・おとなの対応・・・ | 日本哭檄節

日本哭檄節

還暦を過ぎた人生の落ち零れ爺々の孤独の逃げ場所は、唯一冊の本の中だけ・・・。
そんな読書遍歴の中での感懐を呟く場所にさせて貰って、此処を心友に今日を生きるか・・・⁈

 また今日(けふ)も、TVネタだが、これは、許して頂きたい・・・!

 

 番組は、昨夜10時からの

『逆転人生・・・!』 (NHK・総合)

だから、観られた方も多かっただろうし、番組を観て

『泣かれた方・・・』

も、何人も居られたと想うのだが・・・。

 

 昨日のテーマは、あと一週間もせずに、Nippon 国中のメディアが、鬼の首を獲ったように騒ぎ立てるであろう

『3.11(=東北大震災・・・)から10年・・・』

を前にして、あの

『東京電力・福島第一原発事故・・・』

での、

『東電側職員・・・』

として、賠償問題の窓口で、被害者対応に直接携わった人や、

『除染作業・・・』

に携わり、除染後の農地で、自ら、農作物を作って、

『作物が汚染されて居ないこと・・・!』

を証明してみせた職員や、被害者の家庭を一軒一軒頭を下げて廻って、草刈りや生活上の困ったことなどに、自ら率先して取り組み、信用を築いて行った職員の三人だったが、番組の副題は、

『あの日“加害者”になった私~東電社員たちの10年~

と添えて在った・・・。

 

 

 その三人とは、当時(=2011[平成23]年3月11日)、東電埼玉志木支社で、法人営業を担当して居た

『矢島一男さん(=当時44歳)

と、東京荻窪支社の生活営業担当だった、

『北村秀城さん(=当時50歳)

 そして、もう一人は、当時、Nippon 国中の電力会社の社員が加盟する労働組合、『電力総連の政治渉外局長・・・』と云う、何とも際どい役職に就いて居られた

『永井康統(やすのり)さん(=当時50歳)

と云う方で、この方は、労働組合の立場から、政府や国会に対して、

『原子力発電・推進・・・』

を働き掛けて来られた立場に、在った方であると云う・・・。

 

 

 この

『元・電力総連マン・・・』

だった永井さんが、事故から一年後に、除染作業で携わった最初の地域が、福島市の大波地区だったのだそうだが、その大波地区こそが、あの原発放射能汚染で、国の基準値を大きく超える

『500ベクレルの汚染米・・・』

が出て、連日、メディアから大騒ぎされた場所だったのだと云う。

 

 

 そこに脚を踏み入れ、環境省の担当者と一緒に、地域を纏める自治会長をされて居た、地元のお寺の住職の処に挨拶に訪なった時、永井さんを東電マンだと識った瞬間の住職の顔は、

『鬼のような顔つきに変った・・・!』

のだそうだが、云うだけの文句を云った最後には、

『俺は、おまえの会社に文句を云っているのであって、おまえ故人に文句を云っている訳ではないからな・・・!わかってくれよ・・・!』

と云われたと云う。

 

 そして、その一言を聴いた永井さんは、涙を浮かべて、

『正直、救われた・・・!』

と云われ、続けて、

『だから・・・、救われた分、仕事で返さなきゃいけないと想った・・・!』

と語って居られた。

 

 否々、こうやって番組を再現して行っても仕方が無いから、間を、端折りに端折って、ジジイが綴りたかったのは、この永井さんが、自分らが行った除染作業は、

『果たして、本当に、効果が有ったのか・・・?』

と云う疑問と、

『地域のために、なったのだろうか・・・?』

と云う自らの疑問を確かめたくて、作業を終えた大波地区の耕地(=住職の畑)を借りて、地元の人に、農業のイロハから教えて貰って作ったスイカやトウモロコシから、遂に放射能が検出されず、更には、その夏の大波地区の夏祭りに、屋台を出して、

『此処の畑で作ったスイカやトウモロコシを、提供させてくれ・・・!』

と云う申し出を、地区の夏祭りの実行委員長さんが、

(東電から)施しなんか受けないからな・・・!』

と云う気概を宿しながらも、

『儲けなくていいから、ちゃんと売れよ・・・!』

と、渋々ながらも受入れられた上、更には、祭りに集まった地域の住民たちが、『東電・・・』と云う幟の前を、白い眼で視て寄り付かないのを視て、その住民の前で、

『今日は、東電の人たちも参加してくれて居るから・・・、皆さん・・・、いろいろ有ると想いますが・・・、どうか皆さん・・・、おとなの対応をお願いします・・・!』

と云う一言を、マイクを通して云ってくださった場面の、感動である・・・。

 

 

 

 永井さんの話では、その一言の瞬間、夏祭りの会場が、どよめいたそうである・・・。

 

 永井さんに農作業を手解きした地元の農家の佐藤さんも、東電に対する異はあったけれども、

『これはこれ・・・、あれはあれ・・・!

