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気付いた時には惹かれていた。
最初はその人となり、中身に惚れて、だけど例えば形の良い唇とか。
笑うと下がる眉毛とか、吸い込まれそうな大きな瞳とか。
細くて長い指も、優しい声も。
気付けば彼を象る全てを、どうしようもないほど好きになっていた。

「大丈夫かよ」

すぐ耳元で声がして我に返る。
見ると、眉を寄せて覗き込む不安げな顔。
正直限界を超えていた。

実際声をかけられるまでの間は、朦朧とする意識にのまれていた。

「もう帰っとく?具合、悪いんだろ?だから今日帰る気だったんだろ、だったら最初からそう言えよ……」

はあと小さく溜息をつく櫻井に、彼に心配されているこの状況も悪くないな、と思う。

櫻井は院卒、松本は大卒で年齢は違えど同期入社だった。
親しくなってもずっと自分を苗字で呼び続ける櫻井に、いつだったか下の名で呼んでほしいと伝えたことがある。
今更どうしてと笑われ、それでも了承してくれた。それからも櫻井は頑なに先輩や同僚たちの前では松本を苗字で呼び続けたけれど、そのせいで二人でいる時に下の名前を呼ばれることが何か特別なことのように感じられて、それだけでも十分嬉しかった。

今夜は満月だから、こうなることは分かっていたのに。
特にこの人からは離れなければと思っていたのに、一時の感情に流されてしまった。
自分の身体を甘く見ていた。

「な、潤?」

周りには聞こえないほどの声で櫻井が囁く。
こんな時でもそれが嬉しくて、末期だなと思う。

自分を呼んだその唇からほんの少し視線をずらせば、首筋にうっすら走る脈が誘うように白く浮かんで見えた。
途端に感じる強い衝動。
思わずそこへ触れようと手を伸ばしかけ、ぎりぎりで留まった。

「ごめん……ちょっと外行ってくる」
「あ、おい」

逃げるようにその場を離れた。

これ以上はマズい。
店の外にでると、ひんやりとした夜の空気が身体を包み込んできた。けれどそれを心地良いと感じられたのもほんの一瞬で、すぐに行きかう人波に眩暈を覚え、再び激しくなる動悸に理性が悲鳴を上げ始めた。

櫻井の言う通り、もう帰ろう。
電車は人が多すぎるから、タクシーを拾って……。

「大丈夫ですか?」

しゃがみ込んでいた頭上から、突然声が降ってきた。
顔を上げると知らない女が立っていた。

「あ、ごめんなさい、いきなり。さっき中ですれ違った時にすごくしんどそうに見えて……」
「……ああ、いや」
「酔ってる訳じゃなさそうだし、どうしたのかなってちょっと気になっちゃって」

直感的に、餌が来た、と思う。
こんな場所で酔っ払いかもしれない見ず知らずの男に話しかけてくる、その軽率な行動への貶みも込めて。

「おにいさんの荷物、私代わりに取ってきましょうか?友達と飲んでたんだけど私ももう帰りたかったし、一緒に出ません?」

だけど、ちょうど良かった。
これから帰るにも、タクシーを使うとしても正直なところきつかった。
この人に荷物を取りに行かせたら、櫻井はどう思うだろうか。
かと言って今またあの場に戻れば確実に彼に掴まるだろうし、性格上、下手をすると一緒に帰ると言いだすかもしれない。

頭に浮かんでいるのは頑固でお節介な、優しい彼のことだけ。

黙ったままぼんやりと目の前の女を見上げていたら、微笑みながらゆっくりと屈み込んできた。
長い髪が外の視界を遮るように垂れて、顔と顔が近づく。
なんでもいい、今まで隠してきたものが彼にバレずに済むのなら。
このまま、この女と近くのホテルで──

「松本!」

突然、想像の中の声に名前を呼ばれた。

「……翔さん」
「おまえ、何してんだよ。なかなか戻ってこねえと思ったら」

呆れたような苛立っているようなその声の主が、ずんずんと近づいてくる。

「……それ、」

櫻井の手には松本のジャケットとバッグ、そして彼自身の荷物が持たれていた。

「いいから!も、帰るぞ。あー…すみません、コイツ体調悪いみたいで、ご迷惑おかけしました」

呆気に取られている女に軽く頭を下げた櫻井に手を引かれるまま、店を離れ駅へと向かって歩き出した。

──どうして。

会社帰りのサラリーマンや遊びたい盛りの学生たち。溢れ返る人の匂いに触発されて、危険な衝迫が強くなっていく。
人波をかき分けて進む櫻井の速度は速く、掴まれたままの手首が少し痛んだ。
目の前の、肩の撫でた、鍛えている割に華奢な背中。その背中がここにいることに徐々に焦りが募っていく。

どうして彼がここに。
最も避けたかった状況に近づいている気がした。
胸が詰まる。

これは自分のせいだ。

さっきの女のせいでほとんど栓の外れかけた欲望の出口で、身体の奥から湧き上がる何かが今にも溢れ出そうと犇めいている。
突然、歩く速度を緩めた櫻井の背中にぶつかった。
瞬間弾みで吸い込んだ香りに強く脳が痺れていく。蕩かすような香り、微かに彼自身の汗と煙草の匂い。

「わりい、ちょっと速かったよな。お前が気分悪いの忘れてたわ」

振り返った彼と目が合って、必死に繋いでいた何かがプツリと切れる音がした。