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僕が人生をかけて必ず達成したいプロジェクトです。どうかあなたの力を僕に貸しては

頂けないでしょうか。

 

 

~命の恩人の天国のドナー。10年間の闘病生活を支えてくれた全ての人に僕ができる恩返し~


『自らの命を絶つことを考えている人たちの命を一人でも多く救うために。

仲間たちと命のバトン短編映画の制作プロジェクトを立ち上げたい』

初めまして。こちらのページをご覧頂きありがとうございます。

 

この広いインターネットの世界で今こちらの文章をご覧になってくださっているあなたと出会えたことに心から感謝を致します。

波乱万丈な人生の物語を歩んでいるので内容が少し長くなってしまいますが、心を込めて文章を書きますのでどうか最後までご覧いただけたら幸いです。

 

まずは僕の簡単な自己紹介からさせてください。僕の名前は岸良雄太と申します。芸名はアーティスト・キシラという名で活動をしており

 

“ひとつなぎアーティスト”という一風変わった肩書きで活動をしており人の夢の輪を広げるために人と人とをつなぐアーティスト活動を行っています。また、青ばら海賊団という夢実現コミュニティの団体の代表として活動をしています。青ばら海賊団について全て説明をすると、とても長くなってしまうので簡単にご説明をさせていただきます。

 

■青ばら海賊団の活動について

 

青ばら海賊団はもともと僕が過去の経験から自分の周りの人たちと社会に大きな恩返しをしたいと思ったのがきっかけで立ち上げた団体です。

 

具体的には

 

・夢や目標に向かって頑張っている人

・人と繋がれる環境が欲しい人

・お互いに自己成長ができる場を持ちたい人

・仲間の夢を応援したい人

・病気や障害を克服したい人

・悩みや問題を解決したい人

 

など様々な個々の目的(その全てを青ばら海賊団では”夢”と定義しています)を持つ人が集まり現在52名の仲間と個々の夢の実現を掲げて活動をしています。

 

(青ばら海賊団の大宮駅でのハロウィンイベント)

 

今回は僕がこの青ばら海賊団の仲間たちと

 

”ある短編映画”

 

を制作するプロジェクトを立ち上げたきっかけとそれに至った経緯を僕の過去の世にも奇妙な波乱万丈物語を振り返ってお話しようと思います。

 

■対人恐怖症と醜形恐怖症の大学生が大道芸人に

 

僕は東京都の板橋区に生を授かりました。小さい頃に生死をさまようような膵臓の大きな手術をし3人兄弟の中でも一番体が弱く両親や祖父母には特に大切に育てられました。

 

(祖父母の家の近くの玉川浄水で遊ぶ子供の時の僕)

 

 

中学2年生の時。僕は生まれつき両目の大きさが違う「眼瞼下垂」という病気で容姿に異常なコンプレックスがあり「醜形恐怖症」という病気を患い、自分のことを世界一醜いと思い込み自分の目や鼻や口などのパーツや髪型、全身の体形から声、性格まで全てが大嫌いでした。

 

その被害妄想が1日中毎日頭から離れずに学校のトイレで鏡に映る醜い自分の姿に絶望しよく泣いていました。その囚われから「対人恐怖症や視線恐怖症」を同時に発症し学校生活や青春時代を人並みにまともに送ることができず、友達といても全く心から楽しいと思えずにいつも孤立した存在でした。

 

家に帰っても両親は別居。家族はばらばらになり自分の居場所が学校にも家にもどこにもありませんでした。そんなどこにも希望を見出せない人生を送っていた僕だったのですが、ある日人生の転機が訪れることとなります。

 

 

■生まれて初めて見た大道芸に魅了され

僕が高校3年生の17歳の時。大学受験前の冬の夜のことでした。友達とたまたま池袋で買い物をして遊んでいました。その時に偶然池袋のサンシャイン通りの入り口付近で大道芸を披露しているパフォーマーTOYという大道芸人に出会いました。

 

(大道芸人のパフォーマーTOYさん)

 

その人は中国ごまを回したり、りんごとナイフを投げたり、パントマイムのような不思議な動きをやったり、火を吹いたりしていました。一番面白いと思ったのはお客さんとのからみで、アドリブ力が凄まじくお客さんは200人位集まっていて腹を抱えて笑ってる人や応援の声援をかけたり拍手や手拍子で盛り上がったり、

 

「おおおぉぉーーー!!!」

 

という歓声が鳴り響いたりとにかく一体感と盛り上がりがすごかったんです。僕も友達も生まれて初めての大道芸にとても感動し、面白くて時間を忘れて終電ギリギリまでTOYさんの大道芸を観ていました。

 

それから一人であれだけの大勢の人を巻き込んで自分の世界を作り出し、見ず知らずの人達をまるで1つの大きな家族のようにしてしまう。そんな大道芸人のパワーに尊敬の念を抱き、夢中で色んな大道芸のイベントに一人で足を運んだりしていました。

うまく言えませんが大道芸人の人達に今まで自分が失っていた大切な心の何かをもらった気がしたんです。

 

大学受験が終わり無事に八王子にある東京工科大学のメディア学部に合格し、第一志望だった大学にスカラシップ(奨学金特待生)入学することができました。

 

そこで趣味の大道芸観賞を通して自分も人前で何か自信を持って披露できるようになれれば対人恐怖や醜形恐怖も克服できるのではないか。と思いました。

 

そこで今まで苦手だった人前に出て何かをするという新しいことにチャレンジして長年闘ってきた病気を完治させたいと思ったんです。喋るのが苦手な自分にも何か人前で自信を持ってできることはないかと試行錯誤していた時に、ふとTOYさんがやっていたパントマイムのことを思い出しました。

 

それからパントマイムを習うために早稲田大学のパントマイムサークルであるパントマイム☆舞夢踏☆に体験に行きました。

 

(早稲田大学パントマイム☆舞夢踏☆のメンバーと指導者のハッピィ吉澤さん)

