イサム・ノグチと金子正則と山本忠司。これに洋画家の猪熊弦一郎を加えた4人の仲間が戦後日本の中で香川という地域を独特なものに仕上げて行った。おそらく誰か一人欠けても上手くいかなかっただろう。そういう意味ではまさに奇跡的な巡り合わせの賜物なのだ。讃岐うどんも瀬戸内国際芸術祭も栗林公園もあれもこれも何もかも。

 

五輪とうどんと建築家(1998/07/30初出)

 久し振りに訪ねたら、「とても美しい屋根を見つけましたよ」とどこかの農家の写真を引っ張り出して説明を始める|一昨日、亡くなった山本忠司さんはそんな人だった。建築家、元五輪代表、うどん好き▲こんな話がある。県外から客を迎えた山本さんがいきなり「一杯行きませんか」と切り出した。昼間だから驚いたが高名な建築家の申し出だ。黙ってついて行くと山本さんはうどん屋に入り、一杯のうどんを注文した。まじめで不思議なユーモアの人▲建築家としての業績の大きさは四国で初めて、そして唯一の日本建築学会賞となった歴史民俗資料館(五色台)を見れば十分だろう。そこには地域との一体化を目指した山本建築の思想、美学のすべてが込められている▲山本さんは京都工専を卒業してから短大学長になるまでの間、三十三年も県庁に勤めた。人生の大半を役人として過ごしたが、いつも数字より先に美学が出る、ほとんど官僚臭のない人だった。そのコントラストも愛された▲一昨年、亡くなった金子正則元県知事、その招きで牟礼にアトリエを構えた故イサム・ノグチ氏もその一人だ。この世界的彫刻家は夏になると山本さんを誘って海水浴に出かけた。山本さんは大切な「ボクの友達」だった▲戦後間もないヘルシンキ五輪に三段跳びの日本代表として出場した山本さんは百八十センチを優に越える大きな体がトレードマークだった。彫刻界の巨匠は物静かで小柄な人だった。二人を結び付けた金子さんは陽気で小太りな人だった▲三人三様のスタイルの持ち主だったが、このトリオが集まると何か新しいことが始まった。三人ともに大胆で繊細で個性的な感覚と思想の持ち主だった。香川を世界と日本に知らしめたトリオだった。その最後の一人が消えた。七十四歳は早すぎる。