澁澤青年と従兄の喜作が、命を拾い名を成すに至った大恩人(=キーパーソン)は、先ずは、偏に、一橋家の用人だった
『平岡円四郎・・・』
と云う、江戸っ子独特の鷹揚で度量の深い仁との出逢いと、この仁に、篤く信を得たことだっただろうが、この仁が、澁澤たちが、その命に依り、
『家臣搔き集め・・・』
の為に、関東へ下って居る間に、水戸藩の暴漢に襲われ、落命して果てると云う事件が起きて居る・・・。
世は、当に、
『風雲、急を告げる・・・!』
と云う風情に突入し、尊皇の急先鋒の水戸藩辺りでは、
『天狗党の暴乱・・・』
なんて事態が起きて居た最中のことだから、当に、国中が不穏を極めつつ、空気がドンドン緊張感を孕んで膨らんで行く頃だった訳だ・・・。
『平岡、死す・・・!』
と云う報を受けても、澁澤たちは、その命(=家臣探し)を果たす覚悟を変えず、
『命ぜ られ た こと は どこ までも 果さ ん けれ ば なら ぬ・・・』
と云う覚悟で、遂には、五十名ほどの人材を随えて、再度、京都へ還って来る訳だが、平岡と云う後ろ盾を喪った立場では、些か、尻の据わりも不安定だったようだ・・・(笑)
しかし、今更、後にも引けない中で、何とか隠忍自重しながら仕えて居る内に、やがて、その功を認められ、位も一段上がって
『御徒組・・・』
に取り立てられ、連れて俸給も上がると云う幸運にも恵まれたようだから、尻の据わりも、次第に快くなって行ったと云うことのようだが、時は、恰も、彼の長州藩が、
『下関戦争・・・』 (=馬関戦争:1863~1864年の2回)
を引き起こし、英、仏、蘭、米の艦船に砲撃を加え、逆に、返り討ちに合って、惨敗を喫した頃と重なるから、日本は、東も西も、実に慌ただしかった時代と云うことのようだ・・・。
まあ、そんな時代だと、幾許かの志を宿した青年たちには、当に、
『血騒ぎ、肉躍る時代・・・』
だったのだろうなあ・・・(笑)
ウーン・・・、そんな時代に生まれてみたかった気もするが・・・(汗)
そして、この『馬関戦争』に敗れ、立場を喪って孤立無援となった長州藩が、次に引き起こすのが、1964[文久元]年7月に、殊も有ろうに、何を血迷ったか、京都の御所に突入して、天皇を拉致しようと企んだ
『禁門の変・・・』
である・・・。
この事変には、一橋は元より、会津、桑名、彦根、薩摩等の諸藩が出動して事無きを得たのだは、この時、澁澤たちは、まだ江戸に下って人材集めに奔走して居たから、直接、戦に奮戦した訳では無いが、逆に云うと、これも、二人にとっては、却って幸運だったのかも識れない・・・?
如何な勝ち戦とは云え、勝者側に、まったく損害が無かったはずは無い訳で、血気盛んな喜作などは、率先して抜刀して切り込んで居たかも識れないし、そうなれば、長州藩の銃弾に斃れて居ても、不思議は無かったかも識れないし・・・?
この『禁門の変』以降、京都の政情も一先ず落ち着きを取り戻し、京(=天皇)を守る役目を仰せつかって居る一橋家の存在は、弥が上にも増す訳で、
『御用談所詰め・・・』
の澁澤たちも、各藩の周旋係役から
『一つ、ご昵懇に・・・!』
と云うお誘いの声が掛るようになり、なかなか
『美味い汁・・・』
に肖ったようでも有る・・・(笑)
そして、その『美味い汁』が、後々の澁澤翁の
『人脈財産・・・』
ともなって行ったと云うことでも有るようだ・・・(笑)
何せ、少年の砌(みぎり)から、家業の藍の買い付けでも、天賦の
『人誑(たら)しの才・・・』
を発揮して居た澁澤翁だから、人付き合いはお手の物だったろうし・・・(笑)
(つづく・・・)