昨年秋から今年にかけ、
浄土真宗の開祖親鸞聖人が、自ら刻まれたと伝わる人物木像に、
併せて 三体出合いました。
京都市光圓寺(こうえんじ)の法然上人像、箱根神社の親鸞聖人自像、
長野飯山市西敬寺(さいきょうじ)の聖徳太子像です。
こうした木像の存在については、事前知識は全く無く、
参拝させて頂いた折に、偶然 拝見させて頂くことになりました。
まず、令和元年9月に参拝させて頂いた、
京都市の花園殿光圓寺の「法然上人像」から。
親鸞聖人が自ら人物木像を彫られていたことを、
私が初めて知ったのは、昨年秋、京都光圓寺への参拝の折でした。
光圓寺は、京都市下京区にあります。
この寺は、親鸞聖人が、「承元の法難(1207年)」と言われる、
比叡山や朝廷からの念仏迫害により越後国(今の新潟県)に配流されるまで、
お住まいとして使っておられた寺として、
更に、関東から帰洛されてから亡くなられるまで住まわれていたという寺として
知られています。
(光圓寺 京都市下京区松原通西洞院東入)
(光圓寺本堂の御内陣)
御内陣の向かって左側の脇に安置されている、親鸞聖人手彫りと伝わる法然上人像
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<上記本堂内写真はいずれも 同寺の許諾を得て撮影>
法難で同じく配流となった、親鸞聖人の師である法然上人との別れに際し、
親鸞聖人と法然上人が二人の姿を像にして残そうと、
互いに相手の姿を木彫りされたという人物像が2点、
本堂内陣の脇に並んで飾られていました。
下の御像は、法然上人手彫りと伝わる親鸞聖人像
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法然上人と親鸞聖人は、
別れに際して有名な和歌の交換をなさっておられます。
法然上人
「会者定離(えしゃじょうり) 有りとは予て 聞きしかど
きのう今日とは 思わざりしを」
親鸞聖人
「別れゆく 道ははるかに 隔つとも
心は同じ 花の台(うてな)に 」
この歌を初めて知った時、
法然上人と親鸞聖人の深い師弟愛に感慨深いものがあったのですが、
昨年の光圓寺参拝で、お二人が、互いに その姿を木像として刻み込むほどの
強い絆に結ばれていたことを知り、改めて、お二人の情愛の深さに感じ入りました。
ところで、比叡山延暦寺や奈良興福寺といった旧仏教系の大寺院や朝廷から、
度重なる迫害・妨害を受けた、法然上人や親鸞聖人の念仏宗でしたが、
意外にも、この念仏宗を保護し、その宗徒を護ったのは、
当時の鎌倉幕府を支えていた北条氏他の有力御家人たちでした。
親鸞聖人が何故、60歳を越えた年齢で、関東から、旧仏教が幅をきかせる京都へ戻り、
身の安全を守りながら、安心して著述に専念できたのか・・・・
そのことについては、改めて私見を述べてみたいと思っています。
拝