妻との一連の出来事は、僕があるいは世間一般が常識として考えもしないようなことを深く深く追求せざるを得なくなるような出来事でした。
あるいは、その追求という行為は僕の執着がゆえであり、その先に見えそうで見えないものが愛というものなのかも知れません。
おそらく本当の愛というものは、純粋で透明であって、見えるものではないのでしょう。透明すぎて、感じることもできないものなのかもしれません。結局のところ、僕は何もわかっていないのです。
愛というものについてわかっていない、ということを知り始めたに過ぎないのだと思います。
なんだか禅問答みたいになってしまってごめんなさい。
妻はわからないということを僕に教えてくれている存在なのかもしれません。
それが彼女の僕に対する愛なのかもしれません。そのようにも考えています。
そう考えると、あらゆるものやあらゆる出来事の中に愛は存在している。
ただ、ある。頭の中ではそのように思索しています。
誤解を恐れずあえて書きますが、いま僕の中では、愛の反対語は、「念」というものではなかろうかと思っています。
ああしたい、こうしたい、こうなってほしい・・・すべて、念ですね。
本来社会的に必要不可欠とされている、夢や目標などですら、念だと思っています。
この考えは、企業人というよりもはや社会人、あるいは人間としてどうなのよ、という考え方かもしれません。もはや人間やめちゃうのかって勢いですよね。いずれこのブログで書いていこうと思っていたことです。
もちろん、まだまだすべての念を捨て去るほどの境地になんて達していませんし、
これ以上落ちてゆくことに対する恐怖も振り払うこともできていません。
そもそもこうして誰かに何かを伝えたいと思うことすら念なのでしょう。
それにそんな境地に達していたら、すでに今日で調停も終わっているはずですしね。
ですが真剣に自分を実験台にしてやろうと思っています。本当のことが知りたいから。
これから先、もっともっとつらいことや、嫌なことや、苦しい出来事が起こるかもしれません。
それらすべてを愛として受け入れる。その先に何かが見えるのかどうかもわかりませんが、
そんな風に生きてみたいと思ってます。
とはいえ30周くらいしてまた信念に生きる男に戻るのかもしれません。
先のことはわかりません。あくまで今の心境です。
ただ、ゆだねて、ただ、生きる。ありのままに。すべてを愛として受けいれて。。。
自分の命より大切と思える子供との出会いが、
そしてその子と理不尽に引き離されたことがキッカケであることは確かです。
子供に対して、可能な限り純粋な愛を注いであげたいのです。
そのためには、自分自身がその愛とは何なのかを少しでも深く理解しなければ、
誤って自分のエゴをおしつけることになりかねないと思うのです。
一般的に子供には幸せになってほしい、自分と同じような苦労はさせたくない。
そう考えるのは当たり前のことですし、僕自身も、本当に普通に幸せになってもらいたいと思っています。
ですがその思いが強くなり、この子の幸せためには自分が育てなければ・・
ああじゃだめだ、こうでなければ・・・となってしまうと、
結局のところ支配的になり、子供の自由を奪うことにもなりかねない。
なんだかんだ言いながらも、いまもいろんな感情が渦巻いています。
たとえ一緒に暮らすことが叶わないとしても、純粋な愛を注いであげたい。そして生涯注ぎ続けること。
そのことだけは最も固い決意なのであります。
なんだか中途半端になってしまいましたが、いずれ少しずつ整理して吐き出していきます。
頭も心も相変わらず整理がついてない状態なので、このくらいがいいところかな。
どうかお許しください。
コメントいただいて、本当にうれしいのと同時に正直驚きましたww。
あなたのつぶやきには、実は相当癒されています。
いつもありがとう。