 

そしてその時の出会いがその後の僕の人生を決定付けることになるのでした。

 

そのパントマイム舞夢踏の指導者である大道芸人のハッピィ吉澤さんにその時にお会いしました。

 

ハッピィ吉澤さんと話をしていたり周りから観ているとすごい分かるのですが。うまく言えないですがすごい少年のような目の輝きがある方で周りにはハッピィ吉澤さんを慕う仲間がたくさんいてパントマイム舞夢踏は大きな家族のようでした。

 

僕は正直それまで大人があまり好きではありませんでした。基本的に大人には色々否定されながら人生を生きてきたからです。しかしハッピィ吉澤さんを見て初めてこんな大人になりたいと思ったんです。

 

こんな威厳とオーラと優しさに包まれて笑顔に溢れ、周りには家族のような自分を慕ってくれる仲間がたくさんいて。

こういうのが本当に幸せな人生なんだろうなぁと思いました。理想の人間像であり理想の自分の未来像、父親像でもありました。

 

TOYさんを観た時にも感じましたがどこかで自分は幸せな家族というものに憧れがあったのだと思います。

 

そこで自分もTOYさんやハッピィ吉澤さんのような人を惹きつけて大きな家族が作れるような人間になりたいと思い、自分に自信をつけて病気の克服をするという目的もあり将来はお二人のような一流の大道芸人になろうと心に決めました。

 

もともとカウンセラーになりたいという夢があったのでそれに近いことが大道芸でもできるのではないかとも思っていました。

大学を1年の前期で中退し無償で貰えるはずだった400万円の奨学金を全て捨て覚悟を決めました。

 

大学のあだ名をそのまま使って「大道芸人ちぇぽぱい」という芸名で大道芸人の活動を本格的に八王子でスタートしました。

 

生まれて初めて大道芸を八王子駅でやった時は本当に心臓が飛び出る位緊張して余裕が全くありませんでした。それでも大道芸をやって投げ銭を稼がないと生活ができないというサバイバルのような生活を送っていたので無理やりにでも路上に出てその場で考えた芸を勢いだけでやっていたりしました。

 

色んな駅に行き、色んな人に出会い、警察とも闘いながら投げ銭を稼ぎそれで生活していく。

 

色んな島々を冒険して色んな仲間に出会い、海軍から逃げながらお宝を見つけるどこかの漫画の主人公みたいだなとその時から思っていました。

 

当時大道芸人の大先輩であったパフォーマーCHKIさん、TOMIさん、ロボットのぞみさん、ミスターバードさんにはとてもお世話になりました。

(現在はスクール生としてお世話になっているパフォーマースクールRPG学長のロボットのぞみさん)

 

それから雑誌の取材が来たりプロのパフォーマーの事務所に登録できたり、当時売れていたモデルさんが司会のテレビ番組にゲスト出演できたり、芸としてはまだまだでしたが周りの仲間や先輩、師匠に恵まれて本当に大道芸人として順調なスタートを切る事ができました。いつの間にかあれほど悩んでいた容姿のことや対人恐怖も全く気にならなくなりました。

 

その時は本当に毎日がきらきらと宝石のように輝いていて小中高とずっと辛い毎日を送っていたので

 

「辛いこともいろいろあったけどやっと幸せになれたんだ。今まで生きて来てよかった。」

 

(大道芸人ちぇぽぱいの頃の八王子駅北口での大道芸)

 

そんな風に思っていました。しかし神様は思っていたよりもずっと残酷でした。

    

■天国から地獄へ。精神病院の閉鎖病棟の牢獄に閉じ込められた3ヶ月

 

2007年8月に本格的な大道芸人の活動をスタートしその半年後の2008年2月の冬。それまでなかなか眠れない日が続いていました。大道芸で行うショーの内容のアイディアが夜になると、どんどん溢れてきてしまい脳が休まらない状態がずっと続いていたからです。ある日僕の脳に突如以上が起こりました。何かが脳の中で弾けたように感じました。。。

 

家族全員が急遽駆けつけ僕は気がついたら救急車で緊急搬送をされていました。僕がたどり着いた場所は所沢にある精神病院の閉鎖病棟という監獄のような場所でした。

 

薬を強制的に飲まされてしばらくして病室で間が覚めました。そこは薄汚れた白色の壁のとても小さな部屋でところどころに爪で引っ掻いたような跡がありました。とても物静かな閉鎖された空間でした。

 

時計の針がカチカチと動く音だけしかしない静寂に包まれた刑務所みたいな部屋で、時おり隣の部屋かその奥の部屋からか人のわめき声が聞こえたりしました。印象的だったのが壁のような扉で、鍵で施錠されておりこちら側にはドアノブがついていませんでした。体感しないと分からないと思いますが、まるで別の星に来たようなそんな異様な閉塞感をその場所に感じたのを覚えています。

 

(精神病院閉鎖病棟の保護室)

 

部屋の中には簡易的な青いマットのベッドと剥き出しの銀色のトイレしかなく天井には監視カメラが設置されており度々警告のような事をカメラ越しに言われました。体感的には本当に「冤罪で刑務所に入れられた」とか「人体実験にあってる」という感覚でした。

 

当時思考が相当混乱していたのでそこが病院だという事が全く理解できずに、出してくれと何度も何度も頼みました。それでも帰ってくる声は一緒で

 

「岸良さんは脳内物質の異常による重度の精神病で〇〇先生の判断で3ヶ月は退院できないので今はゆっくり安静に休んでてください。」

 

何度病気じゃないと主張しても同じ言葉が返ってくるので僕はふざけるなと思いドアを思い切り蹴ったりしていました。その度に監視カメラ越しに看護師さんから警告が入りました。

 

「出してください!出してください!出してください!!」

 

何度も頼みましたが最終的に全く相手にされなくなってしまい何を言っても誰も反応しなくなりました。あまりに怒り、泣き叫び、気が狂い。ついに精魂が尽き果て、まるで魂が抜けたような骸のような状態になってしまいました。精神崩壊というのはまさにあれのことをいうのだと思います。

