「戦友だより 第3号」 のテーマは、
”その時「死んでもいい」と思った事、「死にたくない」と思った事”。
第2回目は、新潟県の「関 宮太郎」さんです。
「死にたくない」と思った事・・・・”地獄のサラワケット”
「ダンピール(注:ニューブリテン島と東部ニューギニアに挟まれた海峡)でやられ、
泳いでいるところを、運よく駆逐艦に拾われ、
九死に一生を得てラエ(注:東部ニューギニアの主要地)に上がり、
2中隊員(注:第2中隊の隊員)となって、
サラモア(注:東部ニューギニアの主戦場の一つ)で闘い、再びラエに集結後、
中隊と共に、あの悲惨なサラワケットを越えて来ました。
サラワケット撤退中、敵の姿も無いこんな山中で、
作戦とは言いながら、食う物も着る物もなく、
寒さとマラリアに震えながら死んで行く多くの兵隊を見て、
『ここでは絶対しにたくない!』と思い、
必死で行軍に付いて行きました。
4000メートルの高地に近づけば近づくほど、山は険しくなり、
山肌には藤蔓(ふじづる)が下がっている所が多くなり、
病人や年配の人は自力で登れず、後ろから押してもらっていた。
そういう所の崖下には、何人もの兵隊が折り重なって死んでいた。
清水の出る所では、2人3人と末期の水を求めて、
儚(はかな)くなっていた。
谷間には、新潟の山に生えている<ミズナ>によく似た青い草があり、
ミズナのようにネバリもあって、他の草よりもましだったので、
人にも勧め、主に こればかり食べて歩いた。
7日間の行軍予定として、軍足(注:兵隊用靴下)1本分と規制された米は、
20日も過ぎたその頃にはとっくに一粒も残っていない。
山に懸る最後の土人部落(注:アベ村)で、
佐藤弘正君がバナナの木の下に小さな子豚がいるのを見つけ、
素知らぬ顔で、休んでいる歩兵さんの所へ行き、
「ちょっとの時間、銃を貸してください。」と頼むと、
「土人を刺激してはいかんという命令が出てるぞ。」と
断られたのだが諦めず、「事情があります。」と言ったら、
「ヨシッ」と貸してくれ、一発で豚を仕留めて持ってきて、
「新潟県の出身者は、佐藤と関だけだ。」と、
二人で藪に入って解体して焼いて、半分食って
残りは飯盒に入れた。
その頃は、土人の小屋の床下には、栄養失調とマラリアで、
息も絶え絶えの兵隊が必ずいたし、不意に「バーン」と銃声がしても、
誰も驚かず、「あぁ、また一人(自決を)やったな」くらいにしか
感じなかったから、銃を貸してくれた歩兵さんも、
そのために使うと思って、「ヨシッ」と言ってくれたと思う と、
(佐藤さんが)話してくれた。
水が無いから腸を銃剣で割いて糞をしごいたのだが、
白い細長い回虫が無数にいて、指で払って「焼けば卵も死ぬ」と、
真っ先に、その腸から食べた。
糞付きの腸だったが、その美味しさは一生忘れられない。
弱っていた私も、これで元気が出て頂上に立つことが出来た。
頂上は果てしない湿地帯で、アラレが降っていた。
俺より弱っていた佐藤君は、寒い頂上で落伍し、
火を焚いて一夜を明かしたというが、
我々は、ともかく急いで山を下ることが出来た。
寒さと飢えで、2000人以上の兵士がここで亡くなり、
その骨もいまだに回収されぬまま、
永久に地上から消え去ろうとしている。 」
以上
(ご参考)
(関連写真・・・・いずれも、2010年5月 同地巡拝時。撮影者:私)
①サラワケットの山頂部 <標高4101メートル>
②山頂にヘリの小窓から五十鈴川の御水を注いで慰霊
=この山頂で約800名の日本人兵士が病死された。=
③上空から見た、2010年当時のアベ村<標高2500メートル>
④アベ村での慰霊供養 (同上)
=このアベ村周辺で約500名が病死された。=
⑤サラワケットの麓で、日本人兵士のご遺骨二柱を収容
合掌
<なお、文中の(注)は、私が記させて頂いた。>