・澁澤栄一翁の復習・・・(13) | 日本哭檄節

日本哭檄節

還暦を過ぎた人生の落ち零れ爺々の孤独の逃げ場所は、唯一冊の本の中だけ・・・。
そんな読書遍歴の中での感懐を呟く場所にさせて貰って、此処を心友に今日を生きるか・・・⁈

 澁澤青年と従兄の喜作が、命を拾い名を成すに至った大恩人(=キーパーソン)は、先ずは、偏に、一橋家の用人だった

『平岡円四郎・・・』

と云う、江戸っ子独特の鷹揚で度量の深い仁との出逢いと、この仁に、篤く信を得たことだっただろうが、この仁が、澁澤たちが、その命に依り、

『家臣搔き集め・・・』

の為に、関東へ下って居る間に、水戸藩の暴漢に襲われ、落命して果てると云う事件が起きて居る・・・。

 

 世は、当に、

『風雲、急を告げる・・・!』

と云う風情に突入し、尊皇の急先鋒の水戸藩辺りでは、

『天狗党の暴乱・・・』

なんて事態が起きて居た最中のことだから、当に、国中が不穏を極めつつ、空気がドンドン緊張感を孕んで膨らんで行く頃だった訳だ・・・。

 

『平岡、死す・・・!』

と云う報を受けても、澁澤たちは、その命(=家臣探し)を果たす覚悟を変えず、

『命ぜ られ た こと は どこ までも 果さ ん けれ ば なら ぬ・・・』

と云う覚悟で、遂には、五十名ほどの人材を随えて、再度、京都へ還って来る訳だが、平岡と云う後ろ盾を喪った立場では、些か、尻の据わりも不安定だったようだ・・・(笑)

 

 しかし、今更、後にも引けない中で、何とか隠忍自重しながら仕えて居る内に、やがて、その功を認められ、位も一段上がって

『御徒組・・・』

に取り立てられ、連れて俸給も上がると云う幸運にも恵まれたようだから、尻の据わりも、次第に快くなって行ったと云うことのようだが、時は、恰も、彼の長州藩が、

『下関戦争・・・』 (=馬関戦争:1863~1864年の2回)

を引き起こし、英、仏、蘭、米の艦船に砲撃を加え、逆に、返り討ちに合って、惨敗を喫した頃と重なるから、日本は、東も西も、実に慌ただしかった時代と云うことのようだ・・・。

 

 まあ、そんな時代だと、幾許かの志を宿した青年たちには、当に、

『血騒ぎ、肉躍る時代・・・』

だったのだろうなあ・・・(笑)

 

 ウーン・・・、そんな時代に生まれてみたかった気もするが・・・(汗)

 

 そして、この『馬関戦争』に敗れ、立場を喪って孤立無援となった長州藩が、次に引き起こすのが、1964[文久元]年7月に、殊も有ろうに、何を血迷ったか、京都の御所に突入して、天皇を拉致しようと企んだ

『禁門の変・・・』

である・・・。

 

 この事変には、一橋は元より、会津、桑名、彦根、薩摩等の諸藩が出動して事無きを得たのだは、この時、澁澤たちは、まだ江戸に下って人材集めに奔走して居たから、直接、戦に奮戦した訳では無いが、逆に云うと、これも、二人にとっては、却って幸運だったのかも識れない・・・?

 

 如何な勝ち戦とは云え、勝者側に、まったく損害が無かったはずは無い訳で、血気盛んな喜作などは、率先して抜刀して切り込んで居たかも識れないし、そうなれば、長州藩の銃弾に斃れて居ても、不思議は無かったかも識れないし・・・?

 

 この『禁門の変』以降、京都の政情も一先ず落ち着きを取り戻し、京(=天皇)を守る役目を仰せつかって居る一橋家の存在は、弥が上にも増す訳で、

『御用談所詰め・・・』

の澁澤たちも、各藩の周旋係役から

『一つ、ご昵懇に・・・!』

と云うお誘いの声が掛るようになり、なかなか

『美味い汁・・・』

に肖ったようでも有る・・・(笑)

 

 そして、その『美味い汁』が、後々の澁澤翁の

『人脈財産・・・』

ともなって行ったと云うことでも有るようだ・・・(笑)

 

 何せ、少年の砌(みぎり)から、家業の藍の買い付けでも、天賦の

『人誑(たら)しの才・・・』

を発揮して居た澁澤翁だから、人付き合いはお手の物だったろうし・・・(笑)

 

(つづく・・・)