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尻。

吊革につかまって電車に乗っている時、私のすぐそばで、尻を触った、触っていないだのという痴漢騒ぎがあった。


満員とは言えないまでも、そこそこ混んでいる車内でのこと。

「いいかげんにしてください」女性の叫ぶ声が唐突に聞こえた。「恥ずかしくないんですか」

「何がだよ」スーツ姿で特徴もない顔立ちをした男が答える。「わけのわからないこと言ってんなよ」


女性は男の人の手をしっかりつかみ、離そうとしない。


「本当に、この人がやったの?」その場に居合わせた乗客の1人が言った。他の乗客も女性に協力するようにして男の逃げ道をふさいだ。


誰かが呼んだのだろう。駅員が二人駆けつけると、男は両脇を挟まれ連行されていった。


実際にこの男が、痴漢をしたかどうか、私にはわからない。

目の前で起こった出来事に唖然とするばかりだった。



後日、私が新聞を読んでいて気になったことがある。


それは似たような多くの事件、痴漢をしたという罪で逮捕された男の、ほとんどの犯行理由が、


「会社でストレスが溜まっていたので……」

「何もかも上手くいかなくて、むしゃくしゃしていたので……」


というものが、かなり多くあったということだ。



しかし、どうも私の中で結びつかない。


ストレスが溜まって、なぜ、尻に手を伸ばすのかが。

むしゃくしゃして、なぜ、尻に手を伸ばすのかが。


すでに逮捕後にもかかわらず、犯行理由についてこうした証言をする人が多いのはどういうわけなのか。


「目の前に、あまりにもいい尻がありましたので」

「露出の激しい姉ちゃんがいて、むらむらして我慢できなかったんだよ」

と答える人は、あまりいない。



純粋な性欲むき出しで、尻に触れる人もいるにはいると思うが、

私がもう一つ思うのは、人には性欲とは別の、触れらずにはいられない、食欲ならぬ「触欲」という欲求の存在があるのではないか、ということだ。

(中には電車内での痴漢そのものより、女性を困らすことに快感を覚える愉快犯もいると思うが、ここでは置いておく)


ある人は、親に触れ、

ある人は、子に触れ、

ある人は、恋人に触れ、

ある人は、亭主もしくは女房に触れ、

ある人は、飼い犬に触れ、

ある人は、飼い猫に触れ、

そして、

ある人は、電車内で女の尻に触れる。


全てが無関係に思えないのは、私だけか。ひんしゅくを食らうのは覚悟して。


もちろん実際に痴漢をした人を弁護する気はないし、ここではそもそも痴漢事件について述べたいわけではない。それはきっかけにすぎない。


私が述べたいのは、欲求についてだ。


食欲。性欲……。名づけられたいろんな欲求があるけれど、いまだ名づけられていない欲求の存在、きちんと把握されていない欲求の存在、細分化されていない欲求の存在が、人間の中にはまだまだ幾つもあるような気がする。

何か事件が起こるたび、犯した人間の暗い内面、経歴や生い立ちばかりが取り沙汰されることが多いが、実はこのいまだ把握されていない欲求の扱い、扱いを間違えたために生まれた飢餓感のようなものこそが、大きく関わっているような気がしてならない。





2010.3.12