こちらはBL(潤翔)の妄想小説になります。


苦手な方は御遠慮ください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


Side 翔
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階段を上り切ったところで一気に力が抜けた。

鳴り止まない鼓動。

必死に隠して、平静を装った。


彼の──潤の視界からは自分の姿が見えなくなっているのがわかっていたから、思わずそのままその場にしゃがみこんだ。

……俺、何か変なこと言ってなかったか?
よく覚えてないけど、多少強引だったかもしれない。
いや、もしかしたらかなり押し付けがましかったかも。

だけどさっきのあれは間違いなくチャンスだった。

言ってみれば、俺は困っている人を助けただけ。

そして貸したものを返してもらうだけ。

こんな至極真っ当な理由で彼と距離を縮められるなんて。


そもそも話しかけてきたのだって向こうからだったんだ。

どう見てもおしゃべり好きなタイプには見えない潤が、どうして俺に話しかけてきたのかは正直わからない。

朝から参考書を読むようなやつによっぽど興味があったのか。

なんにせよ、おかげで明日の約束まで取り付けた。また明日も会える。

……あいつが、潤が俺の名前を呼んだ時、正直心臓が止まるかと思った。
傘に書いた文字を読んだだけだとすぐに分かったけど、それでもその声で「しょう」と言われただけで思わず胸が苦しくなった。

マジかー……。


今朝まで推しだなんだと一方的に崇めていた相手と、こんなかたちで接近することになろうとは。
思わずニヤつく口元に、慌てて両手で顔を覆った。


「きみ、大丈夫?」

不意に頭上から降ってきた声に顔を上げれば、四十前後のサラリーマンが俺の顔を覗き込んでいた。

「さっきからずっとしゃがんでるから。具合悪いの?どこかで少し休んだ方がいいんじゃないか?」

その目をみてすぐにピンと来た。
善人のような笑顔を張り付けたおっさん。
公共の交通機関を使った通学生活も3年目ともなると、嫌でもそれなりに経験も積み覚えてくるものだった。
さすがにこんな朝っぱらから電車の中以外で遭遇したのは初めてだけど、たまに出没する人の皮を被った獣の目。

「いえ、大丈夫です」

気分が悪いと思われたことも心外だった。
残念ながら俺は今すこぶる気分が良い。

「そんな訳ないだろう、すごい汗かいてるじゃないか……ちょっと休めるところへ行こうよ」

なんだそれ。

朝っぱらからこんなに堂々と盛ってる奴がいるもんなんだな。せっかく天に登りかけていた気分がおかげでダダ下がりだ、胸くそ悪い。

思わず舌打ちをしてからさっさとこの場を離れようと歩き出せば、突然強い力で腕を引っ張られた。

「正直かなりタイプなんだよね、きみのこと」

そのまま耳元で荒い鼻息と共に囁かれて思わず肌が粟立った。
だけどその一方で何か引っかかっているものを思い出した気もした。

しつこいおっさんには、ある程度年配の女性の集団に“助けてこの人痴漢です”と彼を差し出せばあっという間に撃退できるということを高一の頃に覚えた。
今もちょうど向かいから歩いてきた3人組の女性を呼び止めれば、たちまちおっさんは取り囲まれて袋の鼠状態になった。こう言う時、集団の女性はマジで強い。

腹は立ったがそもそも乗車予定の電車を見送ってしまい遅刻しかけていた状況を考えれば、むしろ今日は都合が良かったかもしれない。
今日の遅刻はおっさんのせいにしよう、そう思えば多少鬱憤も晴れた。
だけど、そもそもそこまで寛容になれているのも潤との距離が縮まって浮かれているからで。
多少の苛立ちは相殺されてどうでも良く思えた。

普段はとっくに正門をくぐっている時間、いつもより少し人の少ない電車に揺られながら。
タイプなんだよね、と言うおっさんの言葉で思い出したのはバスの中で潤に言われた同じような台詞。

「結構タイプかも」

そういや、確かに潤はそう言った。
だけどあの会話の前後が明確に思い出せない。
俺のことを言ったのか、もしかしたら後ろにいた女子高生集団の誰かのことかもしれない。
考えても考えてもそれが全て自分に都合よく捏造した記憶に思えてしまって。

