憂きことの なおこのうえに 積もれかし
限りある身の 力ためさん
江戸時代前期の儒学者、熊沢蕃山(くまざわばんざん)の歌です。
「さすが儒学者・・・」
と想わせる一首ですが、私たちも、我が人生をこのような気概で臨んだなら、さぞかし面白いだろうと思わせる歌です。
「憂きこと」とは、大変なこと、辛いこと、苦しいことと云った意味でしょうか。
兎に角、人生に次から次へと圧し掛かってくる苦労ということだろうと思いますが、その苦労に、もっと乗っかって来い、もっと乗っかって来いと云っているのですから、胎(はら)が据わっています。
自分の体がどこまで持つか、一丁試してみるから・・・・・と云うのです。
どうでしょう。
私たちに、この覚悟があるでしょうか?
私たちは、誰もが出来るだけ人生の苦労なんてしたくないと思っています。
人生は、出来るだけ楽して生きたいと・・・・・。
だから、一度(たび)自分がきつかったり苦しかったりする試練に立たされると、何か自分だけが苦労させられているように想い込み、人を恨んだり、妬んだりして自分の氣持ちを自分以外のところへと向かわせることで、心の辻褄を合わせようとしてしまいます。
「あの他人の所為で・・・・・」
とか
「自分は運が悪かったから・・・・」
とか、自分以外のところに自分の不運不幸の理由を求めて、止みません・・・・・。
兎に角、自分を自分で「被害者」に仕立てないと納得がいかないんですね。
でも、そんな心掛けでは、人生は一向に好転しない。
そこだ、これからは、
「なるほど、今度はこの問題で私をまた試すのか・・・」
と想うようにしてみたらどうでしょう・・・・・。
すると、そこに目の前の問題を真正面から見据える氣構えが出来てきます。
自分に圧(の)し掛かって来る問題を、正面から受け止める心の余裕が生まれて来ます。
相撲ではないですが、右足を一歩前に出し、腰を低くして、左足をしっかり伸ばして踏ん張り、両手を大きく広げて相手をがっしり受け止める準備が出来て来ます。
相手(苦労)が大きければ大きいほど、腰にも足にも力が入り、その圧力に
「自分は、負けないぞ・・・!」
という氣構えが整います。
苦しみや苦労と云うのは、逃げながら見たらどんどん大きくなって見えます。
でも、一旦そこに踏み止まって、真正面から見据えたらそれほどでもないものです。
蕃山のように、
「来るなら来い。そっちが強いか自分が強いか、一丁試してみようじゃないか・・・!」
という氣構えで立ち向かえば、苦労の方が自分にぶち当たって、砕け散ってしまうものなのだと想います。
天は、その人に耐え切れないほどの労苦は与えないものだそうです。
あなたの目の前の問題が、圧し潰されるほど大きいとすれば、あなた自身も、その大きさを押し返すほどの大きさがあるということですから、大いに自信を持って善い訳です。
自分が、苦労に挑戦すると想ってはいけません。
苦労が、あなたに挑戦して来ているのですから、
天からの挑戦は、堂々と受けましょう。