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「蛍なんていないのに、何呼んでたの?」


さっきまでの自分と同じようにフェンスにもたれた松本が、眼下の景色を見下ろしたままそう言った。もしかして、バレたかもと思った。ここから何が見えるのか。

だとして、もしも何かを思ったとしても、松本がそれを自分に確認することには何の意味もないし、いくらでも言い逃れはできるけれど。

「彼女待ってんじゃねえの。早く行けよ」
「俺、翔さんが煙草やめてたの知らなかった。ちょうどあの日のあたりからだって?」

不意打ちでこじ開けられた仕舞い込んだ記憶。

どうして。

心がざわついた。これはきっと苛立ち。

松本の目を見れない。


普通って、どんなだっけ。

「まあもう断念したけどな。なんとなくやってみただけだから、そんなもんだよ」
「人に寄るとは思うけど、離脱症状って1カ月くらいで落ち着くんだって。せっかくひと月半も頑張ったのに、勿体ない気がするけど。むしろ前より吸う頻度上がってるんじゃないの?」

心臓をぎゅっと握られたようだった。途端にきゅうきゅうと胸の奥で小さく悲鳴が上がりだす。
お前のためにやめてたんだよ。
喉まで出かかった言葉を飲み込んで、なんとか代わりに出たのは乾いた笑い。

「さっきから、お前は俺のおふくろかよ」
「……おふくろなんだ?カノジョじゃなくて」

そう言った松本の顔が、あ、と気まずそうに曇った。
瞬間、堪えていた感情が爆発した。

「もう俺のことなんか放っとけよ!お前がっ……」
「……翔さん?」

思わず声を荒げてすぐに、まずい、と思った。
怒鳴りかけたことにじゃない。

見える景色が突然揺らぎ出したから。

自分でも信じられなかった。

「……もう行けよ。女待たせるとかサイテーなんですけど」

悲しいとか寂しいとか。そんな風に感じたくはなかった。
背中を向けて顔を見られないようにした。
タイミングよく背後で鳴り出す携帯の音、電話の相手はきっと今視界に見えている彼女。ぼやけてみえるそのシルエットが携帯を耳に当て、周りを見渡している。

「ほら、こんなとこで浮気してる場合じゃねえじゃん。俺もあと一服したら戻るし」
「まだ吸うの?」
「別に誰も困らねえだろ」
「そんな言い方……。じゃあ俺、行くけど」
「おー。あ、これありがとな」

顔は見れない、見せられない。きっとひどい顔をしている。声が震えてしまいそうで怖かった。
暫く背中に感じていた気配が消えた頃、やっと大きく息を吐いた。
途端に何かが崩れていくように、見える景色が一気に歪んでいく。
突っ伏した先でふわりと顔に触れたのは、抱えていたブランケット。
声にならない嗚咽が漏れた。上手くできない呼吸が苦しくて強引に息を吸い込めば、散々知っている松本の匂いがした。

平気だと思いたかった。
松本がそうしたいなら、支えてくれる相手がいるなら、それが自分じゃなくても。
気付きたくなかった。
辛いと感じる余裕もなくなるくらいに、松本を好きになり過ぎていた自分に。