回は、宮本武蔵との巌流島の決闘で知られる
佐々木 小次郎 (ささき こじろう)
生没年不詳
号は巌流(岸流、岸柳、岩龍とも)

安土桃山時代から江戸時代初期の剣豪とされています。

この佐々木小次郎ですが、
生没も、出生地も、名前についても詳細については
不明な点が多い人物です。

謎じゃないのは、
巌流島の決闘で武蔵に敗れた事位ではないかと思います…

ものすごい謎の人物ですが、名前はものすごく有名です。

佐々木小次郎が謎が多くなっている理由のひとつに
小次郎の流派、巌流にもあるようです。

佐々木小次郎とは全然別人で、佐々木巌流という剣客が実在したようです。
この佐々木さんは、武蔵とは決闘せずに天寿を全うした様です。

巌流の佐々木小次郎と佐々木巌流という二人の人物が
同じ時期に生まれてしまった事で、話が混ざって後に伝えられたのかもしれません。

で、佐々木小次郎ですが

出身地については、豊前国田川郡副田庄(現福岡県田川郡添田町)の
豪族であった佐々木氏の出とも

越前国宇坂庄浄教寺村(現福井県福井市浄教寺町)とも言われています。

はじめ安芸の毛利氏に仕えたとされます。
武者修行の為に諸国を遍歴します。

小次郎の流派は、
中条流の富田勢源(1523年~没年不詳)または、
富田勢源の門下であった
鐘捲流の鐘捲自斎(1576年~1615年)の弟子とも言われています。

で、

ここで、佐々木小次郎の「物干し竿」といわれた
名刀の代名詞ともいえる備前長船長光です。

この備前長船長光、長さ三尺三寸(約1メートル)あったとされています。

ここで一般的な刀についてですが

一口に「刀」と言ってもと

直刀
刀身に反りのない真っ直ぐな形の刀の事で、平安時代中期以前のものを指します。
(ざっくり古墳時代辺りの刀です。)

長巻
一般的なもで、刀身は三尺(約90cm)前後、柄は三~四尺(90~120cm)
全体で六~七尺(180~210cm)といったものを指します。

太刀
刀身が、2尺(約60cm)以上~3尺(約90cm)未満のものを指します。

野太刀
刀身が、3尺以上の太刀を指します。

打刀(刀)
刀身が、2尺(60センチ)以上

脇差
刀身が、1尺(30センチ)~2尺

短刀
刀身が、1尺以下

この様にさまざまあります。

しかも、本気で斬り合うのであれば
ある程度の刀身の厚みが必要となります。

刀は鉄ですので、
刀身が長くなると厚みも増え、自然と重さが増します。

で、

刀は、振るために適した長さというものがあり
身長と密接な関係があります。

戦国時代の平均身長は、160cm前後であったと言われています。
江戸時代になるともう少し下がって、150cmと言われています。

現代でも、刀の長さの基本的な基準が設けられています。
※あくまでも基準です。

身長(cm) 長さ(刃渡り) センチ
150   2尺3寸~2尺3寸5分 69.7~71.2
155   2.35~2.40   71.2~72.2
160   2.40~2.45     72.2~74.2
165   2.45~2.50     74.2~75.3
170   2.50~2.55     75.8~77.3
175   2.55~2.60     77.3~78.8

163cmの朝日は、72.2~74.2cmの刀があっているのでしょうか

という事で、小次郎の身長が200cmを超えてないと
3尺3寸という長さになりません。

小次郎の備前長船長光 通称"物干し竿"は
かなり長い刀であった言えます。


小次郎の起こした巌流とう流派ですが

小次郎の師とされているのは
中条流の富田勢源、鐘捲流の鐘捲自斎ともに
小太刀の技で知られています。

で、小次郎も小太刀の名手であったという説もあります。

そんな小次郎が、小太刀の戦いから
長刀のよさを見いだして、巌流を起こしたとも言われています。

ですが、まったく繋がらないとはいえませんが
解せません…

結果、刀の長さも、巌流という流派も
謎です。

そして、この長剣で必殺技「燕返し」を扱ったとされています。

「燕返し」ですが
岩国の錦帯橋の近くで空を飛ぶ燕を切り落した際に習得した様です。

で、どの様な技なのか

はい…これも確実な証拠はないようです…

「燕返し」=「虎切」という説や

長い刀を「斬り下げて間髪入れずに斬り上げる」

などなど…

こんな謎多き小次郎が
宮本武蔵と巌流島で決闘を行ないます。

ちなみに巌流島ですが、
決闘が行われたとされる当時は豊前小倉藩領の船島と呼ばれていましたが、
小次郎が「厳流」を名乗ったことから巌流島と呼ばれるようになったそうです。

ですが、ここでも

試合の行われた時期については諸説あり、定かではありません。

慶長6年(1601年)とか 慶長7年(1602年)とか 慶長17年(1612年)とかとか。。。

決闘時の
武蔵の年齢も19歳~29歳などまちまちです。

で、小次郎の年齢ですが
二天記では、18歳とされていますが、

富田勢源(1523年~没年不詳)の弟子であったなら
生前の勢源と出会うには、決闘時に最低でも50歳以上、
直弟子であれば相当の老人と考えないとおかしくなります。

鐘捲自斎(1576年~1615年)の弟子であったとしても
宮本武蔵よりも年上であったと考える方が普通ではないかと言われているようです。

で、

ここで、武蔵に敗れるわけですが…

多くの史料では巌流島の決闘で小次郎は死んだとされていますが
豊前国の小倉藩(当時は細川氏)家老、門司城代の沼田延元の『沼田家記』によると、
決闘で武蔵は小次郎を殺すまではしておらず、敗北した小次郎はしばらく後に息を吹き返しました。
それを武蔵の弟子たちが殺したとあります…

これだけ謎だらけの人物なのに
これだけ有名な人物であった佐々木小次郎とは…

吉川英治氏を始め、多くの作家たちが
たくさん小次郎を描いています。

そんな佐々木小次郎でした…

※調べていて、私も何がなんだかわからなくなりました…

佐々木小次郎の出典

誰も知らない武術のヒケツ 長野峻也
日本剣豪百人伝 学研
バガボンド(原作:吉川英治 画:井上雄彦)
その他諸々