9月以来、長い間ぐずついていた天候もようやく持ち直し、
この秋一番の好天気に恵まれた八ヶ岳の山麓を訪ねました。
今回は、八ヶ岳の東側、すなわち野辺山と清里と言う有名スポット。
緊急事態宣言が解除されたためか、
JR中央線を利用する観光客は増えている印象でした。
しかし、小淵沢駅から始まる高原鉄道線「小海線」の乗車率はまだ低く、
清里・野辺山までは静かな山の列車の旅。
(以下、写真はいずれも令和3年10月4日~6日の撮影)
(小海線のハイブリッド・カー)
(野辺山駅のホーム)
(JR鉄道最高地点表示ポール<標高1575メートル>・・・車内より撮影)
小海線の野辺山駅はJR最高標高の駅として知られています。
が、駅のすぐ前に建てられている「豫科練(よかれん)の碑」は、
まだ余り知られていないようです。
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昭和20年(1945)に入り、日本海軍は、
この高原平野の野辺山に、1200名余りの予科練<※1>出身の飛行士を集め、
新鋭ロケット戦闘機「秋水(しゅうすい)<※2>」の飛行訓練を始めました。
<※1>予科練:
・正式名「海軍飛行予科練習生」、日本海軍における航空兵養成制度の一つ。
・太平洋戦争に入り、各期3万人以上の大量採用。
・予科練航空隊は全国に新設され、三重海軍航空隊・松山海軍航空隊など、
最終的には19か所に。
・昭和19年に入ると特攻搭乗員の中核となり、多くが落命。
・古関裕而氏の「若鷲の歌」で有名。
(♪赤い血潮の予科練の 七つボタンに 桜の錨・・・・)
<※2> ロケット戦闘機「秋水」試作機 (ウイキより)
野辺山は、事実上の特攻訓練基地となったのです。
幸いにして、このロケット戦闘機が完成される前、同年8月の終戦となったため、
多くの飛行士は命を失うことはありませんでした。
しかし厳しい訓練中、
飛行教官を始め殉職された方々がおられたという悲しい歴史も持っています。(合掌)
今、野辺山は高原野菜の一大産地として、また有数の観光地として知られていますが、
今を去る75年前、敗色濃くなった日本を、何とか持ち直さねばという必死の努力が、
この地で繰り広げられたことを記憶に留めておきたいと思います。
飛行士たちは、間近に迫る八ヶ岳や、近くに聳える富士山、
そして南アルプスの雄大な山々に、何を思いながら、訓練に明け暮れした事でしょう。
(麓から眺める八ヶ岳)
(清里から眺める富士山)
=早朝の富士=
=夕べの富士=
=真昼の富士=
ところで、野辺山で飛行訓練がなされた「秋水(しゅうすい)」は、
元はドイツで開発されたロケットエンジンを積む戦闘機でした。
このロケット戦闘機の情報入手に死を賭した、日本海軍の潜水艦が「伊号29」です。
昭和19年(1944)、日本海軍の潜水艦「伊号29」は、
インド洋からアフリカの南端を回って大西洋を北上し、
当時ドイツ領だったフランスのロリアン軍港で、
ドイツからエンジンと機体の情報を入手しました。
「伊号29」は、再び敵の厳しい警戒下をシンガポールまで戻ってくると、
主要なロケットエンジン設計図などを下ろし、それらは飛行機で日本に運ばれました。
しかし、「伊号29」は、シンガポールを出て日本に帰還する途中、
昭和19年7月26日、フィリピンと台湾の間のバシー海峡で、
米国の潜水艦と遭遇、戦闘となり、沈没しました。
亡くなられたのは、艦長木梨鷹一少将以下、106名の乗務員将兵です。
この「伊号29」は、
その前年(昭和18年)インド独立運動の志士チャンドラボースを、
アフリカのマダガスカル沖で、ドイツ潜水艦から移譲させ、
シンガポールまで送り届けるという大役を果たした潜水艦でもあります。
(在りし日の「伊号29」と乗務員)
=「伊号29」潜水艦=
=チャンドラボースとの記念写真に臨む「伊号29」の乗務員将兵たち=
話は野辺山に戻りますが、
野辺山の「八ヶ岳高原ロッジ」にある「音楽堂」上空で、
「平和のハト」とも「火の鳥」とも思しき雲形が現れ、
その嘴(くちばし)辺りを目指して、飛行機雲を引きながら飛翔する飛行機があり、
しばし見入ってしまいました。
(音楽堂)
更にこの日の午後、野辺山から清里へ移ったのですが、
清里駅を出て空を見上げると、眩しい太陽を中にして、
何本もの飛行機雲が縦横に走っているという印象的な光景を目にしました。
野辺山の八ヶ岳高原ロッジ「音楽堂」上空の「”火の鳥”と飛行機雲」、
清里駅の「太陽の中の、縦横無尽の飛行機雲」、これらはいずれも、
海軍予科練出身飛行士の英霊方が、今回の「予科練の碑」お参りに際して、
その御礼にと、少しばかりお気持ちを示して下さったのではないか、・・・・・
僭越ながら そのような思いにも駆られながら、
野辺山と清里での、珍しい飛行機雲を眺めさせて頂きました。
(若鷲の歌)
拝