Google検索

 

Google(グーグル)の検索エンジンは社名と同じGoogleです。ブラウザーはchrome(クローム)です。ブラウザーとは銀行でいえば、受付の人。検索エンジンは金庫から現金を出してくる人と思えば理解しやすいと思います。

 

                          

 

検索エンジンGoogleはこの分野で90%以上のシェアがあります。この独占的な立場での広告収入で巨大IT企業になりました。他社であるアップルもヤフーも検索エンジンはGoogleを使用しています。するとそこに何故?と疑問が起こります。

 

例えれば「どうしてトヨタのエンジンがスズキやマツダの車に搭載されているの?」そんな感じの疑問です。理由は簡単、それでGoogleには広告収入と

個人情報が入るのでOKなのです。

 

 

また、検索エンジンGoogle自体にもchromeと同じ検索機能があります。ならばchromeは必要無いのでは?そんな疑問がまた起こります。これは、検索エンジンGoogleには検索を受け付ける機能はあるけれど、それを表示してくれるのはchromeなのです。それはスマホ内部で自動で行います。例えれば、銀行の受付を通さないで出金を申し込んだけど、現金を渡してくれるのは受付窓口の人。そんな感じです。

                        

Google検索のこと,少しご理解出来ましたでしょうか。一つ一つの仕組みを理解することの積み重ねが,インターネットを理解する一歩一歩だと思います。仕組みを理解してスマホ、PCの操作を覚えることが全体を理解する事になると思います。

 

ちなみに以前Googleは独占禁止法で裁判になりましたが、それはセーフ!の判決でした。

 

-------------(おまけ) 気ままな雑学

 

歴史上の人物で名前は知っているけど、どんな人物なのか実はあまり知らない。そこのところを表面だけでも少しは知りたくなり、調べてみようと思いました。せっかくなので、「おまけ」で掲載することにいたしました。

 

 

           細川ガラシャ

 

細川 ガラシャ(明智たま、又は、たまこ 1563~1600)、

明智光秀の三女で細川忠興の正室。戦国から安土桃山時代 にかけての女性。

キリスト教徒。 

イギリスではちょうどエリザベス1世の時代。

 

 

父(明智光秀)の主君の織田信長の命により細川藤孝の嫡男の忠興に嫁いだ。信長は家臣間の婚姻を統制していた。信長は光秀の軍功を激賛。また細川藤孝の文武兼備を称え、武門の棟梁としての器を褒め、その実績を信長が評価したうえで進めた政略結婚。(1578年)天正6年8月、彼女は勝龍寺城に輿入れした。

 

 

天正10年(1582年)6月、本能寺の変が発生。その後の山崎の合戦において父の光秀が討たれ、明智家は断絶。しかし忠興は彼女と離縁はせず、天正12年(1584年)までの2年間、彼女を丹後の国味土野に幽閉した。

 

 

慶長5年(1600年)忠興は徳川家康に従い、上杉征伐に出陣する。忠興は屋敷を離れる際は「もし自分の不在の折、妻の名誉に危険が生じたならば、まず妻を殺し、全員切腹して、わが妻とともに死ぬように」と屋敷を守る家臣たちに命じていた。そして石田三成が西軍の兵をあげたので、徳川家康は上杉征伐からUターンして関が原に向かった。

西軍の石田三成は大坂の細川屋敷にいたガラシャ夫人を人質に取ろうとしたが、ガラシャはそれを拒絶した。その翌日、三成が実力行使に出て兵に屋敷を囲ませた。ガラシャは少し祈った後、屋敷内の侍女・婦人を全員集め彼女たちを外へ出した。「妻が人質となっては、戦場で夫も十分な働きができまい。わが夫が命じている通り自分は死にます」と言い、その後、家老の小笠原秀清がガラシャを介錯し、遺体が残らぬように屋敷に爆薬を仕掛け火をつけた。命を捨てての内助の功であった。『細川家記』は、彼女が詠んだ辞世として

散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ 」と記してある。

その知らせを聞いた石田三成はガラシャの死の壮絶さに驚き、他の諸大名の妻子が同様のことになったら東軍の恨みが倍増することを恐れ、人質に取ることを中止して、関ヶ原に向かった。

忠興とガラシャは仲睦まじい夫婦でした。そして関ヶ原の戦いの後、忠興はガラシャの死を嘆き悲しんだといわれています。

 

 

 

またね。