マイクロカーに乗って10分
レギスタン広場に着きました。
レギスタン広場
サマルカンドの象徴、さらにシルクロードの象徴とも言えるレギスタン広場です。
レギスタンとは『砂地』という意味です。
向かって左からウルグ・ベク・マドラサ、ティラカリ・マドラサ、シェルドル・マドラサの3つのマドラサがコの字形に並んでいます。
レギスタンとは『砂地』という意味です。
向かって左からウルグ・ベク・マドラサ、ティラカリ・マドラサ、シェルドル・マドラサの3つのマドラサがコの字形に並んでいます。
チンギス・ハーンが今のアフラシャブの丘にあったサマルカンドの町を滅ぼした後、このレギスタン広場を中心にして復興が進められました。そして14世紀のティムールの時代には大きな屋根つきのバザールが造られ、ウルグ・ベクの時代に最初のウルグ・ベク・マドラサが建てられました。
現在のように3つのマドラサが並んだ姿になったのは、17世紀にヤラングトシュ・バハドールによって建築された後になります。
レギスタン広場は、他の土地から来た隊商が始めに到着する場所であったり、謁見式・閲兵・催し物が行われる場所でもありました。
*、3つのマドラサ
*、左側のウルグ・ベク・マドラサ
レギスタン広場から見て左手のマドラサになり、1420年にティムールの孫ウルグ・ベクによって建設されました。
レギスタン広場の3つのマドラサの中では、最も古いものです。
ここで自らウルグ・ベクは教壇に立って、イスラム教の教義や作法、天文学・数学・哲学なども教えていたようです。
*、ウルグ・ベクの肖像画
ウルグ・ベク(Ulugh Beg)は1394年3月22日にティムールの長子シャー・ルフの子として産まれ、本名はムハンマド・タラガイと言います。
つまりウルグ・ベクはティムールの孫に当たります。
このとき、ティムールは58歳だったそうです。
ティムール帝国の君主として、15歳くらいからサマルカンドを治めたウルグ・ベクですが、統治者としてよりも学者としての業績が大きいです。
天文学、数学、自然科学、音楽、神学、はては歴史家や詩人としても才能を発揮した、とても頭の良い人だったようです。
学者や文化人を保護し、自ら教鞭もとり、多くの建築物を建てましたが、その反面、宗教家からは反発されることが多かったようで、身内の者や部下などにも敵対する者がいたようです。
そして1449年に、イスラム指導者によってそそのかされた息子のアブド・アル・リャチフに謀反を起こされて敗北し、刺客によって首を斬られて死んでしまったそうです。
*、素敵な陶器がお土産品として並べてありました
*、中央のティラカリ・マドラサ
レギスタン広場から見て正面のマドラサになり、1660年に建設されました。
当時はすでにビビハニム・モスクが破壊されていたため、マドラサでありながらサマルカンドのメインモスクとして使われていたそうです。
ティラカリとは『金箔を施された』という意味で、その名の通り礼拝所の内部は金箔で覆われています。
ただ単調に金箔で覆っているのではなく、金箔を使って美しい模様を描いています。
建設時に5kg、修復するときには3kgもの金が使われたそうです。
ただ単調に金箔で覆っているのではなく、金箔を使って美しい模様を描いています。
建設時に5kg、修復するときには3kgもの金が使われたそうです。
*、天井は一見丸いドームのように見えますが、実は平面で、遠近法を用いて丸く見えるようにしているそうです。
*、右側のシェルドル・マドラサ
偶像崇拝を否定するイスラム教義に反して動物が描かれていることが、このシェルドル・マドラサの一番の特徴です。
シェルドルとは『ライオン』の意味で、虎にしか見えないライオンが、小鹿を追いかけている絵が描かれています。
そしてライオンの背中には、人面のある太陽が描かれています。
人間と動物をモチーフにするのは厳禁のイスラム教義に逆らってこんな絵を描いたのは、支配者が自分の権力を誇示するためだったようです。
その責任を取って、このマドラサを建てた建築家が自殺したとか…。
悪いのは建築家じゃなくて支配者だと思いますが、いつの時代にも偉い人のスケープゴートにされる人はいるものです。
*、17:40、夕焼け空になって来ました
18:10、レギスタン広場ともお別れです
夕食のレストランへ
続きます