湊が火事を眺めながら母親に投げかけた何気ない質問「ブタの脳を移植した人間は…人間? ブタ?」、この情報は星川が虐待する父親から言われていた言葉の暴力だったのだが、「どうしてそんなこと聞くの?」と尋ねる母親に、湊は「保利先生が言ってた」と嘘をついて返した。

 

その情報をもとに、母親は、保利先生は「怪物」だと思った。

保利は、湊の母親が「怪物(モンスターペアレント)」だと思っていた。

星川は、父親から虐待を受けており、「豚の脳が入っている」と言われてたため、自分は「怪物」だと思っていた。

 

誰かが誰かを「怪物」だと認識したとき、それは「向き合う」という心の姿勢が生まれた瞬間だった。

 

水筒の中身に土が入っていたこと・靴が片方なかったこと/怪我をして帰ってきたこと・洗面所で髪を切ったこと、イジメを連想させる事象が重なり「誰がやったの?」「蒲田くんでしょ!?」と子どもに尋ねる。

ここで、湊は「いじめられていない」とは言えない。なぜなら、星川をイジメている蒲田大翔を黙認している自分は加害者でもあるため。そして、水筒も靴も怪我も髪の毛もすべて星川くん絡みであり、男の子が好きかもしれない自分がいる。さらに、元ラガーマンの亡き父=男らしさを受け継いでいない負目を感じ、母親をガッカリさせてしまいそうで打ち明けられない。

自分の感情も説明できないまだまだ子供の心がそんなふうに追い込まれた状況で、ふと「誰か(保利先生)のせい」にしてしまった。

母親は『保利先生から聞いた』豚の脳の件もあるので、子供を信頼し、学校へ乗り込むことになる。

 

保利先生は、湊も星川のイジメに関わっているという印象を持っている。「蒲田と星川」ではなく「湊と星川」をセットで見る場面に遭遇することが多いから。

 

「怪物だーれだ」のゲームは、いろんなキャラクターが書かれたカードの山からランダムに引き、額に当て、互いに「自分は〇〇だ」という自分が誰かを当てるゲームである。と捉えました。

 

コンクリートを食べますか?はい→「かたつむり」、高いところに届く「キリン」、「猫」は

 

 

①麦野早織・湊の母(安藤サクラ)の視点、
②永山瑛太(保利先生)の視点、
③麦野湊の視点、
④星川依里の視点、
⑤田中裕子(伏見校長)の5つの視点を、
⑥是枝監督の6つめの視点で紡いでいく。

①は、③を見ている。次に②を見る。
湊が火事を眺めながら母親に投げかけた何気ない質問、「ブタの脳を移植した人間は…人間? ブタ?」。この情報は、星川依里が虐待するクソな父親から言われていた言葉の暴力だったが、母親にとってこの情報の出どころは、息子の湊が「先生が言ってた」とつぶやいたことで『情報源→星川の父親×、保利先生○』になった。ここで、「①→②を見る」状況が出来上がった。

②は、③④(生徒)を見ている。
保利は、蒲田のイジメから星川を救おうと湊が暴れたら星川も一緒に暴れたところ・トイレに星川が閉じ込められたとき湊とすれ違ったところ、『星川のそばに蒲田がいる』という状況より『星川のそばに湊がいる』状況にだけに出くわす。「蒲田と星川」ではなく「湊と星川」をセットで見る場面に遭遇することが多いから、湊がイジメに関わっているという印象を持つ。

③は、④を見ている。
④は、③を見ている。

⑤は、⑤を見ている。校長だけは、自己保身が強い気がする。学校のためといえば聞こえはいいが、孫の写真を自分にではなく来客用ソファに向けて見せるところ、教師に弁明の機会を与えず、親の意見をのらりくらりかわす姿勢は、世間体第一の利己的な一面しか感じられない。音楽室で湊に吹奏楽のレクチャーをしたところで(なんで自分はこんなになったんだろう)という悲哀は感じられた。

まさに劇中にある「怪物ゲーム」。

①が「私はモンスターペアレントですか?」と尋ねたら、②は「正解」というだろう。しかし①にとっては不正解。
②が「私は暴力教師ですか?」と尋ねたら、①は「正解」というだろう。でも②にとっては不正解。
③と④は、まだ何者かがわからない。だから電車の中で怪物ゲームをして遊ぶシーンがほのぼのしている。
⑤と⑤は、自問自答。もはや生きる意味を見出せない。下駄箱の下で掃除をして汚れを取る自分は、何者なのか。「校長」としての役割を持っていなければ、死にたい気持ちになる。だから、校長という役割を担うことで「自分」を保つ、職場復帰の早さも自分を失いたくないから。

怪物ゲームにカードの山のなかに、かたつむりやその他動物の他に「怪物」というカードがあった。多分このカードは、「あなたはコンクリートを食べますか?」「高いところに行けますか」「火を吹きますか」など、全ての質問に対して「はい」と答えられるカード。怪物ならなんでもできるはずなので。

つまり、『すべてに「はい」』とこたえられるのが、怪物。

という仮説を立てると、
①の質問『すべてに「はい」』と答えた時の校長は、怪物。
息子の話『すべてに「はい」』で応えた時の母親は、怪物。
ほぼ強制的ではあるが学校側の内容『すべてに「はい」』で応えた時の保利は、怪物。

子供たちは、抗っている。湊が星川の家にいったとき父親と一緒に玄関先で「引っ越すんだ」「そこに気になる子がいる」「もう大丈夫」と、湊に対して父親からこう言えと言われた内容を答え一旦は家の中に入るも、すぐさまドアが開いて「嘘!」と帰ろうとしていた湊に告白する。その後、父親から折檻を受けている音が流れる。

③と④は、互いに肩書きを見ていない。「モンスターペアレント」「孫が死んだ校長」「ガールズバーに行った先生」「同性愛」といったフィルター、怪物ゲームの札のようなものはなく、湊と星川として付き合っている。人間同士の付き合い。人間同士。

「怪物」の意味とは、「人間同士ではない、だったら怪物だ」という逆説的な意味なのだと思う。

ただ、保利先生が飴を食べるシーンは違和感があった。よっぽど学校のいいなりになっていて心底嫌気がさしていたのか、②の視点で物語が進むほど違和感が残った。(こんな人があそこで飴食うかな?)と思った。

 

そもそも「怪物だーれだ」と怪物を探しているこの「だーれだ」と尋ねている人が、怪物だと思う。この映画でいうところのこの問いかけを生み出した⑥こそ、怪物。「怪物がいる」という視点で確証を持って尋ねているのだから、このDVDのジャケットにいるのだ。確実に怪物がいる。きっと人間そのものを指しているのだと思う。

 

「人間は、怪物だ」というのが、最終的なメッセージ。怪物的な側面もあるのが人間、ではなく、人間は「人間的な側面がある怪物」なのだと。

 


※個人の感想です

 

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脚本の緻密度:☆☆☆☆☆☆☆☆★