「絵なんかで食っていけるか!!」

この表現が、私の中の大事な言葉になっている。
常に自分の内面を傷付け、
自分は価値の無い生き物だと感じさせ、
同時に自分を外の世界と結びつけていてくれる。
暑い刃だ。
物事は捉え方次第で大きく変わる。


もの心ついたときから、絵を描く事が好きで、
自分の絵が喜ばれることが凄く嬉しかった。

とにかく負けず嫌いで、
絵だけは誰にも負けてなるものかと、
小学校でも中学校でも高校でも、
常に一番美しいものを描きたいと願った。


ごく自然な流れで思った。
「自分のような、絵画バカの集まるところへ行きたい。」
2年間ではあったが、短大は美術科に進学することができた。
そこは夢のような世界だった。
堂々と、
「絵を描くのが好きだ!」
と表現できた。

高校ではバドミントン部に入っていたが、
絵はずっと描き続けていた。
入試を受ける際に説得力が無いといけないので、美術部もかけもちした。

バドミントン部に入った理由は、スポーツをしていないと自分の中に邪念が溜まっていく事を覚えたからだ。
それよりも何よりも、スポーツ部の友達が欲しかった。スポーツを通じての友達は本当に大切な存在になった。すごく楽しかった。今でも大切な存在だ。
だからこそ、当時の自分は絵を描いていることを友達に打ち明けることができなかった。
「美術部」という、
ネクラで地味なイメージを持たれたくなかった。

…なぜだ?

絵を描いている=暗い、地味、孤独…
そんなイメージが強いように思う。
特に田舎は。
もしくは現役を引退された方たちの「余暇」や、
お金持ちの「趣味」として扱われがちじゃないだろうか。
実際は違う。
創造性の教育は、0才からでも行われている。
生きる上で必要の無いことを
まだ言葉も話せない子どもにやらせたりはしないだろう。
自分の中にあるものを出す作業、
その始まりが「絵画」であり、
「創作」であり、「自己主張」だ。



「うまい」、「下手」、なんて最初から無い。
自分が、一番自分らしいと思う姿を、
この世界に生み出す作業。
誰かの真似や、
「これが正しい」という
集団心理に基づくものではない。

「こうありたい」
「こう見せたい」

という思いをのせる、
言語や、表情や、歌や、ダンスなど
と同等のツールである。
誰でも自分の内面を晒すのは恥ずかしいものだ。
だからこそ、そこに出てきたものは唯一無二で、
内面から手に思いが届き、
手から世界に放たれたとき、
それは美しく輝きだす。

誰かの心に届き、
あなたを理解して貰える。
あなたの心は私に届いたと。
あなたがあなたの心を知ることになる。

もっとたくさんの人に絵を描いて欲しいと願う。

言葉で伝えきれないものは、
他の何かで伝えよう。
思いきり描き殴って、
繊細に描きこんで、
大声で笑って、
大声で泣いて、

あなたの感情を大切にして、
この世界に出してあげよう。