 

地獄では形容のできない次元の異様な状態でした。限りなく死に近い境地というのでしょうか。生きている心地が全くしませんでした。まるで戦争で捕虜になって拷問を受けているような感覚でした。

 

「昨日まであんなに楽しかったのにこれは現実なの?」

 

そんなことを監獄の異常に長い1日の間ずっと思っていました。途中家族が見舞いにきたようですがその後の10日間のことは正直記憶に全くありません。

 

母にあとで聞きましたがその時に母は人ではなく亡霊のようになった僕を見て

 

「これはもう一生ダメかもしれない・・・。」

 

と覚悟をしたらしいです。

 

10日後。医師から保護室からの解放の許可が出て他の患者さんがいる大部屋へと移動が決まりました。大部屋に移動した時に優しい看護師さんが僕にこう言ってきました。

 

「お菓子でも食べる?」

 

母が差し入れに買ってくれたものでした。

 

僕はその時に全く言葉を話せなくなっていてありがとうと言えませんでしたが、涙を流すような感情もなく、ただただその看護師さんにもらったポッキーを廃人のようになってポリポリと小刻みに食べていました。

 

あのポッキーより美味しいものは後にも先にも一生出てこないと思います。

 

入院中のリハビリ生活

大部屋に移動していろんな患者さんに会いました。何を言ってるのか分からないけど一日中ブツブツ言っている人。看護師さんと乱闘をして取り押さえられ保護室に入れられる人。

 

奇声をあげて走り回っている人。迷惑そうにそれを見ているお年寄りの人たち。なんだか「不思議の国のアリス」の世界に紛れ込んだような気がしました。

 

入院してきた理由も人それぞれで、自殺をしようと思って車で川に突っ込んだ人。暴動で警察のお世話になって入院した人。オーバードーズという精神安定剤を一気に服用し意識を失って入院した人。本当にいろんな人がいました。

 

当の僕はというと言葉も話せないしうまく食事もできないし眠れないし頭が回らなし記憶も曖昧だし、自分が誰なのかも分からないといった感じで、

 

今まで培ってきた学習能力・運動能力・体力・集中力・コミュニケーション能力など全ての日常生活の能力が20%以下位に低下していて簡単な会話や計算や文字の読み書きすらできなくなっていました。自分でも驚きましたが当時は「あ」と「う」位しか言葉を発することができませんでした。

 

それから病院で簡単な計算問題を解く練習や文字を書く練習。作業療法士さんが持ったひらがなを読む練習。パズルや塗り絵などいろんなリハビリをしました。リハビリを行い少しずつですが状態が回復してきて文字が読めるようになったので母に病院に漫画のワンピースの新刊を持ってきてもらうようにお願いしました。

 

ワンピースは僕は小学生の頃からずっと大好きで欠かさず単行本を読んでいました。ワンピースを読むことが僕の人生の生きがいのようなものでした。作者の尾田栄一郎先生は今も昔も僕の神様です。

 

  

(尾田栄一郎先生原作の漫画ワンピース)

 

閉鎖病棟での入院生活は暇で暇で仕方なく、僕はノートにもし自分がワンピースのルフィのような海賊団の船長だったらどのような海賊旗を作るかなと思って空想上の海賊団の海賊旗のデザインをノートに書いていました。看護師さんや他の患者さんが

 

「何それ~~??また妄想で変なの書いてるの?」

 

と面白がってそのノートをのぞきにきたりしました。

(精神病院閉鎖病棟で描いてた青いばらの海賊旗)

 

3ヶ月半僕はその病院に入院して最後の日、僕はたくさんの看護師さんに笑顔で見送られて退院する事ができました。

 

■4年間のリハビリ生活

僕の病名は統合失調症(双極性障害を含む)という病気で退院してからは陰性症状という何もやる気が出なかったり頭が回らなく寝たっきりというような毎日が続いていました。

 

本当はこんな身体じゃろくな活動ができないから大道芸人の活動もやめてしまおうかとすごく悩みました。しかし、病気が治るのを信じてもう少し頑張ってみようと思い、それから1年後くらいに病状が少し回復して運動ができるようになってから再び大道芸人として路上に立つ事を決めました。

 

何度もパニックの発作で倒れそうになったり病状からくる恐怖心で大道芸をやるのが怖くて怖くて仕方なかった時もたくさんありましたがお客さんからの温かい拍手や

 

「ありがとう」

 

という言葉に支えられ笑顔を観ていると本当に自分の生きている存在価値をいうものを感じる事ができました。時には涙を流しながら僕の芸を見てくれる人もいました。

 

大道芸は僕の生きがいでした。

 

ある日八王子の大道芸が終わったあとホームページを観ていると1通のメールが一人の女性から届いていました。

その文章はとても短くこんな事が書いてありました。

 

「死のうと思った。でもやめた。あなたの踊りを観たから。」

 

こんな自分でも何か世の中の役に立てるのだなと思うと涙が止まりませんでした。どんなに辛くても苦しくても大道芸の活動は続けようとその時に誓いました。

 

(大道芸のパントマイムの演目 "ハナビトと町娘")

 

そしてその後4年間服薬とデイケアの作業療法を中心にリハビリの治療を行いなんとか日常生活が送れるレベルまで回復をすることができました。当時22歳で今度こそ本格始動ができるように大道芸人の活動を頑張っていこうと思い芸名を「大道芸人ちぇぽぱい」から

 

アーティスト・キシラ」

 

に改名して再スタートをしていく事を決心しました。この後普通の映画とかドラマなら逆転の成功ストーリーが描かれるのでしょうが。予想すらしなかったさらなる地獄が僕を待ち構えているのでした。

 

■両眼の難病を患い死の淵へ立たされる。安楽死を求めて。

 

