時代を経ても、おもちゃ売り場からブロックが当分なくなることはなさそうだ。
大人になった今でも私はブロックが好きで、テレビゲームが我がもの顔でのさばる、おもちゃ業界においても、最高峰のおもちゃの一つであると信じて疑わない。
レゴブロック。ダイヤブロック。最近ではナノブロック(ダイヤブロックと同じメーカーで小さいブロックです)が気になっている。
パソコンが置いてある私の机の上には、ブロックが飾ってあるのだ。じゃーん。お見せできないのが実に残念だ。
私とブロックのつき合いは長くて深い。子供の頃から何度励まされたことかわからない。
色とりどりのブロックを、無心になって積み上げていくという単純作業が、いつのまにか私に自信を取り戻させてくれるのだ。
自由にあちこち組み替えたりしているうち、やがては作りたいものが決まっていき、徐々に形を帯びてくる。
それは時として、
何かを守るための家だったり、
沖に出ていくための船だったり、
どこかに辿りつくための車だったり、
二足歩行のロボットだったり。
学校からぐったり落ち込んで帰ってきた後や、親に叱られ涙で頬を泣きはらした後でも、黙々とブロックを積み上げているうちに「俺やれる。まだやれるよ」と思えてくるのが不思議だった。
自分から何かを積み上げていく作業というのは、やはりどちらかというと前向きな感情を伴うものでは、ないだろうか。
例えは悪いが、三途の川のそば、賽の河原で、いじらしく石を積み上げていく子供たちでさえ、ある意味では前向きである。
その場合は、鬼がやってきて、がしゃーんと崩されてしまうのだけれど。
話を戻そう。
誰かに強制的にやらされているのでもない限り「まだ積まないといけないのかよ。これでもか」そんな後ろ向きな気持ちで、ブロックを一つずつ積んでいく人は少ないのではないだろうか。
何かを積み上げていくという作業に関して言うなら、昔の時代、奴隷として働かされた者たちでさえ、自分たちが石を積みあげて作った建造物を見上げた時は、恍惚感をおぼえたこともあったに違いない。「俺たち、やれる」と。
(最近では、ピラミッドを作ったのは、奴隷じゃないと言われていますね)
現代においても、空に向かって多くの高層ビルが建てらているのは、決して土地面積の有効活用という面だけではないだろう。
積み上げずにはいられない、という人が持っている根源的な欲求に結びついているのだ。きっと。
「高いところから人を見下ろしてみたい」
一度はそんな気持ちになった人も、いるかもしれない。
でもそんな気持ちも、つきつめて考えれば「誰かを見下してやりたい」という意図から発生したのではなく、
自分が一体何ものであるか、ということをもっと知りたいがため、
より高いところに上ることで得られる客観性を何より獲得したかったからじゃないのか。
そうあって欲しい。
そんなわけで、今日も私は人知れずブロックを積み上げていく。
一つ、また一つと。
俺やれる。まだやれる。そう確かな手ごたえを感じて。
2010.3.12
※公開台本は引き続きちくちく書いていきますので、ご興味のある方はよろしく。
ご興味のない方は、無視してね♪