(保存版)美濃部正氏 講演録より<その1>「特攻作戦を許すべきではない」 | 三ヶ根の祈り のブログ

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     大平洋戦争当時、軍司令官らに公然と特攻隊の非を唱え、

夜間攻撃の「芙蓉部隊」を創設して、

大平洋戦争の「沖縄作戦」に目覚ましい戦績を上げた美濃部正氏(海軍少佐)は、

戦後、航空自衛隊の創設に尽力(最終位 空将)された後、

民間会社の職業訓練施設(当時の「日本電装学園」、現在は「デンソー工業学園」)の

学園長 に迎えられました。

 

<以下、各写真は、関係者のご厚意により掲載させて頂いていますので、

無断転載・コピー等はお断りいたします。>

 

 (日本海軍時代)     

 

 

(航空自衛隊時代)

 

 

(日本電装時代)

(現在のデンソー工業学園)

 

 

 美濃部氏は日本電装学園長だった1976年(昭和51年)6月、

科学技術学園工業高校 (現 科学技術学園高校)の教育連携会総会で、

「戦争体験からみた人間指導」というテーマで特別講演をされました。

 

 

 余談ながら、私は1975年(昭和50年)4月にデンソーへ入社しましたので、

この講演は、私の入社の翌年になされていたということになります。

 

 

 しかしながら、最近(3年前)に至るまで、この時の講演の事は元より、

私は美濃部氏その人を全く存じ上げませんでした。

 

 

 2年前、デンソー時代の美濃部氏のことを知りたくなり、知人と共に、

デンソーの高棚製作所内にあるデンソー工業学園を訪問しました。

 

 

 その折、学園の関係者から手渡されたのが、この講演の講演録でした。

 

 

 

 太平洋戦争当時、日本海軍・日本陸軍ともに、佐官・尉官の幹部クラスには、

大勢の立派な指揮官がおられました。

 

 しかしながら、多くは終戦を待たずに亡くなられました。

 

 

 そうした中、大平洋戦争の最前線指揮官として稀有な実績を残され、

戦後は航空自衛隊の確立に貢献された美濃部正氏の戦争観や人間観、 

そして部下指導の考え方といったものは、大いに傾聴に値するものと言えましょう。

 

 

 当ブログでは、この講演内容の大意を、今後、何回かに渡って記させて頂きます。 

 

 当稿は、その第1回目です。

 

 

 講演の最初、美濃部氏は自身の戦歴を簡単に振り返られ、

自らの人生観を述べられると共に、太平洋戦争の神風特別攻撃について、

戦争の時と同様、

いまだに特攻作戦を許すべきでない と考えている

と明確に語っておられます。

 

 

     <戦争指導から見た人間指導 =その1=>  

       

 かつての私の太平洋戦争時代の体験から、若い人たちへの指導ということについて、

2~3の経験を通じて私の考えを申し上げたいと思います。

 

 まず申し上げたいのは、戦争という、人間が生と死の極限状態に置かれる状態では、

上官と部下、或いは戦友同士の間に、いろいろな欲望が生まれてきます。

 

 一番大きな欲望は、死にたくない、生きたいという欲望です。

 

 このような欲望を持った人間が、その極限状態で、どのような行動を取ったのか、

ここは重要です。

 

 

 一方、現在の平和な時代ですと、人間は色々な点で曇りが出てきます。

 

 しかしながら、人間の本性をつかんで、

その本性の特性をどう伸ばすべきかを考えていったならば、

平和な時代でも、若い人たちは伸びていける、そう私は確信しています。

 

 

 私は海軍兵学校を昭和12年(1937年)に卒業し、

太平洋戦争では南雲艦隊、すなわちハワイ真珠湾攻撃部隊に所属していました。 

 

 ハワイ作戦が終わると、インド洋作戦に参加し、その後のミッドウエイ作戦では、

第2機動艦隊に属してアリューシャン方面の作戦に参加していたため、

幸いにも私自身は戦死しなくて済みました。

 

(真珠湾出撃前:  最前列の真ん中が美濃部少佐<当時>)

 

 昭和18年(1943年)からは、ラバウルが決戦場と言われ、

そのラバウルから更に300マイル(注:約480キロメートル)奥地の

ブーゲンビル島で指揮官を勤めました。

 

 そして同年暮から始まった激しいブーゲンビル沖航空戦を、

第5次まで、一番最前線で体験してまいりました。

 

(ブーゲンビル 又は フィリピンでの一コマ ) 

 

 戦局ようやく日本にとって重大な段階を迎えた昭和19年(1944年)秋には、

かの大西中将(※1)が神風特攻隊を編成された前後に、 

私は飛行隊長としてフィリピンにいました。

 

 私は神風特別攻撃隊に対して反対であったので、

はっきり大西司令官に申し上げました。

 

 私の部隊(注:夜間攻撃の芙蓉部隊)は特攻作戦を実施しておりません。

 

 

(芙蓉部隊:前から2列目、左から3人目の無帽の人が美濃部少佐<当時>)

 

 

 この件については、4・5年前の文芸春秋で草柳大蔵氏が、

大西瀧次郎伝を書いており、その中で、当時のいきさつを書いておられます。

 

 しかし私自身は、いまだに特攻作戦をゆるすべきでない、と考えています。

 

 その後沖縄作戦では、初めから終わりまで、

九州方面から沖縄の攻撃に参加しました。

 

 こうした戦争経験からして、私自身、よく今日まで生きていたと、

しみじみ感じています。

 

 

 大久保彦左衛門(※2)は、生涯60数回戦場に出たと言っておりますが、

私の戦闘記録は192回であります。

 

 その中で、玉すだれのような弾丸の中に約60回突っ込んでいます。

 

 人間の運命は、このような弾幕に3回も突っ込んでいれば、

ほとんど戦死して帰らぬ人となるのが大半でした。

 

 したがって私は、今日生きていても、何のために生きているか、と

考えさせられます。

 

 

 人間の持って生まれた運命の他に、

人間は、天というものの恐ろしさを忘れてはいけない、思い上がってはいけない、

という考えを戦争以来持っています。

 

 そして常に後ろから天が鞭を振るっているような感じがします。

 

 最近話題となりました児玉誉士夫(※3)あたりは、天を畏れざる所業であると思う。

 

 

 人間が波に乗ってやることは良いけれども、

人間が人間であることを忘れてはいけない。

 

 それを忘れると、必ずいつの日か、天罰を受けることになります。

 

(※1)大西瀧次郎(1891~1945) 

     海軍中将。 特攻隊創始者の一人。 終戦時自決。

 

(※2)大久保彦左衛門(1560~1639)

     徳川家家臣。戦国の武将。「三河物語」著者

 

(※3)児玉誉士夫(1911~1984)

     右翼活動家。ロッキード事件で田中角栄(収賄)と共に、贈賄側と

     して起訴。 政財界の黒幕・フィクサーと呼ばれた。

 

 (以下、次回の「戦争体験から見た人間指導 その2」に続きます。)

 

 

(豊田市吉原町の 故美濃部正氏 墓苑:  令和2年8月15日 撮影者:私)