2回目の閉鎖病棟に入院している時に視力の不調を感じ特別に外出の許可がおり眼科で受診をしてきました。

その時に眼科医が神妙な顔をして

 

「円錐角膜」ですね。と僕に言いました。

 

聞きなれない病名だったのでことの重大さが分かっていなかったのですが、思っていたより病状が重く円錐角膜とは難病指定もされている眼の黒目の部分が飛び出してきてしまう病気で最悪の場合表面の角膜が破裂してしまったり角膜移植が必要になるという風に医師から伝えられました。

 

(角膜が突出してくる円錐角膜の症例)


それから2ヶ月も立たないうちにどんどん病状が悪化してしまい夜に月をみると月が100個くらいに分裂するように見えて夜の街灯は花火のようでした。その1つ1つの光が眼に突き刺さり悶え苦しむような苦痛でした。

 

鏡を見ると目が突き出して飛び出しているのが見てわかりました。

昼間街中を歩いていても万華鏡のようなめちゃくちゃな見え方になりうまく歩く事もできませんでした。当時はずっと足元を見ながら歩いていました。

 

さらに、異常な不正乱視からくるズキズキと頭痛がするくらいの眼精疲労や高熱の風邪をひいたような全身疲労。目の奥からぎゅーっと締め付けられるような鈍痛がひどくそのような状態が毎日途切れることなく何年も続きました。

 

これ以上の苦しみがあるのかというくらいの毎日が苦痛と疲労に耐えるだけの闘いでした。街中を普通に歩いている人が羨ましく、何をしている時も一切楽な時がない。娯楽なども一切楽しめない。どんなに美味しいご飯を食べても美味しくない。周囲も理解の仕様がないので周りには無理やり笑顔を作り平然を装っていました。

 

空が綺麗に晴れている時も毎日雨が降っているようでした。終わりの無い雨。青い空がいつまでも灰色にしか見えませんでした。この平和な日本で一人だけ戦争の時代に生まれたような感覚。普通になりたい。普通になりたい。普通の人間になるのが憧れであり夢でした。

 

毎日ただ生きるのに必死な闘いでした。何をやっても終わりのない地獄。

 

人との交流もどんどんなくなり孤立していき、数え切れない位たくさんの大切なものを障害のせいで失いました。

治療方が確立されていなく一生この奈落の底のような生活を送るしかない。そんな暗闇の沼に放り出されたような人生の中で、電車を見ては。川を見ては。死ぬ事ばかりを望む毎日をそれから4年もの間過ごしました。藁にもすがる思いで病院を転々とし名医を探しました。

 

その間に高額の人口のレンズを眼の中に入れる手術や角膜の表面を薬で固める手術をしたり円錐角膜の最新の治療方と言われている人口のリングを眼に挿入する手術を10回近くいろんな病院を転々として行っていました。何をやっても改善せず眼を切開しレンズを何回も入れたり外したりを繰り返していました。

 

(右眼に入っているフェイキックIOL。)

(左眼に挿入していた角膜リング)

 

どこの病院に行っても

 

「やれる事はやっている。他に治療法はないので後は耐えるしかない。」

 

という風に言われていました。医者でも無理なのだから誰も助けてくれないことは分かっていました。周りで支えてくれる家族や仲間のおかげでなんとか持ちこたえていました。しかし、それから4年がたった時についにこれ以上生きることに限界を感じました。

 

精神的なものではなく物理的な体へのダメージにもうこれ以上耐えることは不可能だと感じたのです。ここまで人生を頑張って生きてきたのだから最期は自分には楽に死ねる権利があると思いました。

 

「ディグニタス」

 

という安楽死の制度がスイスにはあることを知りました。望むのであればお金を払えばスイスで安楽死を受ける事ができる制度です。安楽死に関する情報を集めて調べ母親に安楽死について本気で考えている事を伝えました。

 

母は、「ゆうたが死ぬのならお母さんも一緒に死んであげる」

 

と僕に言いました。

 

人生生きていればいい事があるとか。止まない雨はないとか。そんなのは綺麗事で全部嘘だと思いました。人生はただただ残酷で無慈悲。神様なんていない。そう思うしかありませんでした。

 

■絶望と死の淵に出会った名医と命を救ってくれた天国のドナー

1日でも早く楽になるために安楽死についての情報を本気で集めていた頃、K病院に手術後の経過診察を受け行きました。世界的にも角膜移植の権威である医師のS先生とそのK病院で出会いました。その先生は

 

「良くなる可能性は低いしダメかもしれないけど安楽死よりはいいから移植やってみようか?リスクが高いから私以外の医師は執刀やりたがらないと思うから私が執刀するよ。」

 

S先生はそうおっしゃって下さりました。僕にはその先生が神様のように思えました。

 

2015年7月。アイバンクに登録してから1年少し亡くなった方の角膜の提供を待ってK病院で角膜移植の手術を受けました。僕はかすかな可能性をただただ信じるしかありませんでした。


移植手術なんて人生で受けることになるとは思っていなく手術台の上では恐怖と不安との闘いでしたが必ず大丈夫と今までたくさんの人たちに応援の声をもらっていたので彼らの言葉を僕はひたすら信じていました。病室に戻って鏡をみると少し濁りがかった亡くなったドナーの方の角膜が自分の左目に綺麗に糸で縫合をされていました。

 

(角膜移植後の角膜の症例)

 

亡くなった方の角膜の細胞が自分の眼の中で生き続けているというのはとても不思議な感覚でした。僕がこれからの人生の中で見る世界は自分だけのものじゃないとその時に深く心に刻みました。

 

同じ時期に大好きだった祖父が胃癌で亡くなりましたが祖父は亡くなる直前まで自分の癌のことより僕の移植手術の成功を祈ってくれていました。

(移植手術が終わった直後に駆けつけた祖父の病院での83歳の誕生日パーティー。亡くなる直前まで自分の命よりも僕の移植手術の成功を天に祈っていてくれた偉大な祖父です。今も僕の心の中で生き続けています。)

