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「ここにいますけど」

突然背中で聞こえた声と同時に、思いきり後ろから抱きしめられた。

「う、あっ……」

心臓が、止まった気がした。
驚いて振り向いた肩口で目が合ったのはほんの一瞬、すぐにその顔は視線を逸らして肩に埋められてしまった。

「翔さんっ……」


冷え切ったベンチの背もたれを挟んで背中に感じる温もりが探していた人そのものだと、現実を分かっても頭がついていかない。さっき止まりかけた心臓が、その反動のように激しく高鳴り出す。


「どっかでみたイケメンだなーと思ったら、なんと松本さんがいらっしゃるじゃないですか」

胸の前で交差している手にそっと触れれば、氷のように冷たくて。

「冷た……」
「こんなとこでなーにしてんだよ、あーなんか…… 松本はあったかいね……」

「何してんのはこっちのセリフだし……ねえ、翔さん」

いつもより舌の回らない口調は完全に酔っ払いそのものなのに。

「酔ってんの?」

肩に額を押し付けるように顔を埋めた櫻井が、はは、と小さく笑う。

「そうかもなー、松本がこんなとこにいるわけねえし。大分酔ってんのかな、俺」
「……どこ行ってたの?俺けっこう探したんだけど」
「んーと、俺ねえ、鍵失くしたの」
「……うん」
「そんで、代わりにコンビニ行ってた。そしたら松本の幻覚が」

櫻井がまた、あははと笑った。
人の肩に顔を沈めて笑うから、妙にそこが熱くて擽ったい。

「幻覚のくせに松本の匂い」
「本物の松本ですけど」
「うっそだよ、だって松本は今頃彼女と、」
「別れてきた」

肩にのった頭の動きがぴたりと止まる。
抱き着いていた腕と、背中の温もりが離れる気配を感じて、慌ててその腕を強く掴んだ。

「このまま聞いて」

まるで呼吸まで止まってしまったのかと思うほど急に静かになってしまった相手に、少しだけ不安になる。それでももう伝えずにはいられない。

「今日は初めからそのつもりで会ってきた。自分の気持ちを抑える必要なんかなかったって気付いたから」
「……」
「翔さん」
「……ん」
「顔、上げて?」

さっき離れていこうとした腕が、今度は苦しくなるほど強く抱きしめてくる。
止まっていた耳元の息遣いも、不規則に聞こえだした。
そのうちにゆっくり頭を持ち上げた櫻井が、機嫌の悪そうな顔で松本を見てスンと鼻をすすった。

「なにその顔」
「……別に、普通じゃね」
「そういう顔で聞いてほしくないんだよな」
「は?」

大袈裟に目を開いた櫻井の唇を、自分のそれで塞いだ。
触れた瞬間少しひんやりした口づけは、重ねた場所から生まれた熱に溶けていく。
逃げないで、と願った数秒、そのまま。
そっと唇を離すと、櫻井がゆっくり息を吐いた。

「好きだよ、翔さんが」

自分を見つめる瞳が戸惑うように揺れる。
思わずもう一度唇を重ねる。
ほんの少し躊躇いながら、それでも受け入れられる接吻。溢れそうになる想いを精一杯抑えて、何よりも伝えたかった言葉を。

「本当はずっと、翔さんのことが好きだった」

吐く息の白さが増したように感じた。


「……ずっと、言わなかったくせに」
「それはお互い様でしょ」

驚いた表情に変わる櫻井に微笑んでみせる。きっと上手く回らない頭で、それでも松本の言葉の意味を理解した。

「……だいたい、こっちはめちゃくちゃ酔っ払ってんだぞ、もっとTPOとか、そういうのわきまえろや」
「え、そんなんでいいんすか」
「なにが」
「俺の気持ちに対する翔さんの返事、そんな可愛くない感じでいいの?」
「おま……それ、ハードル上げてるだろ……」

相手の気持ちも、どうしようもなく照れていることも分かっていた。
少し潤んで見える瞳も、頬や耳の赤さも定まらない視線も、きっと酔いのせいじゃない。
本当は十分すぎるほど伝わっている。
じっと見ていたら、何度かチラチラ目が合ったあと、不意打ちのように向こうからキスをされた。
一つ触れるだけの軽い口づけを落とされ、見つめ返した視線に応える相手の眼差しがそのまま外されないことに気づくと同時に、これがさっきまで照れていた人なのかと思うような接吻を、そっと、熱く、深く。

「これで、ご満足いただけましたでしょうか!いいかげん腕離せよ、俺ずっと中腰なの地味にしんどいんですけど」

一層顔を赤くした櫻井に睨みつけられて、ようやくその手を解いた。
この後どうするんだ、と言う櫻井に持っていた合い鍵を見せると、思い出したような複雑な顔でそうだったなと笑ったあと、優しく正面から抱きしめられた。


部屋へ向かう背中を眺めながら思う。
櫻井はいつから自分を想っていたんだろうか。
そもそもまだ、彼の口からはっきり好きだと言われたわけじゃないけれど。
だから気になっても、聞くに聞けない。

「あの時さ」

不意に前を歩く櫻井がぽつりと呟いた。

「ぶっ倒れたお前をこの部屋に運んだ日、お前から色々話聞いてって、他のやつのこと抱いてるお前を想像して。なんか、それは嫌だと思った」
「イヤって、どういう意味?」

たどり着いた部屋の前でドアの鍵を開けながら、首をひねる。

「わかんねえけど、自分の知らないお前の……潤のこと考えたら、すっげー嫌だった。どこにも行かせたくないって、そんな風に思った」
「……なにそれ」

カチャッと音がしてドアが開く。

「まじでガキだろ?だから、お前のためなんかじゃなかったんだよ本当に。あの日お前を引き止めたのも、お前に抱かれたのだって、全部さ……言ってみれば俺の我儘だから」

開いたドアにもたれてどうぞと中へ促す櫻井を、自分の身体と一緒にそのまま玄関の中へ引きずり込んだ。
首筋にかすかに残る痕にそっと触れる。だけど今は、そこに咬みつく必要はない。
重ねた唇の隙間から零れる吐息と、呼ばれる名前。
蹴とばすように脱ぎ捨てた靴が、閉まるドアに小さく当たる音が聞こえた。