過ぎた記憶に縋るよりこれからの明日だろ。

ウダウダしている自分が面倒になってきて、強制的に思考を停めた。





翌日、約束通り潤はバスに乗ってきた。
晴れた日に車内で彼を見かけるのは初めてだった。

席を立ち、いつもの定位置についた潤の横に並ぶ。


「よう、ちゃんと忘れなかったな」

「おはよ……いや、ごめん。忘れたわ」


「忘れた?」

「あんたの、翔さんの傘。持ってくんの」


「しょ……」


不意打ちで呼ばれた名前に思わず反応してしまった。
傘のことより何よりそこかよ、と自分につっこみつつ顔が熱くなる。
いやマジで……名前を呼ばれたくらいで。

「ああ、翔さん3年でしょ?俺2年だから、呼び捨てもどうかと思ってさ」

察しよく潤が言う。


「──そっか。いや、うん。いいんじゃねえの?」

「……よかった。傘、ごめん」

動揺を隠すのに必死ですぐに忘れてた。
ああ、そうだ、傘の話だ。確かに見た時から浮かない顔をしてるような気がしたんだ。

え、こいつ傘もねえのにわざわざバスには乗ってきたのか?
それじゃただの運賃の無駄遣いっつーか、何しに来たんだか……

……なんて。

俺としては正直潤に会うことしか考えてなかったから最早傘なんてどうでも良いし、むしろそれでも彼がわざわざバスに乗り今ここにいることが嬉しかった。

ずっと潤が傘を持ったままでいてくれたらとさえ思う。
そしたら、いつでもそれをダシに話ができるだろうから。

「いいよ、気にすんな。傘なんて別にいつでも大丈夫だから」

「いや、明日は持ってくるから。俺明日もバスに乗るよ」

「とか言ってどうせまた忘れんじゃねえのー?」

「うあっ⁉」

気落ちして見える潤を笑わせたくてその脇腹を肘でぐいぐい小突いてみたら、思いのほかでかいリアクションで身を捩られた。
その途端タイミング悪く揺れた車内で大きく潤がフラつき、俺は慌ててその腰を引き寄せた。

「悪い、ふざけ過ぎた……」

顔を上げると驚いた顔で俺を見る潤と思いっきり目が合った。

こんな時なのに、やっぱり、同じ人間じゃないみたいに綺麗だなんて思ってしまって。
きっと見つめ過ぎた。
大きく開かれていた薄茶色の瞳がゆっくり細められていって、不意に潤が囁くように言った。

「ねえ、俺のことも名前で呼んでよ」

「……え?」

彼の言葉に落ち着いていたはずの鼓動が激しく脈打った。

「呼び捨てでいいから」

──“潤”

「あ、え、……」

心の中じゃとっくに呼んでる。
なのに正面切って呼べと言われると、馬鹿みたいに喉が詰まった。

「じ、……潤……?」

やっとで声を絞り出すと、すぐに相手は満足そうに笑った。

「よかった、名前覚えてくれてたんだ?」

「そりゃまあ……昨日の今日だし。え、まさか俺、試された感じ?」

急に名前で呼んでなんて、しかもやたら熱っぽい目でこっちを見てくるから。
……めっちゃくちゃ焦ったじゃねえかよ。

「別に?呼んで欲しかったから。もし俺の名前忘れてたらまた教えておかなきゃと思って」

嬉しそうに笑いやがって。
どういうつもりだよ……でも、なんか。

「こう見えて俺めちゃくちゃ物覚え良いんだからな、忘れ物なんかしねえの。まあ、誰かさんと違って?」

動揺させられた悔しさみたいなものもあって嫌味ったらしくそう言ってみたものの。
ふーん、誰かって誰だろねと俺の揶揄すら嬉しそうに窓の外を見る潤の横顔が、ものすごく……愛おしく見えた。




次の日も潤は約束通りバスに乗ってきた。


そして再び傘を忘れたと言った。

その次の日も。
またその次の日も。

バスには乗るのに傘は忘れる。


やがて俺は、傘のことに触れなくなった。


潤がどういうつもりで毎朝バスに乗ってくるのかは分からないけど、もしかしたら傘を失くしたか持ち出せない理由があるのかもしれないと思った。
そうだとしてなぜそのままを言わないのかもまた分からなかった。
傘の一つ失くしたって別にかまわないし、何か訳があるなら普通に話してくれたら良いのにと思った。

だけど俺は傘について触れなかった。

毎朝開口一番に“ごめん、また傘を忘れた”と謝っていた潤がその言葉を言うよりも早く、他愛もない話を無理矢理ぶちこむようにした。
彼にごめんと言わせたくなかった。

そのうち潤も傘のことなんか忘れたみたいに、ただバスに乗ることが当たり前かのように笑っておはようと言うようになった。


このままずっと続けられると思っていた訳じゃない。
だけど俺には、少しでも潤と長くいられる方法がこれしか浮かばなかったから。

彼がバスに乗る理由が“今日こそ傘を返すつもりだから”に他ならないのなら、ずっと持ってこないでくれと、忘れていてくれと願うことしかできなかったから。