(保存版)「戦友だより」第3号 第12回:「私の戦歴と忘れ得ぬことども」 <高梨 佐さん> | 三ヶ根の祈り のブログ

三ヶ根の祈り のブログ

ブログの説明を入力します。

 

 「戦友だより 第3号(佐藤弘正氏編集)」のテーマは、

 ”その時「死んでもいい」と思った事、「死にたくない」と思った事” 

 

  第12回目は、岩手県の「高梨 佐さん」です。

 

 

  (「戦友だより」 左側が第3号) 

 

「”死にたくない”と思ったこと」

 

・・・・"私の戦歴と、忘れ得ぬことども” ・・・・

 

 

 <なお、文中の(注)は、私が記させて頂いた。>

 

 

 

『 1.私の戦歴概況

 

 昭和17年(1942年)1月10日、立川東部第78部隊に入隊した、

いわゆる17年初年兵で、佐藤弘正君と全く同じく、満州の城子溝

(注:中国黒竜江省牡丹江市のソ連国境の町)からラバウルを経て、

18年1月「妙高丸」でラエ海岸に突入上陸し、

敵艦載機の執拗な襲撃の中での資材陸揚げの後、

ラエ東飛行場陣地で、ノースアメリカンの超低空爆撃を受け、

平川2年兵が戦死した直後、小生はマラリア発熱のため、

ラエ教会の野戦病院に送られました。

 

 

 キニーネを与えられる程度の治療で数日過ごした後、

歩ける者のみラバウルに後送するとの事で、その対象に選ばれて、

ダイハツ艇(注:発動機付きの大型輸送艇)での、30人前後の患者群となり、

夜間、接岸航行のみで、いつラバウルに到着するものかは予測も出来ず、

いろいろな所で長期滞在を余儀なくされながら、半年近くかかって

ラバウルに着いたように思います。

 

 

  ラバウルで1か月くらいの治療で退院し、残留部隊に帰りましたが、

そこには召集兵の年配の方が多くいて、城子溝時代の厳しさもなく、

穏やかな日常でした。

 

 

 後日、戦友により教えられたのだが、この約11か月の間、

2中隊はラエよりサラモアに進出奮戦し、

高射砲隊としては驚異的な戦果を上げたが、

兵站(注:へいたん・・・物資補給)の途絶と敵の反攻に屈し、

魔のサラワケットを越え、ラエ上陸時112名の隊員も、

戦死、病死、行方不明、入院後送と、その1/3の36名に激減しながらも、

(ニューギニアの)マダン・ウエワクを経て、パラオに向いつつあったことは、

全く知らされず、ただその後どうなったかを心配しているだけでした。

 

 

 そうしているうちに、同年11月末頃だったでしょうか、

突然ニューギニアから浦山隊長が帰ってくるとの報があり、迎える準備に努め、

初年兵は小生のみであったこと、ラエで配下の兵であったことなどから、

当番(注:「当番兵」といって、将校の身の回りの世話をする兵のこと。

軍の正式職制にはない、日本軍独特の習慣。)をするように言い渡されていました。

 

 

 後日の仄聞(そくぶん)によりますと、

隊長はウエワクから飛行機で到着したらしいとのことでした。

 

 

 隊長到着数日後、司令部からどんな命令を受けたか知りませんが、

ツルブ(注:ラバウルを北端に有するニューブリテン島の、西端北側の地域で、

ビスマルク海に面し、ダンピール海峡に近い。)にいる第1中隊

(或いは、第3中隊か)の状況把握に出発することになり、

当番である小生も同行を命ぜられ、

隊から2人だけ(ただし、他の陸軍・海軍の多様な人たちと一緒)のダイハツ航行となり、

小生にとっては、先にラエからラバウルに帰ったコースの逆を辿ることになりました。

 

 

 その時も夜間航行のみで、10日ほどでツルブに着き、

到着後は1中隊の人たちと起居を共にしましたが、

空襲による大被害以外は、さしたる戦闘の印象もなく、

約1か月前後の滞在だったでしょうか、再び往路同様、帰路もダイハツで、

多くの人に混じって隊長と一緒に、(ラバウルの)図南台の兵舎に戻りました。

 

 

 明けて昭和19年1月3日、パラオに後退していた浦山隊員が、

体力回復したということで、再び前線復帰でラバウルに帰って来ました。

 

 

 小生にとって、約1か年ぶりで戦友との再会が出来たのです。

 

 以後、復帰まで本隊と行動を共にしました。

 

 さて、本年の「戦友だより」のテーマには沿わぬかもしれませんが、

50余年前の記憶の数々を列挙してみます。

 

 

  2.忘れ得ぬことども

 

(その1) 初年兵の戸惑い

 昭和17年1月、東部第78部隊、第1中隊(N中隊長)に入隊して数日後、

夜、血液0型の者だけが起こされて、輸血のため採血するとて、

医務室に連れていかれ、1人100ccの血を採られました。

 

 翌日は1日兵役免除となり、特別食を与えられ、

献血の補填をされたことがありました。

 

 後日の仄聞(そくぶん)によりますと、中隊長が自身の日本刀で、

自害未遂の事件を起こしていたということでした。

 

 

 若くて立派な軍人でしたが、どんな事情があったのか、

この世界を知らなかった新兵にとっては、全く不思議な死の絡んだ事件なので、

脳裏に残っていて離れません。

 

 

(その2) 古年兵の仕打ち

 満州城子溝の第2中隊でのことです。

 

 ある夜、不寝番を勤めた時、非常呼集(訓練)が発せられ、

不寝番が全員を呼び起こして集合させましたところ、3年兵1名の参集が遅れ、

その古兵が上官から叱られたことがありました。

 

 

