天津の仲間達   2012-6-15

私は天津経済開発区にあるA社
で2002年から2005年まで働きま
した。僅か3年でしたが、定年退
職後の職場として、中味の濃い、
そして中国の普通の人達の人情
や考え方、行動様式や行事を知
ることの出来た、実に充実した3
年を過ごしました。A社は台湾の
会社で、社長は通常台湾に居り、
この工場の製造部長も台湾人で
した。社長と製造部長とは英語
で意思疎通ができました。

他の従業員は全員中国人で、天
津の人も居るけど、その他の省の
人の方が多い構成です。私は上海
生まれですが、中国語を覚える前
に日本に引き揚げてきました。天津
にはニイハオとシェシェ位しか知らず
に赴任しました。いつもMaさんが頼
りでした。7年ぶりにその時の仲間
達が会食してくれるのです。

夕方Maさんがhotelに来てくれ、そ
の車でレストランに行きました。窓
から見ると、経済開発区の中も外
の新港地区も新しい建物や道路が
沢山出来ています。経済開発区の
外側にもっと大きい別の開発区が
出来ていて新たに会社・工場が進
出していました。

私は当時、いや今でも仲間達から
大爺ダーイェと呼ばれています。
定刻になり、次々に懐かしい顔が
部屋に入ってきます。

最初にXinさんが入って来る、大きく
手を広げてhug,hug台湾人の製造
部長の後を継いで今、製造部長、
全従業員の信望が厚い人、出身は
河北省の北、万里の長城の向こう
側、彼の実家まで遊びに行ったこと
が有る。次がRyuさん、女性だが
製造課長でしっかり者、がっちりと
hug、聞けばお子さんは20歳になっ
たとか。RyuさんとはSkypeで時々
会ってる。次は女性のRyudong、
総務の責任者。彼女の結婚式の、
私は婚証人、やった仕事は「間違
い有りません」真的チェンダ!と
叫んだだけだが。夫のWeiが来た。

ワオ!息子も来たオモチャのピス
トルを持って入ってきた。親が日本
の爺爺リーベンイエイエと言ってい
る。続々と製造現場の若い衆が
入ってくる。皆、昔の仕事仲間。
握手握手、彼等は私をダーイエと
呼べば良いが私は彼等の名前を
言わなければならない。全部は
覚えてないが、Kugan、Jan、Chen
お-,Xinさんの弟々ディーディだ、
他の者も顔は全部判る。

昔と違うのは殆ど全員、車の免許
を取ったこと。Xinさんが、「30人位
来たいと言うのを10人に絞るのに
苦労した」とMaさんが訳してくれた。

第一そんなにここに来てしまうと、
夜勤の製造ラインが停止してしまう。
中国で、7年前の顔ぶれが30人も
居ると言うのは稀有の会社だと
思う。それだけでA社は良い会社
だと言える。製造会社で、人の移動
が激しい会社で良い会社は、まず
無い。

酒が来た。38度の白酒パイチュウ
だ。真っ青な瓶に入って「海之藍」
ハイチーランと言う最近人気の酒
とのこと。栓を抜いてデキャンター
に移すとパイチューの香が部屋に
充満する。全員で乾杯!料理が
来る。平魚ピンユイ、桂魚グイユイ
牛、豚、なまこ、野菜。料理を食べ
れば次は誰かと乾杯、また料理、
乾杯。Chenが「ダーイェが心臓の
手術をしたと言うので、もっと弱っ
ているのかと思っていたけど、昔
と全然変わっていないので安心
した」と言ってくれた。実に嬉しい
言葉だった。

楽しい宴だっただけに別れは辛い。
皆からのお土産を貰って、hotelへ
帰る。酒を一切飲んで無かったJan
が運転してくれる。彼はこれから、
夜勤のsiftに入るとのこと。また
君達に会うために、天津に是非来
たい。再見再見!天津の仲間達。