 

祖父の命に換えた願いが天に届いたのでしょう。角膜移植手術は無事に成功しました。それから2年の歳月が経ちました。

 

■病を乗り越えて。アーティストとして僕にできること

 

本当に多くの人達に支えられて僕はまた生に生きがいを感じて毎日を過ごせるようになりました。

正直今でも統合失調症や眼の症状のことで生活の中で大変なことはありますし普通の人にはできて自分にはできないこともたくさんあり、悔しいと思う時もたくさんあります。

 

しかし、一番目標にしていた仲間と再び普通に笑顔で話せるようになるという長年ずっと叶わなかった夢にまで見ていた

「普通の日常の生活」その夢を僕は達成する事ができました。これ以上僕にとって幸せなことはないと思います。今まで助けてくれた家族や仲間。数え切れない多くの人たちに助けられて僕は命を救ってもらいました。その人たちにできる恩返し。

 

「天国のドナーや祖父にも届けられるような僕ができる大きな恩返しは何か?」

 

と長い時間考えました。そして辿り着いた答えが、僕が受け取ったその命のバトンを人生をかけて今命の灯火が消えそうになっている人たちに繋いでいく。天国までその活動が届くような大きな影響力を持ったアーティストとしての社会福祉への貢献。それが今後のアーティスト・キシラ・青ばら海賊団の団体としての活動です。

 

世界自ら命を絶とうとしている人たちを感動の力で救える今までにない全く新しい形の映像作品を制作したい〜

    青ばら海賊団の仲間たちと作る

 「命のバトン短編映画」制作プロジェクト

 

■それぞれの夢を持つ海賊団の仲間と一緒に行う映像制作プロジェクトで社会福祉に貢献をしたい

今の自分があるのは本当に周りの人たちと社会のおかげです。周りで誰も助けてくれる人がいなかったら僕は今生きていないと思います。だから、残りの人生で僕に課された使命は

 

「人の命が救える位の大きな影響力のある世界の社会福祉に大きく貢献できるアーティスト活動」

 

を行っていくことです。2017年9月から早速行動に移し、まずはすぐにでもできることからやろうと思い最初は自分の身の周りの何かに困っている人を助けられることがしたいと思いました。

 

僕一人が全て解決するのは無理なので皆が一つになって困っていることを相談したり、お互いの足りないところを補い合う、

漫画ワンピースの麦わら海賊団みたいに1つの大きな家族のようなお互いが助け合えるチームがあったらいいなと思いました。

 

そこで過去に精神病院で入院中に描いていた漫画ワンピースをモチーフにしたあの青いばらの海賊旗のことを思い出しました。

あの時はただの統合失調症の患者の妄想の世界の中の空想の海賊旗だったのですが、その妄想を実現化したらとても面白いことになるかもしれない。と思いました。


仲間みんなの夢を叶えてあげたいという意味で

 

「奇跡」「夢叶う」という花言葉の意味がある

 

青いばら

 

と世界の社会福祉に貢献するを意を込めてアースカラーを基調とし青十字を掲げた

 

「青ばら海賊団」


という夢の実現と社会福祉をテーマにした団体を立ち上げました。

 

■青ばら海賊団の仲間達と短編映画制作のプロジェクトを立ち上げた経緯

 

青ばら海賊団は2017年の9月に旗揚げをして僕の理念に共感してくれ、それぞれの夢や目標・問題解決の実現を目指している54名のメンバーが現在集まってくれています。

 

現在青ばら海賊団のメンバーは老若男女、障がい者も健常者も、年齢も職業も関係なくたくさんの人がチームに集まってくれました。

 

大道芸人・マジシャン・ジャグラー・ヨーヨーパフォーマー・パントマイマー・女優・コスプレタレント・音楽アーティスト・声優・占い師・美文字講師・詩人・似顔絵師、研究員、個人事業主、経営者・アクセサリー販売・投資家・公務員・シェアハウスオーナー・ブロガー・お笑い芸人・営業マン・プロデューサー・マーケッター・経営コンサルタント・音楽クリエイター、映像クリエイター・サラリーマン・アパレル店員・清掃員・フリーター・障がい者の方達・主婦・大学生・高校生・中学生・小学生

 

青ばら海賊団の活動としてこの3か月でラジオ番組に出演したり、インターネットTV番組に出演するなどメディアでの活動の幅も広げることができました。

 

個々の夢の実現を掲げているコミュニティではありますが青ばら海賊団の全体の理念は世界の社会福祉への貢献です。ですので今回青ばら海賊団のメンバーとミーティングを行い団体全体が1つとなり社会福祉に大きく貢献できる最初のプロジェクトを立ち上げることになりました。

 

それが障がい者・音楽アーティスト・大道芸パフォーマー・その他の多種多様なジャンルのアーティスト、専門スキルを持ったメンバー・ファンや一般の方達も1つになって行う

 

「命のバトン短編映画」

 

の制作プロジェクトです。

 

(青ばら海賊団のメンバーで行った決起会)

 


障害者のメンバー達が描く『シナリオ』・音楽アーティストの『音楽』・大道芸人のパフォーマーの『パフォーマンス』・一般の参加者を巻き込んで行う『フラッシュモブ』

    今までになかった全く新しい形の短編映画作品

 

今回のプロジェクトでは動画配信サイトYouTubeに公開ができる4分間程の短編映画を2018年4月の公開に向けて制作をしていきます。その後国内外の映画・映像コンクールに出典予定です。

 

世界中の病や障害を抱えている方、自らの命を絶とうとしている方たちに僕らの制作した映画作品が何かのきっかけとなり命をつなぐ力になりたいという想いを込めて

 

『命のバトン』

 

というタイトルの短編映画作品を制作することに決めました。どうせ映画作りをするのなら今までなかったような影響力や話題性のある作品を制作しなければ感動で人の命を救うことなどできないと思い

 