 その後、その古兵が、不寝番の私の呼び起こし方が悪かったからだと言って、

履いていた木のサンダルで、私の顔を滅多打ちに殴りました。

 

 眼が見えなくなるほど腫れ上がって、人には見せられない状態だった

のでしょう。

 

 数日後、高官の検閲が行われた時、小生は別室に連れていかれ、

検閲が終わるまで、隠れていろと命令され、そこで過ごしたことがありました。

 

 このように、軍隊では不都合な事は、いかようにも隠しおおせたものなのでしょう。

 

 

(その3) 死への疑問

 浦山隊長と共に、ツルブの第1中隊を訪れ、海岸近くのジャングルに宿営中、

朝9時頃の敵機来襲の定刻になって、その日もB24爆撃機の数十機が、

前後2編隊で高射砲の届かない高度10000メートルくらいで、

航路角0でやって来ました。

 

 

 これは狙われているなと感じ、大木の根の窪みに伏して我が身を護りましたが、

第1編隊は爆弾の投下もなく過ぎたので、

第2編隊も投下しないだろうと思い込んだ人たちは、無警戒で立っていた所へ、

あのザワザワという、林を吹く風を強大にした、

地獄へ誘うような不気味な音を一杯に響かせながら、

雨あられのごとく爆弾が落下して来たのです。

 

 

 小生は前と同じように伏せていましたが、

凄まじい爆風で 一瞬、この世とは「さようなら」と観念しましたが、

意識があることは、死ななかったのだと、不思議な思いでした。

 

 

 密林は焼け野原のようになり、あたりに居た人たちは皆、

吹き飛んで跡形もありません。

 

 

 軍衣の切れ端が枝に引っ掛かり、無残な遺体が散乱し、

弾薬貯蔵所は引火して誘発が続いていて、近付くことも出来ないという状況の中、

転進命令が出たので、生き残った者として、せめて遺体だけでも埋葬しなければと、

慌ただしく穴を掘り、埋葬して合掌するのが精一杯のことでした。

 

 

 でもその時、”どうしてこんな所で、こんな死に方をしなければならないのか?”

という疑問さえ持つことがなかったように、私が育てられていたことが、

どう考えていいのか、今にしても分かりません。

 

 

  (その4 重症者の宿命)

 ツルブから再び隊長と共にダイハツで往路と同じコースで帰りましたが、

夜陰に乗じての隠密航行なので、たびたび陸地に入って隠れました。

 

 しかし陸地に近付くには、サンゴ礁の切れ目を見つけなければなりません。

 

 

 船が大きいと入れなかったり、

エンジンが故障した船は曳航(えいこう)しなければならなかったり、

まごまごしていると明るくなって、敵さんの攻撃時間帯になるから、

そんな時には、波の上で揺れ動く船から、

同じように揺れ動く船に飛び移るよう求められ、

健常者は何とかなりましたものの、重症者は不可能なので曳き網を切って、

船もろ共、患者を捨てることに躊躇しませんでした。

 

 このように死んで行った人たちも多かったと思われます。

 

 

 働けないものの命に対する、極限状態時の常識だったのでしょう。

 

 彼らは納得して死んでいかざるを得なかったのでしょう。

 

 

(その5) 病死の淵からの生還

 昭和19年8月頃、小生は再度マラリア発熱で、野戦病院に入院しました。

 

 その時は浦山隊長や大橋准尉の配慮で、

同年兵の阿部田浣氏を付き添いとして派遣してくれました。

 

 

 後日、阿部田氏から、「朝になってみたら、”冷たくなっていた”というのが、

今日か、明日かと、毎日嫌な思いで過ごしていたよ。」と聞かされ、

そんなに悪かったのかと顧み、隊長、准尉、阿部田氏の配慮に感謝しています。

 

 

 振り返ってみますと、成程、軍医から「何か食べたいものはないか?」と聞かれた時、

全く食欲がない中で、ただ一つ「ビタカールゼ(ビタミンの錠剤で、大きい瓶に入っていて、

大麦の粉のように香ばしいものでした。)なら食べられそうだ。」と答えたら、

「簡単なことだ。」と言って、続けて与えてくれたものですから、

しょっちゅう、ポリポリ食べていたことを思い出します。

 

 

 これが先の方々の配慮にプラスされて、

病死の淵から私を呼び戻してくれたのではなかったと思っています。

 

 

 改めて、隊長、准尉、阿部田氏、そして軍医に感謝します。

 

 

 かように思い付くまま、書きなぐったもので、全く幼稚な「綴り方」になりました。

 

 

 今まで諸氏の奉仕で戦友会が続いて参り、厚く感謝と敬意を表します。

 

 

 50年余りも放置しておいた記憶を、無理に掘り起こして綴ったものなので、

きっと、齟齬や矛盾があるかもしれませんが、

その点は、忌憚なく訂正修正して下さるようお願いします。

 

 

 (補)ささやかですが、「戦友だより」作成の雑費の足しにして頂ければ嬉しいです。

 (10,000円 同封しあり)  』

 

                    拝戦後

 

(ご参照)

① ラエの海岸に強硬接岸した「妙高丸」:

戦後戦後まもなく撮影されたもの。米軍の攻撃で破損大)

 

②今も残る「妙高丸」の残滓:

2010年4月訪問時に撮影 この湾の向こう側が「サラモア」)

 

③ラエの日本軍野戦病院となった教会<戦後立て直された>:

2010年5月訪問時に撮影)

 

④教会の内部:

建物内部の柱は、太平洋戦争当時のままということだった。)

 

④教会の牧師(真ん中の人)と共に。

 

⑤ラエの高射砲隊の陣地跡

(部隊は、サラモアからラエに撤収して、ほどなく「サラワケット越え」に出立)

 

 

 

(ご参考)

 

 

                                                           以上