「生命の賛歌-遊魚」1998年 151.0×247.0cm 絹本着色、金箔・墨(四曲一隻)
今や教育者として一定の地位に就いていらっしゃる中野先生は、さぞかし昔から美術は得意だったのだろうという前提で美術の道へ進んだ背景についてお聞きすると「美術は2だった(5段階中)」というあっけらかんとしたお返事で、思わず噴き出してしまいました。
高校2年生の夏頃から、友達について行き、芝田耕(1918-2010年 洋画家。後に京都精華大名誉教授)先生に油絵を習っていたそうですが、それはとりわけ美術の道に進むためというわけではなかったようです。当時高校生だった中野青年を、美術の世界へといざなったのは、受験直前のお正月に開催された第6回新日展(京都市美術館)で、東山魁夷、杉山寧、高山辰雄(いわゆる「日展三山」)の日本画を見たことがきっかけだったそうです。その時、東山魁夷の厚い絵の具の透明感のある青がきれいで、日本画の顔料のざらざらとしたきれいさが目に焼き付いたのだ、と。
多摩美の受験では、仮張り(日本画を描く間、仮に張っておくパネル状のもの)が一人ずつ用意されており、そこで初めて日本画を描いたのだそうです。オレンジのバックにキンセンカを白で描いたのだとか。中野先生は京都のご出身で、当時、日本画をやるのであれば、京都の人は京都でやるのが一般的だったそうですが、京都ではなく東京での受験を選んだのは、純粋に京都を出たかったからなのだそうです。
無事に美大に合格したものの、なかなか思うように絵が描けず、偶然、同じ高校の先輩であった森田曠平(1916-1994年 昭和-平成時代の日本画家)先生にマンツーマンで、ケント紙に色鉛筆でデッサンをして日本画の顔料と同質の質感を出すことを教わり、ようやく半年くらい経った頃、先生からも良いと言われるようになり、少しずつ自信が出てきてからは夢中になって描く事が嬉しくてたまらなくなったのだそうです。とは言え、学生時代は何を描きたいのか不安定だったため、構図・厚み・墨の滲み・光沢など、上手くいく時といかない時がはっきりと分かれていた、とかつてのご自身を振り返っていらっしゃいました。