誠、徐(おもむろ)に持ち出す話だが、けふ(今日)は、趣きをまったく変えて、
『ネジの話・・・』
を、オヒトツ・・・(汗)
我がNippon国や世界中で、今や、当たり前の様に、機械工具等に遣われて居る
『ネジ(=螺子・捻子とも)・・・』
と云う代物が、この国に入って来たのは、果たしていつ頃かと云うと、明治維新が成る前の安政7(1860)年に、日米修好通商条約の批准のための使節団の一員に抜擢された
『幕臣・小栗忠順・・・』
が、アメリカの軍艦・ポータハン号で渡米し、半ば、世界一周のような航海を経て、還って来た時、アメリカで手に入れて持ち帰ったのが、最初であると云われて居る・・・?!
(画像は、rakuten.jp より拝借)
因みに、この使節団と前後して、勝海舟や福沢諭吉等が乗った幕府軍艦の『咸臨丸』も太平洋を渡って、サンフランシスコから大陸横断をして居るのだが、そんな話は、けふは関係無い話で、その時、小栗が持ち帰ったネジは、所謂、今は
『マイナスネジ・・・』
と呼ばれる、頭(皿)に、横溝一本しか無かったネジであるが、このネジ一本を視て、小栗は、欧米先進国とNippon 国の技術の差にカルチャーショックを受け、それまで、欧米から買い付けたり運んで居た軍艦を、自前(=自国)で修理、建造出来るようにしようと建言し、勝海舟らの反対を押し切って、
『横須賀造船所・・・』
を建造するのである・・・。
そこから始まる、我がNippon 国の機械産業(=工業力)は、明治維新以降の『富国強兵策』の中で、一層目覚ましい発展を遂げ、第二次大戦で先進大国アメリカを苦しめるまでに発展したのだが、その間は、ずっと、造られる機械類はこの『マイナスネジ』で造られて居て、戦後も、昭和20年代後半まで、そのままだったのだそうだ・・・!
そして・・・!
その一時代遅れた『マイナスネジ機械工業』に革命を起こす
『プラス皿ネジ・・・』
を、我がNippon 国の機械産業界に持ち込んだのは、誰あろうか・・・?!
何と、あのHONDA技研工業の創業者の
『本田宗一郎氏・・・』
であったらしい・・・(笑)
『世界に打って出よう・・・!』
と云う壮大な夢を共に追って居た、共同経営者の『藤沢武夫氏(=副社長)』は、本田氏に
『ヨーロッパでも視て来い・・・!』
と勧め、本田氏は、
『大丈夫か・・・?!』
と心配しながらも、国内経営を藤沢氏に任せて、憧れて居た
『マン島(英国領)TTレース視察・・・』(=TTは、Tourist Trophyの意)
を兼ねて渡欧し、同時に、ドイツやイギリスなどの工場視察もして帰って来るのだそうだが、その際、羽田に出迎えた藤沢氏に向かって、着て居たコートのポケットから、
『俺、こんなのを拾って来たよ・・・!』
と云って摘まみ出して見せたのが、この
『皿十字溝のネジ・・・』
だったのだそうだ・・・(笑)
(画像は、binichi.jp より拝借)
この『十字溝ネジ』の導入で、それまでの『横溝一本(=マイナスネジ)』では、一本一本、工員が、ドライバーを手で回して絞め込まなければならなかった接合部を、今で云うところの
『インパクトドライバー・・・』(=空気圧搾回転式)
で絞められるようになり、Nippon の機械製作産業は、革命的な製造スピードの速さを獲得したのだそうだが、こんな逸話は、あまり広くは識られて居ないのでは・・・?!
本田宗一郎と云う人は、
『技術屋の大天才(=塊)・・・』
だっただけで無く、自分が考案した技術を出し惜しみするようなことも無く、あの、アメリカの厳しい『マスキー法(=排出ガス規制法)』をクリアして、世界中の自動車メーカーを驚かせた
『CVCCエンジン・・・』
も、世界の自動車メーカーに無料で公開して、決して独占するような考えは持たなかった人だったと、25年間を共にして、
『世界のHONDA・・・』
に育て上げた藤沢氏が語って居るが、その相棒だった藤沢氏は、
『本田宗一郎は、もっと世界から評価されても善い人物だ・・・!』
とも語り残して居る・・・!
(画像は、Nippon-classic.de より拝借)
ジジイは、勿論、本田宗一郎大ファンでも有るが、その参謀だった藤沢武夫氏の大ファンでも有って、数少ない著書を漁り読ませて頂いて居るのだが、どの本にも、この零れ話が語られて居るから、藤沢氏も、本田氏の慧眼に驚いたと云うことだろう・・・!
何の足しにもならない話だが、お二人への敬意を込めて披瀝させて頂いた蘊蓄だが、この二人のDNAは、今も、しっかり
『技術のHONDA・・・』
に引き継がれて、ブレて居ないのが何より嬉しい・・・(汗)
こんな名コンビ経営者は、もう現れないだろうなあ・・・?!
などと云う、何の為にもならぬ蘊蓄話にお付き合い頂いて居りましたら、ありがとうございました・・・(謝&拝)