・ジジイ、息子に負ける・・・(汗) | 日本哭檄節

日本哭檄節

還暦を過ぎた人生の落ち零れ爺々の孤独の逃げ場所は、唯一冊の本の中だけ・・・。
そんな読書遍歴の中での感懐を呟く場所にさせて貰って、此処を心友に今日を生きるか・・・⁈

 最近、毎日訪問させて頂くBlog の彼方此方の広告バナーに、やたらと、

『JICA・海外協力隊・参加者募集中・・・!』

のバナー(=広告)が現れる・・・!

 

 最初に気付いたのは、4、5日前の、いつも、落語小咄のようなウィットに富んだ話を綴って楽しませて下さる

伊勢音頭幸栄さん・・・

の小箱(=Blog)に訪問し、毎度の

『読んだ痕跡(=イイね)・・・!』

を残すべく、画面をスクロールして居たら、図らずも、それが眼に着いた次第だが、その少し前から、TVの画面にも、幾度も流されて居たから、眼にされた方も居らっしゃるとは想うが・・・?

 

 

 何せ、我が末っ子長男が、現在、このJICA隊員として、

『南米・ボリビア多民族国・・・?』

に派遣されて居る禿オヤジとしては、此処は、見逃す訳には行かないシチュエーションと相成り候て、一応、クリックさせて頂いた次第だが、実は、

『後出しジャンケン・・・』

の卑怯を宣うようで、些か気が引けるのだが、このジジイも、その昔、この

『青年海外協力隊・・・』

に応募しようと、企んだことが有るのだ・・・(汗)

 

(世界的に有名な『ウユニ塩湖』が在る国だそうで・・・:画像は、Wikipedia より拝借)

 

 華の都、東京から、親父の死を理由に呼び戻され、ド田舎役所での勤めに辟易して居た頃だから、ジジイが23歳の頃だったと憶えるが、当時は、今のようなNet 応募なんて時代では無く、希望者は、各都道府県に募集受付の窓口が在って、ジジイは、県庁出張の際に、密かに、その願書を貰いに行ったことが有り、同封されて居た願書を、自宅で密かに記入し、東京の本部に送ったのだが、その返信で届いた案内では、当時は、第一次の試験(=学科)は、

『福岡市内で行われる・・・!』

と有った・・・。

 

 当時は、まだ、九州縦貫道路(=高速道)も、熊本市の南までしか通じて居ない頃で、試験は、確か日曜日だったが、前泊が必要で、土曜日を年休で休み、乗り込む段取りまでして、その試験までの2ヶ月ほどを、大の苦手の外国語(=英語)を学ぶべく、毎月読んで居た『リーダーズダイジェスト』の広告に在った、

『リンガフォン・・・』

とか云う英会話レッスン用のカセットテープまで買い込み、通勤の往復や夜、懸命に聴いて、テキストを復唱したりして励んだのだが、当の試験日の5日ほど前に、緊急事態が発生・・・(汗)

 

 殊も有ろうに、ジジイが、その時、特命で充てがわれて居た、

『町の超ビッグプロジェクト・・・』

の準備が佳境に入って来て、その入札準備に忙殺される事態に陥ってしまったのだ・・・!

 

 後に、Nippon 全国で大流行りとなる、

『第三セクター方式・・・』

と云う、半官半民経営方式を取り入れた、

『総合病院建設計画(=当時の予算で17億円ほど)・・・』

で、町内では、その建設の是非を巡って、地域の医師会が割り込んで来て、その親派が蠢き出し、結果、町が二分されるような危ういプロジェクトに発展してしまって居て、ド田舎議会は、一度承認(=可決)した議案を持ち出して来て割れるは、その騒ぎ(=混迷)を聴き着けたメディアが、それを喜んで騒ぎ立てるわで、計画を推し進める町長(=執行部)側は、極めて神経質になって居る中での入札執行なのは、この鈍感ジジイにも判っては居たが、単に、入札執行事務を充てがわれただけのジジイは、賛否など関係なく、その入札事務を、滞り無く執り仕切れば良いだけの話なのだし、勿論、我が町に、総合病院が出来ると云うことは、有難いことだとも想っても居たから、その一翼を担えることに、誇りも感じて居たが・・・!

