私は、2006年のインド・コルカタ(旧カルカッタ)訪問をきっかけに、
その後、約10年間の間、毎年1~2回、
太平洋戦争の激戦地跡を、慰霊の旅に出かけた。
(コルカタのチャンドラ・ボース記念館での一コマ 2006年3月)
巡拝先は、東南アジアと太平洋島嶼国が中心だが、
激戦地跡は、一般の観光やビジネスで訪ねるような場所ではなく、
まさしく人跡未踏の未開地域ばかりと言ってよかった。
(例1:インドネシア・イリアンジャヤでの、予期せぬ苦難のジャングル山越え)
<2012年5月>
現地に辿り着くまで、交通手段は限られ、不便この上なかったが、
それだけに、途中、普通では見る事が叶わないような絶景を目にしたり、
日本では考えられない、驚くようなシーンにも何度か出くわした。
(例2:マーシャル諸島共和国 ミリ島の美しい海) <2008年4月~5月>
(例3:雲を写した、西部ニューギニアでの美しい川面) <2012年5月>
海外戦地巡拝については、これまでも、時々ブログに上げさせて頂いたが、
今まで取り上げて来なかった巡拝地もいくつかあり、
また、未公開の珍しい動画や写真もあることから、
今後、折々、このブログに投稿させて頂くことにした。
前置きはこれくらいとし、
今回は、2010年4月28日~5月5日に訪ねた、
パプアニューギニアの戦地巡拝の模様を記してみる。
同国第2の都市であるラエ市内の戦跡巡拝と共に、
ヘリコプターをチャーターして、
サラワケット山(標高4100メートル)の山頂上空まで飛び、
1943年の秋、同山の山越え撤退行軍中に亡くなられた、
3000名に上る日本の兵士たちのご冥福をお祈りさせて頂いた。
ラエ市内の巡拝に使った車は、このような感じ。
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(所要時間:32秒)
=下の「YouTube」枠内をクリック頂きますと動画が現れます。以下同じ 🙇♂️=
動画に写っている日本人は、ガイドを頼んだ現地在住日本人のNさん。
小生たちの乗っている車は、実は警察のパトカーで、何と運転手も警察官!😆
現地にはタクシーとかハイヤーと言ったものはなかった。
何故、警察車両が観光タクシー代わりになるのか、
未だに、そのカラクリは小生には分からない。
しかし、車の乗客を狙った強盗(ラスカル)が跋扈する街中では、
警察車両が一番安全と言えば安全ではある・・・・・。😌
ちなみに動画の画面が激しく揺れているのは、
デコボコの車道を勢いよく走る、我がパトカーのせい・・・。😣
ラエ市内の民家敷地内に残る、日本軍の高射砲陣地跡。
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(所要時間:1分14秒)
動画の中で、日本の関係者と国際電話をしているのはNさん。
Nさんは、現地にあって、日本の遺族会からの依頼を受け、
ラエ近郊に今も眠る日本軍兵士のご遺骨収用の情報収集等の活動もしてみえる。
この陣地は、新潟県在住の故佐藤弘正氏が配属されていた部隊の陣地。
佐藤さんの著書「ニューギニア高射砲兵の碑(いしぶみ)」を拝読させて頂いたことが、
このサラワケット巡拝のきっかけだった。
巡拝の前後2回にわたり、小生は新潟の佐藤さん宅を訪ね、
サラワケットやラエの戦闘について、貴重なお話を伺ったという経緯がある。
(故佐藤弘正さんのご自宅で撮影)・・・拙著「私の海外戦地巡拝六年間の軌跡」から)
さて、2010年5月1日早朝、ヘリコプターで、ラエの飛行場を飛び立つ。
前日まで雨模様だったのが、この日の朝は快晴となった。
1年の内、ラエの街からサラワケット山が遠望できるのは、
数える程だという。
この日は、ラエから遥か北の彼方に、
サラワケットの山並みがクッキリと見えるという絶好の日和!😄
ラエの飛行場では、ヘリが、搭乗する我々を待っていた。
写真の向って右が、現地在住のNさん。
ラエの飛行場👇
(所要時間:13秒)
いよいよ離陸。 緊張の一瞬。👇
(所要時間:18秒)
山越えの撤退行軍の目的地は、
サラワケット山を越えた向こう側のキアリという部落。
直線距離では、ラエからサラワケット山までは、約100キロ、
更に、キアリまで50キロで、全長150キロ。
しかし、行軍途中には日本アルプス並みの山脈が幾つも連なり、
歩行距離では、ラエからキアリまで、約500キロもの長丁場。🥴
目的地まで、足の早い兵士で2週間、平均で1か月もかかったという。
1週間分の食糧しか持たされずに行軍を開始した兵士たち、
