僕が間に合った浅草の人々 平野栄造 | 荒井修のブログ

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僕の母親の弟、つまり叔父である。

この叔父はかね惣という包丁屋の先代であるが、大変面白い人であった。

若い頃にはジャズ好きで、浅草国際劇場にルイ・アームストロングが来た時もジン・クルーパーという名ドラマーが来て日本のジョージ川口とドラム合戦を行った時も僕を連れて見に行った。

もともとこのかね惣は正本という包丁屋で、本所や築地や古くは熱海にもあった一族である。

そんなわけで僕は若い頃、築地の正本の叔父さんの家にお祭の時などは神輿を担がせてもらいに行ったものである。

この築地の叔父さんというのが日舞を習っていて、その叔父さんの師匠が亡くなった後、師匠の追善舞踊会が三越劇場で行われた際も、弟子代表で口上を述べると言うほど熱が入っていたようである。

その時かね惣の叔父は「修、築地の叔父さんが口上をやるんだから大向こうかけてやれよ」と言った。

僕はずらーっと並んだお弟子さん一堂の中央で口上を述べる叔父の晴れやかな様子を見て、とっさに「待ってました、口上長」といってしまった。

築地の叔父は粋な人ではあったが、まさか口上長とかかるとは思っていなかったらしく、一瞬絶句し、その後でにやっとした。

客席は大笑いであった。

その中で一番大汗をかいたのはかね惣の叔父であったようで、後々まで「まさか口上長とかけるとは思わなかった、ふざけた奴だよ」と言っていた。

この叔父は町の囃子連として「あやめ連」を作った人でもあり、僕が何をやるにも相談に乗ってくれて「お前は粋がっちゃ駄目だよ、本当の粋とは品もなくちゃいけないんだから、そこを間違えるなよ」とよく云っていた。

当時はぼんやりと解った気がしていたが、今になって、そんな教えをいただいた事を感謝している。

僕の母親とこの叔父の二人がかりで江戸学の様なものをトコトン教育されたのだから、そんな事に傾かないで育つわけはない、だから僕は今でも江戸文化の傾き者として生きているのかもしれない。

チョット前までなら「いい若い者が」と言われたが、今では「いい年をして」という言葉がついた上でであるが。