○障がい者のメンバーが描くシナリオ

○メジャーデビューを目指す音楽アーティストさんの音楽

○プロの大道芸人たちが行うパフォーマンス

○メンバーの全員の得意なスキルを活かした演出

○一般の人たちも参加して行うフラッシュモブ

 

これらの要素を全て詰め込んだ総合エンターテイメント型のストーリーと強いメッセージ性のある短編映画作品を制作していきます。

 

■”命のバトン短編映画”の具体的な構成

 

今回青ばら海賊団のメンバーのメジャーデビューを目指している鈴木彩香さんという音楽アーティストさんが短編映画の主題歌の作詞・作曲と歌唱を行ってくれます。今回のプロジェクトの目標の一つのに鈴木彩香さんのメジャーデビューするという夢をみんなで応援しようというものがあります。

 

僕も彩香さんの歌にはとても共鳴する部分があり彼女の歌の力は人の命を救えると思って今回映画内の主題歌をお願いしました。彩香さん自身も過去に病気を患いその病を乗り越えて現在歌の力で過去の自分と同じような境遇にある人たちにエールを送るためにライブや路上で積極的に活動をされています。

 

【青ばら海賊団 音楽アーティストの鈴木彩香さん音楽PV】

 

映画内のパフォーマンスの演出はメンバーの中で大宮駅をメインに活動をしている片腕のマジシャンHAKU君・マジシャンNOA君を中心とした大道芸人パフォーマーが行い映画の中にマジック・ダンス・パントマイム・ジャグリングなどのパフォーマンス要素も取り入れます。

 

【青ばら海賊団 大道芸人パフォーマーPV】

 

その他の専門スキルを持ったアーティストさんや得意分野がある人たちの要素もどんどん映画に取り入れ全員が主役になって映画制作を行っていきたいと考えています。

 

そして一般の方も参加できるフラッシュモブのシーンも映画のワンシーンに取り入れます。またあまり映画に出演して参加できる自信がないという一般の方たちにはブログやSNSでの発信で映画制作に携わっていただけたらと思っています。ブログやSNSでの発信も重要な映画制作の一部なのでそう言った意味でも、どなたでもご参加ができる映画制作プロジェクトとなっています。

 

映画のシナリオは僕と同じ統合失調症を患いながら日々の生活を送っているメンバーを中心に制作をしていきます。個々の役割を分担し青ばら海賊団全員で一人一人が主役となり作りあげていくのが今回の映画制作プロジェクトです。

 

テーマは

 

「世界中の病気や障害に苦しんで自らの命を絶とうとしている人たちの命が救えるような大きな影響力のある短編映画作品」

 

です。そんな映画制作メンバー全員の魂と命が宿った作品を制作していけたらと思います。

 

■”命のバトン短編映画”の具体的な内容

 

決定事項ではなくあくまで僕が考えた一つの原案ですが、このようなストーリーの構成が今のところ上がってきています。


 

ずっと外の世界を見れないまま入院生活を送っている重い病気を患った少年がいました。

夜病室で少年が寝ているところに魔法使いが現れて魔法の本をプレゼントします。

少年は驚きましたが病室を見渡すとその魔法使いはどこにもいません。

 

眠い目をこすりながら少年がその本をめくると本の世界が現れ、

 

1ページ目には音楽隊が彼のために歌をプレゼントしてくれます。

2ページ目には彼が元気になった姿の似顔絵とメッセージの詩が書かれています。

3ページ目をめくると今度は彼と同じような病気や障害をもった人たちが華麗なダンスを彼に見せてくれます。

 

そして最後の4ページ目をめくると、彼は気がついたら外の世界にいました。よくわからないまま街を歩いているとさっきの魔法使いがそこに立っていました。彼は魔法使いに1つお願いごとをしました。

 

「魔法を僕に見せて」

 

魔法使いが杖をふると街中の歩いている人が全て時が止まったように静止します。また杖を降るとまた何事もなかったかのように歩き出します。もう一度杖を降ると音楽が鳴り始めてサーカスのようなショーが次々と彼の前で繰り広げられていきます。

 

感動に包まれた少年の目には涙が溢れていました。少年が目を覚ますとそこは手術台の上でした。手術は無事成功し彼の病気は完治していました。

 

手術着を着た医師たちの顔をよく見るとそれはさっき絵本の世界でサーカスのショーを見せてくれた人たちで

 

「おめでとう」と笑顔で全員が少年の顔を見つめていました。

 

マスクで覆われていて顔がよく分からない執刀医と思われる医師が杖のような長いメスをもって少年にこう言いました。

 

 

 

 

 

「僕の魔法はどうだった?」

 

 

 

 

~今回のクラウドファンディングに込められた思い~

『命のバトン短編映画』をあなたと一緒に作りたい。世界中の一人でも多くの人たちの命をつなぐために他でもないあなたの力を貸してはいただけないでしょうか?

このプロジェクトに対して僕は本当に人生をかけています。僕が生まれて初めて大道芸人の芸を路上で見た時。感動は人の命を救うことができると確信をしました。

 

僕も、今の青ばら海賊団のメンバーももちろん全力を尽くし一切妥協のないクオリティの短編映画を制作する強い志があります。

しかし今回のプロジェクトは世界中の一人でも多くの人の命を救うという大きなミッションがあります。

 

ですので今の僕たちには同じ志を持つたくさんのより多くの仲間が必要です。

 

今回、日本全国から短編映画製作のプロジェクトメンバーも同時にクラウドファンディングの方で募らせていただきたいと思いReady for様のクラウドファンディングにご協力をいただきました。

 

そこで今回のプロジェクトにご支援をしてくださった方たちを短編映画製作プロジェクトメンバーやフラッシュモブのシーンなどで映画出演者としてご招待させて頂くリターンもご用意しました。あまり金銭的に余裕が無い方たちでも参加ができるように金額の方は低額に設定させていただきました。

 