当初は8000名いたが、目的地まで辿り着いたのはその70%に減っていた。
約3000名近い兵士たちが、苦しい行軍の中で、飢えと病気で亡くなられた。
そのほとんどのご遺骨は、今も山中に眠る。
戦史に「サラワケット死の行軍」と名付けられた大悲劇である。
標高2~3000メートルの、鬱蒼と茂った山々が連なり、
そのはるか彼方に、サラワケットの山並みが見える。
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(所要時間:24秒)
(所要時間:1分37秒)
眼下に、高地集落のアベ村も見える。
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(所要時間:43秒)
アベ村は、行軍兵士たちが、サラワケットへの急峻な大壁に取り付く前の、
最後の休息所となった村。
山頂上空での巡拝の後、ヘリを着陸させて慰霊のお参りに立ち寄る予定の村。
幾重にも重なる山々を上り下りしながら、乏しい食糧と疲労困憊の中を、
兵士たちは、サラワケットの山頂を目指して歩を進めた。
重畳と重なる山並みの向こうに、サラワケットの大山塊が迫ってくる。
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(所要時間:48秒)
4000メートルを越える山頂域は、
草木もまばらな、荒涼とした高原台地だった。
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(所要時間:1分20秒)
佐藤弘正さんによれば、
兵士たちは、この山頂域を、乏しい食糧と疲労困憊の中で、丸一日歩き通し、
やっとの思いで、向こう側の下山口に辿り着いたという。
しかし、力尽きた800名余りの兵士が、この山頂で亡くなられた。
戦後、ご遺骨の収容は、ほとんど手付かずの状態・・・・。
山頂上空から、持参した伊勢神宮五十鈴川の御水を注いで、
行軍途中、心ならずも息を引き取られた兵士たちの御霊安かれと お祈りした。
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(伊勢神宮内宮 五十鈴川の御水 👇)
下の写真は2009年4月のミャンマー・シッタン村(白骨街道)巡拝時のもの。
巡拝時は、いつも事前に内宮にお参りし、五十鈴川の御水を汲み取って現地に持参。
山頂上空を一周し終わる頃、急にガスが掛かり出し、山頂域が見えなくなった。
好天のサラワケット山頂上空を慰霊飛行できたのは、まさに英霊のご加護のお陰!🙏
この後、標高2800メートルの高地集落、アベ村への着陸を敢行。
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(所要時間:3分32秒)
行軍した兵士たちが、サラワケットへの最後の登攀に臨んだ際に、
休息したというアベ村。
アベ村の周辺でも、約800名の方々が亡くなられたと言われているが、
やはりご遺骨は、今日に至るまで収容されていない。
突然のヘリコプター出現に驚き、
村中総出と言った感じで飛び出して来た住民たち。
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(所要時間:42秒)
ガイドのNさんには、住民らに、村近郊のご遺骨存否を聞き出して頂くと共に、
ご遺骨収用への協力を依頼して頂いた。
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(所要時間:31秒)
村の土に五十鈴川の御水を注ぎつつ、
この地で亡くなられた兵士たちのご冥福をお祈りさせて頂いた。
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こうして約2時間のヘリコプター巡拝を終え、無事ラエの飛行場に帰還。
その翌日、ラエ近郊のガワン村で、2柱の日本人兵士のご遺骨を収容。
ガワン村は、車で行けるサラワケット山麓の村。
行軍の撤退路にあたる村だ。
このお二人の方々は、恐らく行軍が開始された直後の段階で病に倒れられ、
皆に付いて行くこも叶わず、そして、誰かに看取られることも無く、
村の近くで、寂しく亡くなられたのであろう。
改めて、ラエ近郊の戦闘、ならびにサラワケット越え行軍で亡くなられた方々の
ご冥福をお祈り申し上げます。
合掌
(追加)
今日(令和6年4月20日)、自宅のこのツツジが一斉に花を開いた。
拝