パフォーマンスというのは、全体性というのに近付けば近づくほど、上質なものとなる。
というのが、最近ずっと思っていることだ。
ダンスの上級者は手の指先を動かすとき、足のつま先まで気を配るという。
僕は良く飲みに出るのだが、酒が美味いだけのバーなんて行きたくもない。
行きたいのは、酒が美味いのはもちろん、店の作りとか、マスターの人柄とか、そこに集まるお客さんだとか、トータルで良いところなのだ。
マジックで言うなら、手先のテクニックだけよりも、喋りだとか、動きの綺麗さとか、人柄・キャラクターまでトータルで見せたれた方が面白い。
さてその人柄・キャラクターである。
我々パフォーマーは良くも悪くも「カッコつけ」である。
これは人前に立つ以上必要なことなのだけれども、度がすぎるとウソっぽくかつ薄っぺらくなる。
完璧な人間はいないのだから。
「弱さにこそ、その人の魅力が現れる」と言ったのは、誰であったか。
クラーク・ケントが苦悩するからこそ、スーパーマンはカッコいいのだ。
明治・大正・昭和の天皇三代に手品を見せた名人・石田天海が言うには「一番ウケたのは、失敗したと思わせる演技をしたとき」。
マギー司郎のぼやきが起こす歓声は、どんな高価なイリュージョンでも勝てない。
さて我々マジシャンは、なぜマジックをするのだろうか?
他人を笑顔にするため?
夢を与えたい?
他人が喜ぶのが好き?
ええ、どれも本当でしょうとも!
でもそれだけじゃないでしょう?
我々は他人を騙すのが好きなのですよ。
相手を出し抜く愉悦。
悔しがっている姿を見る快感。
自分だけが秘密を知っているという優越感。
我々は「悪徳の喜び」に魅了されているのだ。
悪徳があるからこそ初めて、「夢を見せる」だの「幸せになってもらう」ということが実体を持つのだと思う。
完全無欠の超人や聖人君子のドラマなんて、誰も見たくない。
いや、それ以前にドラマが成立しない。
善悪揃って初めて、パフォーマンスは全体性を持つのだ。