昔取った杵柄、という言葉があります。
若い頃はできたのに、今はもう同じようにはできない。
最近、そんなことが少しずつ増えてきました。
体力的なこともあるし、気力の問題もある。
「あれ?前はもっと軽々できたのにな」と思うたびに、
ああ、年を取ったんだなあと実感します。
でも、ふと思ったんです。
これは、私ひとりの老いの話じゃないのかもしれない、と。
人間という種そのものも、
昔できていたことが、今はできなくなっている。
そんなことが、案外たくさんあるのではないか。
▪️便利になるほど、「できなくなること」も増えていく
AIが絵を描いてくれる時代になりました。
文章も作曲も、自動でやってくれる。
そうなると、人はそれをやらなくなる。
やらなくなると、できなくなる。
私自身、かつてはイラストレーターでした。
手描きで絵を描き、エアブラシも吹いていました。
やがてMacが登場し、CGへ。
便利さに感動した反面、鉛筆や筆を持つ機会は確実に減りました。
気づけば、「昔できたこと」が
いつのまにか錆びついていたりする。
それは衰えというより、
技術が奪うもう一つの側面なのかもしれません。
▪️人類だって「昔できたこと」を失ってきたのではないか
この感覚をそのまま人類史に広げると、
ちょっと不思議な想像が浮かんできます。
昔の人たちは、
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星の位置で方角を知り
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風や匂いで天気を感じ取り
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森の気配で危険を察知し
自然と一緒に呼吸するように生きていました。
今の私たちは、
地図アプリも天気アプリもなければ不安で仕方がない。
もしかすると——
便利になった代わりに、
何かを失ってきたのは私たち人類も同じなのかもしれない。
▪️誰でも本当は「感じて」いたのかもしれない
昔、霊能者の友人に
オーラの見方を少し教えてもらったことがあります。
そのとき彼が、何気なく言った言葉が忘れられません。
「本当は、誰でも見えるんだよ。
ただ“そんなものは見えない”って思い込んでるだけ。」
それを聞いたとき、
私は半分笑い、半分本気でドキッとしました。
否定も肯定もできない。
でもどこか、「わかる気がする」。
子どもの頃には当たり前に感じていたことを、
大人になるにつれて「気のせい」にしてしまっただけなのかもしれない。
▪️失ったものは、完全に消えたのではなく
昔取った杵柄。
昔はできたのに、今はもうできないこと。
それは単なる「衰え」や「退化」だけではなく、
どこかに眠っているだけ
なのかもしれません。
人類もまた、
かつて持っていた感覚や力を
深いところにしまい込んでいるだけなのかもしれない。
なら、なんだか少し楽になります。
昔できたことができなくなった私も、
今新しく身につけている何かが、きっとあるはずだから。
便利さの向こうで眠ってしまった感覚たちが、
また静かに目を覚ます日も来るかもしれません。
そんなことを、ちょっと不思議なロマンとして思うのです。
心が古い記憶を尊ぶのはなぜだろう・・・٩( ᐛ )و
