藤田組の総支配人であった本山彦一が新聞事業に関わったあたりをまとめた拙文が見つかりました。昔、慶友会の会報に寄せたものをアップしています。
「一本の指のうづきは、同時に、全身の苦痛である。社会の一隅に、生活に疲れ、病に苦しむ者の存することは、すなわち社会全体の悩みでなくてはならない」
この理念に基づき 1911 年に創設された「大阪毎日新聞慈善団」(現、毎日新聞社会事業団)は慶應義塾OBの本山彦一の活躍によるものである。
本山彦一は肥後国(今の熊本県)に生まれ、1876 年(明治 9 年)慶應義塾に入学。卒業後は藤田組支配人、時事新報記者に従事したのち、明治生命(現、明治安田生命)、南海電鉄等の取締役を歴任、大阪毎日新聞(現、毎日新聞)の第 5 代社長を約 30 年の永きにわたり務め、日本の新聞事業発展の礎を築いた新聞人としてその名を残している。
福澤諭吉先生が「 時事新報」を創刊したのは 1882 年(明治 15 年)のことである。「 福翁自伝」によれば「その身は政治上にも商売上にも野心なくしてあたかも物外に超然たる者は、おこがましくも自分のほかに適当の人物が少なかろうと心の中に自問自答して、ついに決心して新事業に着手したものが、すなわち時事新報」とその創刊の動機を語っている。さらに「わたしの朋友には
正直有為の君子が多くて、何事を打ち任せてもまちがいなどいう忌な心配はいささかもない」とし
て会計を本山彦一に任せ、「かつて一度も変なまちがいのできたことはない。まことに安心気楽なものです」と記し、二人の友情と信頼がいかに深かったかがうかがえる。
福澤諭吉先生が創刊した「時事新報」は、当時 「東京日日新聞」と並ぶ大新聞の双璧であった。しかしながら福澤の死後は徐々に不振となり、それでも慶應義塾関係者の犠牲的応援によって支持されていたが、いよいよそれが危うくなった時に本山がいた 「大毎」に救いを求めてきたのである。
1933 年(昭和 11 年)12 月 25 日、大阪毎日新聞社は時事新報を東京支店すなわち東京日日新聞
に合同すると発表した。現在、毎日新聞が継承する 「日本音楽コンクール」「大相撲優勝力士の掲額」「毎日小学生新聞」などは、元々時事新報社の事業であった 「音楽コンクール」 「日本小学生新聞」などを受け継いできたものである。
さて本山彦一である。新聞発行事業の発展に尽くしたことはいうまでもないが、近代日本の慈善
事業の草分けとして 「財団法人大阪毎日新聞慈善団」の設立の功績にも彼の新聞人としての先見性を見ることができる。
当時の社会情勢は、日清・日露戦争の勝利によって国富の増大、文化の発達を遂げる一方で、激しい自由競争による貧富の拡大により貧困者の数が増大した。このためにその事業目的を「他の慈善団体の事業援助」「罹災者救済」 「薄幸者救済」「貧民施療」の四つとし、その活動を開始したのである。ユニークなのは「水都大阪」の土地柄に着目し、積極的に病人の間に入っていける移動式の病院船を建設したことである。1 日に 200 人の患者を診察できる 150 トンの「慈善丸」が大阪の河川を航行して診療行為を行ったのである。(毎日新聞社史より)
また 「大毎慈善団」と「宝塚少女歌劇団」との関わりも興味深い。慈善団の基金募集のために 「慈
善歌劇会」を 催し、多くの基金を ることができたと同時に歌劇団が社会に広く認知されるよう
になった。宝塚少女歌劇が入場料をとって観客を集めたのは初めてのことであり、そこから今の「
宝塚歌劇団」へと発展していくのである。この阪急東宝グループの創立者、小林一三が慶應義塾の出身者であったことも大毎と宝塚を結びつけた縁なのかもしれない。
東日本大震災が発生した 2011 年の今年 6 月に「 毎日新聞社会事業団」は創立 100 年を迎えた。政
治は東北の被災地に希望の灯りを示せただろうか。
日本人ははたして幸福になったのか。英国の4 倍、米国の 2 倍の日本の自殺率(年間 3 万人 上)という現実は、日本における家族の絆、地域の絆が希薄になってしまったことの証なのかもしれない。
社会学者の宮台真司が言う「任せて文句を言う作法」から「引き受けて考える作法」への意識の 転換が必要であると自問自答している。
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