明治期まで神仏習合の神さまだった「勝神」
八幡さまは、おいなりさまに次いで全国に2番目に多い神社である。その上歴史が長く、古くから祀られている場合が多い。これはひとえに、武士の神として崇められていたからでもあるが、町民文化が隆盛を極めていた江戸の町中にというより、それ以前、武蔵野国の中心であった府中を中心とした場所のほうに多いようである。そう言った背景の中、この「西久保八幡神社」は、1000年以上の歴史を持ちながら江戸城に近い場所に位置する唯一の八幡さまである。そして武士に信仰が厚かったことからわかるように、「勝負運」「災難除け」のご利益がとくにある神として、日本全国各地と同様、土地の人たちに愛されている。
○太田道灌が現地に移した武神
「西久保八幡」は八幡太郎の名で知られる源義家のおじいさん(源頼信)が平安時代に創建したお社である。現代でも日本三大八幡といわれる京都・石清水八幡宮を勧請し、霞ヶ関あたりに作られたようだが、太田道灌が江戸城築城に際し、現地に移転した。つまり、江戸城の真南から裏鬼門の位置へ移したわけだ。延長線上に…品川神社がある。「西久保八幡神社」の祭神は応神天皇(品陀和気命)、神功皇后(息長帯比売命)、仲哀天皇(帯中日子命)、つまり八幡神(応神天皇)と、そのお父さん、お母さん。かぎりなく神話と実話の境目にいらっしゃる天皇である。朝鮮半島を支配下においた戦の武勇から、武神として祀られた。で、品川神社はスサノオ。邪気払いに力のある神さまを、江戸御府内に釘打ちのように配してまわる太田道灌に執念すら感じる。
「8八幡詣」が今でもできる
江戸城の東から南にかけての側は、ご存知の通り古くからの土地ではない。徳川家康が江戸にきた当時は、皇居のあたりが入江だったくらいである。実は「西久保八幡」の境内裏手斜面からは貝塚が発見されている。塚からは縄文時代の土器なども発掘されていて、今注目されている貝塚のひとつなのだとか。縄文の人たちが、海岸線から遠く離れた場所に貝塚を作るはずもなく、このあたりは海岸線に近かったということなのだろう。話がそれるが、関東は実は貝塚や古墳の宝庫なのだそうだ。特に縄文期の貝塚は日本全国で発見された1/4くらいが東京湾に集中しているのだとか。一説には、貝塚は神聖な場所(=パワースポット)であったとも言われていて、その場所に現代の神社があるということはある意味、奇跡に近いのではないかと思う。たしかにここはよい場所だ。行かれるとよくわかると思う。この土地をほしがった団体がすぐそばにいる。江戸時代も武家屋敷地帯である。そしてなにより江戸時代から昭和52年まで「神谷町」と呼ばれていた土地である。
ところで八幡神社の多くは、何もない土地に祀られ始まった場合が多い。そのため高台にあったり、しっかり垣が作られたり、当然選ばれた土地に建っている。江戸時代、「8八幡詣」という宮参りが流行ったが、15里(60キロ)ほどの距離を歩いて1日で回っていたというから驚きである。ちなみに、あとの7社は富岡八幡宮(門前仲町)、市谷亀岡八幡宮(市ヶ谷)、穴八幡宮(早稲田)、大宮八幡宮(永福町)、鳩森八幡神社(千駄ヶ谷)、金王八幡宮(渋谷)、御田八幡神社(三田)である。いずれも今も有名な神社ばかりだ。まだご紹介できてないのは…2社を残すのみ。
太田道灌や崇源院(江姫)など歴代の為政者から多大な帰依をうけていたとは言え、戦争時の空襲ですべての建物などを失った西久保八幡神社が、復興を終えたのは昭和50年代に入ってからである。境内の稲荷社、人麿社、庚申社も以前と同じように鎮座している。
ところで、八幡神社は江戸時代まで神社でありお寺でもあった。神さまでもあり八幡菩薩とよばれる仏さまでもある。最近、神社にいくと二礼二拍手一礼で参拝を、と書かれているお宮をよくみかけるが明治時代まではどうしていたのだろう…と疑問に思う。そんなことよりも、帽子を被ったままで参拝するほうが、よっぽど非礼だと思うのだが。なので、ここのように歴史ある社でありながら、好きにお参りさせてもらえる神社はとても好感がもてる。残念ながら建物はそんなに古くはないのだけれども。