・今さら『ベトナム戦争』を学ぶ・・・(9) | 日本哭檄節

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還暦を過ぎた人生の落ち零れ爺々の孤独の逃げ場所は、唯一冊の本の中だけ・・・。
そんな読書遍歴の中での感懐を呟く場所にさせて貰って、此処を心友に今日を生きるか・・・⁈

 結局、アメリカ合衆国は、このベトナム戦争(=第二次インドシナ戦争)で、

『総勢;5万7000名強・・・』 (=南北両軍全体では、凡そ161万7千人・・・)

の戦死者を出し、

『33万余名の負傷者・・・』 (=アメリカ軍のみで・・・)

を出すと云う大きな犠牲を払って、遂には

『サイゴン陥落・・・』 (=1975[昭和50]年4月30日)

を喫して敗れる訳だが、この長い間続けた大統領たちは、果たして誰だったかと云うと、直接介入する前の、軍事顧問団(=口出し部隊)派遣の段階での大統領は、

『第34代・ドワイド・D・アイゼンハワー(Dwight David Eisenhower)大統領・・・』

の後期に始まり、あの

『第35代・ジョン・F・ケネディー(John Fitzgerald Kennedy)大統領・・・』

の段階で、

『軍事顧問団・2万3千人・・・』 (=ここまでくれば、最早顧問団では無く『軍隊』だが・・・!)

となり、いよいよ本格介入へと舵を切る訳だが、ケネディーが、あの

『ダラスでの暗殺事件・・・』 (=1963[昭和38]年11月21日)

に斃れ、その後を引き継いで、図らずも大統領になった

『第36代・リンドン・B・ジョンソン(Lyndon Baines Johnson)大統領・・・』

の段階で、ケネディーの政策を引き継いだ本格介入(=1965年=北爆)に踏み切り、此処からの泥沼化で、次第に巻き起こる全米中での、

『反戦&厭戦ムード・・・』

を追い風にして当選した、共和党の

『第37代・リチャード・M・ニクソン(Richard Milhouse Nixon)大統領・・・』 (=1969年1月20日・就任)

の代になって、次第に撤退へと舵を切り直して行き、諸々の裏工作の末に、やっと

『1973[昭和48]年1月27日・・・』

に、、南ベトナムの『チャン・バン・ラム外相』とアメリカの『ウィリアム・P・ロジャーズ国務長官』、北ベトナムの『グエン・ズイ・チン外相』と南ベトナム共和国臨時革命政府の『グエン・チ・ビン外相』の4者の間で

『パリ協定・・・』(=正式には、『ベトナムにおける戦争終結と平和回復に関する協定』と云う・・・』 

が交わされ、此処に、漸く、最終的には、約20年近くに及んだ

『泥沼の戦争の停戦・・・』 (=同年3月・アメリカ軍ベトナムより撤兵・・・)

に漕ぎ着ける訳だが、この『和平協定・締結・・・』を結ぶ為に、裏で動いた黒子が、あの

『ヘンリー・A・キッシンジャー(Henry Alfred Kissinger)氏・・・』 (=当時は、大統領首席補佐官)

だ・・・!

(画像は、Wikipedia より拝借)

 

『ヘンリー・キッシンジャー・・・!』

 

 何とも懐かしいお名前だが、小生が物心着いてから、今日まで視て来たアメリカの外交官の中で、彼ほどキレ者にして、大きな仕事を成し遂げた人物は、他に、想い着かない・・・! 

 

 後に、国務長官も務めるが、真、

『機を観るに敏な人物・・・』

で有ったと云う気がしてならない・・・?! 

 

(画像は、Wikipedia より拝借)

 

 この人物・・・!

 

 ベトナム戦争の泥沼化で、最早、

『この戦争に勝ち目は無い・・・!』 (=映画『ペンタゴン・ペーパーズ』に詳しいが・・・)

と視てとったニクソン陣営は、この戦争を終わらせるには、

『北ベトナムを支援している、中国を抱き込むしか無い・・・!』

と読み、正しく隠密裏に、このキッシンジャー氏を、北京政府(=毛沢東&周恩来)の元へ遣わすべく、裏工作(=ルート開拓)を始める・・・。

 

(画像は、jaa2100.org より拝借)

 

『孫氏の兵法・・・』

で云うところの、

『将を射んと欲すれば、先ず馬を射よ作戦・・・』

と云う訳だな・・・(笑)

 

 そして、その頃、それまで仲の善かったソ連との関係が悪化して居た、北京政府に近付くことに見事成功し、実現したのが、1971[昭和46]年7月に、突如として発表された、

『ニクソン大統領の中国訪問・・・』 (=第一次・ニクソンショック・・・)

と云う大衝撃である・・・!

 

(画像は、gakugo.net より拝借)

 それまで、国際的には、

『犬猿の仲だ・・・』

と想われて来た(=想わせて来た・・・?)米中の首脳同士が、

『同じテーブルに着く・・・!』

と云うNews は、国際社会にとっては、当に、晴天の霹靂に想えただろう・・・!

 

 そして、その発表は、翌72年2月21日に、見事

『ニクソン大統領の訪中・・・』

として実現し、毛沢東と握手したニクソン大統領に依って、アメリカは、やっと、この戦争を終わらせる手筈を調えるのであるが、その第一の功労者は、この『キッシンジャー補佐官』と云う

『世界の大策士・・・』

だったのだ・・・(笑)

 

 この功績(=パリ協定の締結)に依って、後に、キッシンジャーは、

『ノーベル平和賞・・・』

を授与されたことからも、その功績の大きさは解ろうと云うものだ・・・!

 

 更には、だ・・・。!

 

 このニクソン大統領は、この第一次大ショック(=訪中発表)から、幾らも間を空けない半年後の8月には、今度は、打ち続いて来た戦争で嵩んだ国家財政の悪化を立て直すことを目論んだ

『米ドル紙幣と金との兌換行為の一時停止・・・』 (=米の金保有量の減少への対応・・・)

と云う、

『国際経済を大混乱させる奥の手・・・』 (=第二次・ニクソンショック・・・)

と云う荒業を、平気で遣って除けてしまう・・・!

 

 これに依って、それまで固定相場制だった為替レートは、

『変動相場制・・・』

へと移行し、

『1ドル=360円・・・』

と云う円・ドルレートは、一気にブレ始め、日本の円は、ドンドン切り上げられて行って、今や、

『1ドル=120~130円台程度・・・』

で推移して居るようだが、日米貿易摩擦が激しい時(=1994~5年頃)には、

『1ドル=80円台前半・・・』

にまで、高騰した時期も有ったほどだ・・・!

 

 いかん・・・!

 

 話が、大分逸れてしまったが、この

『ヘンリー・キッシンジャー氏の暗躍・・・』

で、漸く『ベトナム戦争』に幕を降ろせたアメリカは、此処から、一度、乱れ切ってしまった国内世論と、国内経済の立て直しに邁進し直し始めるのだが、この機を待って居たように、中国に擦り寄ったのが、

『我がNippon 国・・・』

だった訳で・・・(笑)

 

(つづく・・・)