戦後、さまざまなものが劣化したが、その最たるものは宰相だ。今では権力亡者の若手官僚が政治家を目指し、議員になったら口をそろえて「総理大臣になりたい」という。みんな真顔だから、こっちがたじろぐ。中には「なぜ君は総理大臣になれないのか」なんて映画を友人の映画監督に撮ってもらって公開する人もいる。まるでアメリカンドリームを夢見てウォール街にたむろする銭ゲバエリートと変わらない。頭が良ければ何でもできるなんて教えたのは誰だ。
町長になりたかった宰相(1998/06/11初出)
「町長になりたい」と友人に打ち明けられても驚きはしない。しかし同じ言葉を時の首相が口にしたら、きっと冗談だと思う。しかし大平正芳元首相とはそんな人だった。十八年前のきょう、在任中に急死した▲「夢は何ですか?」と聞かれて、「故郷の町長」と答えた首相に番記者たちから、笑いがもれたという。最高権力者が引退して田舎の町長|そんなことがあるはずがない。それが権力の魔力。だれもがそう思っただろう▲当時、一緒に笑った記者たちもそんな戯言などすぐ忘れてしまったようだ。いくら記録を引っくり返してもぴったり重なる記述はない。しかし大平正芳という人物を考えるたび、当時の番記者から聞いたこの話を思い出す▲大平さんはもちろん並の政治家ではなかったが、並の首相でもなかった。高度成長の夢を捨て切れない国民に向かって、「政治は幻想を振りまいてはいけない。国民は政治に過大な期待をしてはいけない」と初会見で言う人だった▲「地方の時代」「文化の時代」「田園都市構想」。彼が指し示した日本の進路は、二十年前の日本人には分かりにくく、好まれもしなかったが、彼は憶することなくそれを口にした。だれもが恐れた売上(消費)税導入にも果敢に取り組んだ▲その一連の発言の延長線上に、「町長になりたい」という言葉を置いてみれば、それがまるで冗談だったのかどうか少し分かる。その突然の死によって日本は大転換の機会を失い、そのままバブルに突入してしまった▲彼の洞察の確かさを、日本人は二十年後に思い知った。首相を務めた人物が田舎の町長になる|もはや中央集権の時代ではない|そんな強烈なテーゼが笑いの中に秘められていたように思う。知事選候補をめぐる抗争を聞くたびに、大平さんを追い詰めた四十日抗争を思い出す。