具体的には全国の今回のプロジェクトに携わるメンバーがライングループやスカイプでのオンライン会議で繋がり映像製作のプロジェクトの進行を全員で共有しあってプロジェクトメンバー全員で意見やアイデアを出し合って製作をしていきたいと考えています。

 

誰が脇役でも無いプロジェクト参加メンバーが全員が主役となって前代未聞の話題性や影響力のあるクオリティーの高い映像作品をこれから募集する日本全国の新しいメンバーも含めて皆で一緒になって製作していきたいというのが僕の想いです。

 

そして今回の映像製作プロジェクトで関係が終わるのではなく今後の人生を一生共に助け合い支え合える。そんな大きな家族を短編映画製作のプロジェクトを通して作っていけたらいいなというのが今回僕がこのプロジェクトを立ち上げた大きな理由の一つです。

是非今回のプロジェクトのご縁がきっかけであなたの人生にも大きなプラスの変化を与えられる力になれたら”ひとつなぎアーティスト”としてとても幸せに思います。

 

今この文章をご覧になって下さっているあなたと一緒にその魂と命の宿った映画をこれから作り上げたいと心から思っています。

ここまでの長い文章を最後までご覧いただきありがとうござました。

 

心から感謝致します。

 

 

プロジェクト応援ページはこちら↓↓

 

https://readyfor.jp/projects/artistkishira

 

ご支援よろしくお願い致します!!

 

 第1章 ~不思議の国への入国~ 

          

 

 

初めまして。こちらのページをご覧いただきありがとうございます。ひとつなぎアーティストという少し変わった活動をしている

 

 

アーティスト・キシラと申します。

 

 

 

今回は今までの僕が経験してきた摩訶不思議な波乱万丈人生を、1つの物語にしてみたいと思い投稿をさせていただきました。

 

 

自分の人生を振り返ってみて色々と書きたいことがあるのですが一度に書いてしまうとわけのわからないことになるので、今回は僕が精神病院の閉鎖病棟というこの世の終わりのような場所で過ごした体験談を

 

 

 

リアルに書くと闇が深すぎて全く笑えない文章になってしまうので、笑

できるだけ面白おかしく書いていけたらと思っています。

 

 

 

 

天国から地獄へ・・ある大道芸人の悲劇。

 

 

 

僕は10年間近く大道芸人として活動を行ってきました。

 

 

大道芸人になろうと思ったのは17歳の時にたまたま池袋の街中で観た大道芸にとても感銘を受けたのがきっかけでした。

 

 

18歳の大学1年生の時に将来は一流の大道芸人になろうと決意し、奨学金特待生で合格できた大学を1年の前期で中退し本格的に大道芸人の活動を八王子駅でスタートしました。

 

 

              

 

大道芸人のイメージとして、もしかしたらボールやクラブを投げたりだとか玉乗りをするサーカスのピエロを想像するかもしれませんがひとえに大道芸と言っても多種多様な芸のスタイルがあります。

 

 

 

 

 

僕が最初に始めたのは「パントマイム」というものでした。人前で話すのが苦手だったので、しゃべらないでもいいパントマイムの大道芸人として活動をスタートしました。パントマイムというと

 

「見えない壁」を想像するかもしれませんが。

 

 

 

そう。それです。

 

 

 

当時大学のあだ名をそのまま使い

 

 

 

「大道芸人ちぇぽぱい」

 

 

 

という名前で活動をしていたのですがアルバイトなどは一切していなかったのでその日の芸で稼いだお客さんからの投げ銭で生活費をまかなうようなサバイバルな生活をしていました。

 

 

 

「大道芸人ってどれくらい稼げるの?」

 

 

 

と今まで数え切れないくらいの人たちに聞かれるのですが、どんだけ皆金にがめついてるんだよと思いつつも多分気になるところだと思うのでここで公開しておきたいと思います。

 

 

具体的な金額は生々しいので答えられませんが

芸を見てくれるお客さんの中には、1万円を払う人も中にはいます。またタイミングがいいと千円札がポンポン入る時もあります。

 

 

しかし、もちろん自分の芸がつまらなかったり客層や場所やタイミングが悪いと全然投げ銭も入らなく小銭だらけの日や紺色の国家権力集団様の指導が入り1回もショーができずに0円の稼ぎのまま帰る時もたくさんありました。

 

 

     

    (国家権力集団召喚の瞬間)

 

 

 

 

 

八王子駅の交番には、

 

 

 

「もう二度とこの場所で大道芸を行わないと誓います。」

 

 

という僕の指印が押された反省文が20枚くらい今もあると思います。

 

 

また夏や冬場などの気温や天気によっても活動が左右されるので決して安定した職業ではありません。

 

 

最初の頃はめちゃくちゃ緊張して全く余裕がなく芸もいっぱいいっぱいでしたが少しずつ回数をこなすごとに慣れてきてお客さんもたくさん集めて盛り上げることもできるようになってきました。 

 

 

 

        

       (八王子駅北口の大道芸)

 

 

 

 

パフォーマーのプロの事務所のオーディションに合格できたり当時人気があったモデルさんのテレビ番組にゲスト出演もできるようになりました。応援してくれるたくさんのファンもでき本当に順調なスタートができました。

 

 

 

しかし、そんなある日僕の脳に異変が起こります。

 

 

 

 

 

一夜にして人格が崩壊。精神病院の監獄へ

 

 

僕は芸に対する思いが人一倍強く自分のショーで人の人生が変えられるくらいのことがしたいと思い毎日毎日芸のことばかり考えて練習も深夜までぶっ通しで行っていたりしました。

 

夜もアイディアが湧き始めると止まらなくなってしまい頭が情報で溢れてしまい眠れない日々が続いていました。

 

そんな日々が続いていてある日の朝

 

 

何かが自分の脳の中ではじけたような気がしました。

 

 

脳が壊れた音とでも言うのでしょうか。

 

 

思考回路がめちゃくちゃになり自分の中には3つの人格がいると思い始めたんです。

 

 