 

 だが、このじあんでは、役所の中の職員たちでさえ、賛否が二分された空気の中での事務だから、殊は、余程に慎重に運ばなければならず、ジジイは、その入札失効日に向かって、気を遣いながらも、淡々と仕事に勤しんだつもりだったが、この

『JICA試験受験の福岡往き・・・

を数日後に控えた日に、ジジイの事務机の中に在ったはずの書類の一部の写しが、

『地元紙の紙面を飾る・・・!』

と云う椿事が起き、町長部局は、その朝から大騒ぎとなってしまい、ジジイも、登庁早々から、町長室に呼ばれ、事情を訊かれるは疑われるわで、福岡往きどころの暢気な空気では無くなってしまったのだ・・・(汗)

 

 まあ、ジジイの疑いは程無く晴れたが、要は、夜中に、庁舎の中のジジイの机を漁り探したヤツ(=職員・・・?)が居ると云うことになって、ジジイは、入札執行日までを、関係書類を抱えたままの出勤&退庁を余儀なくされ、勿論、年休取得や福岡往きなど

『以っての他・・・!』

を強いられ、我が

『JICA挑戦・・・』

は、敢え無くボツに・・・(笑)

 

 その翌週に、入札は無事に終えはしたが、町を二分した賛否論の中で着工した建設工事は、遂には、県の医師会が県知事を動かしてまでの、

『知事の財政懸念表明・・・』

で反対派を勢い点かせ、その勢いに負けた状態で、工事を請け負った

『間組(=現・安藤ハザマ)・・・』

が、その数倍の公共工事受注(=鹿児島市民文化ホール:80億円)を条件に、前触れも無く、勝手に工事中断を表明して、結果、それまでの工事跡は、野に残骸を晒す形で決着した訳だが、この一事が、後に、このジジイを、

『ド田舎政治の世界・・・』

に巻き込んで行く着火点にもなったのだが・・・(汗)

 

 些か余談が過ぎたが、そんな訳で、夢破れたジジイは、その翌年に、見事に役所を

『喧嘩退職・・・(汗)

に成功し、そこから、約40年w0,諸々面白い人生を生きさせて貰って来た訳だが、その中でも、我が人生に、36歳にして、

『男の児を授かったこと・・・』

と、その末っ子長男が、ジジイの夢だった

『青年海外協力隊に応募する・・・!』

と云い出したことは、殊の他嬉しい出来事で、それが、約40倍強と云う狭き門を、横から

『ズル抜け合格(=剣道経験だけ)・・・(笑)

して、

『ボリビア赴任の栄・・・』

に浴し、今下でのコロナ禍一時帰国の後、また再赴任させて貰えて居ることは、何にも代えがたい喜びで有る・・・(汗)

 

 

 

 

(画像は、『宮崎県海外協力隊協会発行誌』より転写&拝借)

 

 この画像を視る限りでは、とても、このバカジジイの息子とは想えんのだが、剣道だけは、専門で理解出来るし、野球は、ジジイ譲りで、生まれた時からの

『Hawks Fun ・・・』

が、そこそこ役に立って居るか・・・(笑)

 

 このジジイは、オヤジを超えたかどうかも判らぬまま、此処まで生きてしまったが、我が息子は、間違い無く、このバカオヤジを超えてくれた・・・!

 

 それだけで、親として

『授かり、育てた甲斐が有った・・・!』

と、つくづく感謝して居る・・・(汗)

 

 などと云う、他人様から視たら、まったくの

『バカ親丸出し駄文・・・』

を、最後まで読んで頂いて居りましたら、心より御礼を申し上げます・・・(謝&拝)