地域の復興を、最優先しよう・・・!』

と云う、何とも云えない

『おとなの対応・・・』

をされる度量を宿して居られたのが、何とも嬉しく頼もしかった。

 

 

 否々、福島の方々は、なんとも

『度量が大きい・・・』

と云うか・・・!

 

 その永井さんは、夏祭りの翌年に、その大波地区に家を借り、

『此処で生きて行くと、決めました・・・!」

と仰り、今は、大波で生産されるコメを販売するNPO法人を立ち上げて、頑張って居られると云う・・・。

 

 

 そして、そんな永井さんの心を支える曲は、これだそうである・・・!

 

 

 有名過ぎる曲だから、今更説明など要らないが、永井さんが、

『♪ そんな時代も あったねと 

     いつか話せる日がくるわ・・・』

と云う日は、直ぐには来ないけれども、一歩一歩進めて行って、いつかそんな日が来ることを願って、日々活動して居られると語って居られる顔が、とても印象的だった。

 

 永井さんは、活動を通じて感じられる感懐として、MCの山里亮太さん(=南海キャンディーズ)が、

『そう云う活動を通して、許されて行くような光が視えて来るものですか・・・?』

と問うたのに、

(原発被害者の人たちが)東京電力に対して、多分、生涯許すことは、あり得ない・・・!』

ときっぱり仰ったが、この言葉は、非情に重い気がした。

 ただ、

『それ(=復興支援など・・・)に携わった人たちへの許しは、自分たちが今やっている活動が、(いつか)答えをくれるのではないだろうか・・・⁈』

と云う意味の言葉を語って居られたのも、非情に、心に迫って来る言葉だと感じた。

 

 被災者補償の窓口を担当された北村さんは、昨年7月に、東電を定年退職された今も、東京の自宅から、一月に一度のペースで、30年愛用のバイクで6時間掛けて福島まで通い、識り合いになった被災者の方々の家を訪ねて、草刈りなどの作業を手伝わせて貰って居られるらしいが、その根底に在るのは、自分が関わって来た被災者の方々と、

(ひたすら)お会いしたいんですよ・・・!』

と云うことらしく、訪ねられた被災者の方々も、

『こんな(東電)社員は、居ない・・・!』

と不思議がりながらも、心のどこかで待って居るような関係が築かれている・・・。

 

 

 もう一人の矢島さんは、

『担い手が居なくて再開出来ない農業・・・』

を憂い、3年前に51歳で、

『天下の東電・・・』

を早期退職して、南相馬市の農業法人に再就職して、農業に勤しんで居られると仰ったが、その動機が、

『自分は、農業は経験無いけれども、少しでもお手伝いが出来るなら、農業の道も有りかな・・・!』

だと仰るから、頭が下がるとしか云い様が無い・・・!

 

 

 否々・・・、綴って行ったら、一晩や二晩では綴り切れないほどに、内容が濃ゆく、感動が、幾重にも重なって来る45分間だったのは、云うまでも無い・・・!

 

 この番組を、当の東電の幹部の方々や、他の社員の方々が

『どう想ったか・・・⁈』

などと云う野暮は云うまい・・・!

 

 ただ、あの未曽有、全代未聞で、消し去れないほどの大事故(=否、事件かも識れないが・・・)の中で、

『自分(たち)は、加害者側の人間だ・・・!』

と云う立ち位置に立って、自分の至誠を一貫して、現実に向き合った

『東電の社員たち・・・』

が居たことと、その至誠を受入れた福島の人たちの

『おとなの対応・・・』

には、教えられることだらけだったような・・・!

 

 最後に・もう一言添えて措かせて貰うと、この番組を創るために、あの感動的な

『夏祭りシーン・・・』

を撮影するためのエキストラ等から準備のすべてを、当の大波地区の方々が、11月の寒い中で、

『夏の装い(=半袖&半ズボン等・・・)

で友情出演してくださったのだと云う話には、更に泣かせて貰った。

 

 

 

『永井さんに頼まれてら、嫌とは云えない・・・!』

と云う地元の方の一言こそ、当に、永井さんたちが、至誠で築き上げた信頼が云わせた

『おとなの対応・・・!』

では無かろうか・・・!

 

 我々Nippon 国民全員が、この番組を観て、福島の人たちから、この心掛けを学ばせて貰わなければいけないと、教えられた、心に響くし、何とも痛い番組だった・・・!