不思議な話、幽霊の話には有無を言わせない帰依のようなものがある。ので私は好き
畏敬なのだが‥
それは日本の宗教観にも通じていると思う
日本のそれは、特定の人物や特定の人間を祀り上げる肌臭いものではない。
回りの全てを対象とし、それに帰依する。
一方他国、特に西洋は(自然も含めて)やっつけようと思うのだから‥
ゴーストバスター?
やっつけようとするから、そこに深みも何もない そこからの学びも極小になるだろう
宇宙の成り立ちを理解する上でも、弊害方向にしか作用しないのでは
そんなだから、頼りとするのは理知的な優秀さしかなくなるし、『我は神と対等なり』など尊慢な態度に終始する‥
実際は、DSの中枢こそが不思議な話、理解を超えたところのものを求めているところも見えたりはするけれども
実際は二番手三番手の番頭が極悪なのかも知れない
(日月によれば)両者がまぐわう必要があるとか‥
例えばこちら側は、基地ママ、クレクレママに対して、逆騙しを用いて成敗する‥
そんな柔軟さが必要なのかも知れない。向こうの思考や行動の仕方も、自らにも取り込む柔らかさ‥
(手法が)悪だと決めつけて、世界から排斥するのが正しいのではない
その手法の使い手にも成れてこそ、共に螺旋を描いて進んで行ける
相手に両サイドの感性を持てと求めるだけでなく、自らも何某か‥
が(日月では)『考えることはもう無用(役に立たない)になる』とも言っているし‥
かと言って無策無努力のままでいい方向に向かうというのでもないだろう
が、「この方向に進みさえすれば全てが上手くいく」というのでもない(らしい)
結局(日月は)何も言っていないことに近いが、禅問答や覚者の教え方に似ている
しがみ付く、固執するものを一つ一つ外していくというか‥