一人は普段の穏やかな性格の自分。

 

もう一人は頭がキレる頭脳派の自分。

 

3人目は猟奇的な殺気を持った自分。

 

 

そのような妄想が頭の中から離れなくなりそれから10人くらいの人格が入ったり出たりを繰り返していました。

 

 

時には芸能人、時にはスポーツ選手、時には老人、子供。笑ったり、怒ったり、泣いたり。

 

 

本当にめちゃくちゃな状態になり家族が皆駆けつけてくれて最終的に母親が救急車を呼んでくれて僕は所沢の精神病院の閉鎖病棟に緊急搬送されました。

 

 

医師の診察を受けた時に僕はほとんど意識がなく今でも記憶がほとんどないのですが

 

 

「医療保護入院」

 

 

という指示がその時に出されました。

 

 

医療保護入院とは精神病患者の中でも特に重症な患者に出される措置で本人の意思に関係なく医師の権限で長期の強制入院を強いられるものです。

 

 

 

 

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

何時間経った後かわかりませんが僕はある病室で目が覚めました。

 

 

 

 

 

 

 

とても狭い小さな部屋でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

爪痕がたくさん付いている真っ白い壁の部屋で中にはむき出しのトイレと簡易的な青いマットのベッドが置いてあるだけでした。とても静かな場所で外界と完全に隔離された閉鎖された空間でした。

 

 

 

 

「なんで僕は刑務所にいるの???」

 

 

 

僕にはそう思うしかありませんでした。

 

 

 

 

 

 

 

第2章 ~開かずの扉~ へ続く。

 

〜統合失調症と僕と大道芸〜 ものがたり第3話 「1+1=?」

 

 

 

 

中学1年生の後期のある日の数学の授業で僕の頭の中に異変が起こりました。

 

その日の授業で

 

マイナス÷マイナスという問題の解き方を授業で習いました。

 

 

今までの授業で

 

マイナス+マイナス

 

とか、

 

 

マイナス×マイナス

 

 

まではなんとか理解することができました。

 

 

しかし、

 

マイナス÷マイナスになった瞬間に僕の頭の中に

 

 

「マイナスをマイナスで割るってどういうこと??」

 

 

という疑問が頭に浮かんでそれが離れなくなりました。

 

 

本当に1日中そのことを考えるようになってしまい、

 

 

何をしても楽しくない。数学の先生は

 

「マイナスとマイナスで打ち消されてプラスになるからその数値を割ればいい」

 

というような解き方の方法は教えてくれたけどそれがなぜそうなるかは教えてくれませんでした。

 

周りの同じクラスの友達はそれに全く疑問を持たずに教わった通りにただ機械的に答えを

出しているという感じでした。

 

僕はなぜ自分だけがこんなにどうでもいいことに一日中頭を悩ませなければいけないのか

意味がわかりませんでしたが、

 

 

忘れようとしてもどうしてもその疑問が頭から離れずに1週間くらいその状態が続いた

頃にさらに僕の頭は異常になりました。

 

 

マイナス÷マイナスをひたすら追求して考えて行った結果最終的に

 

 

 

「1+1=なんで2なの?」

 

 

ということまで分からなくなってしまったんです。

 

もちろん1+1が2なのは僕も当然わかりますが、

 

 

それがなぜというのが当時の僕には分からなくなっていました。

 

 

普通の人には理解が不能だとは思いますがその時は

 

 

1はなぜ1なのか?

 

というもはや哲学の域に入る疑問が頭を埋め尽くして行きました。

 

 

しかしもっと辛かったのがその後でした。

 

 

眼に映るもの全てに疑問符?が浮かぶようになってしまったのです。

 

 

パソコンを見ると

 

「インターネットってどういう仕組みでできてるの?」

 

信号を見ると

 

「なんで信号って3色なの?」

 

ありを見ると

 

「なんでこんな小さい体なのに生きてるの?」

 

 

視界に入る物体全てに赤文字の太いマークが浮かんでいるような状態でした。

 

 

家に帰ると母にその疑問について質問攻めにしていました。

 

 

母もさすがに嫌気がさしたようでよくそのことで喧嘩をしていました。

 

 

あまりにもその疑問が頭から離れないのが辛すぎてよく家で泣いていたのを

覚えています。

 

 

最終的に見かねた母が連れて行ったのが精神科の病院でした。

 

 

その時に思ったのが

 

 

「自分は普通の人間じゃないんだ。頭がおかしい人間なんだ。」

 

 

ということでした。学校では決して弱い自分を見せなかったのでそのことに気づいてる

友達はいませんでした。勉強も次第に手につかなくなり母と色んな病院を転々としました。

 

一人の医師がこんなことを言っていたのを覚えています。

 

 

「ゆうた君が思っているその疑問はとても素晴らしい才能なんだよ。

 

普通の人が考えないような疑問を持つことはすごい才能出し、

 

あのエジソンも実は1+1が分からなくて悩んでたんだ。」

 

 

ああ、そうなのか僕には他の人にはない才能があるんだ!将来はエジソンみたいな

発明家になれるんだなぁ♫

 

 

とは1ミリも思えず。毎日頭の中が割れるような思いでした。

 

 

精神安定剤を飲むたびに薬たちから

 

「お前は頭がおかしいんだ。」

 

 

と言われているような感じでしたね。

 

 

・・・そしてこの後さらなる試練が僕を待ち構えているのでした。

 

 

 

 

ちなみに今、

 

具志堅用高+具志堅用高=なんなのか考えていますが答えがわかりません。

 

答えがわかる人是非教えてください。

 

 

 

 

 

中学校の入学式の日

 

「これから僕の本当に楽しい新しい人生がはじまるんだ!」

 

とわくわくしながら目を輝かせて入学式の日を迎えました。

 

僕が入学した埼玉県の私立

 

「栄東中学校」

 

は埼玉県では進学校として有名で勉強の方はかなりスパルタ教育といった感じでした。(ちなみに今年甲子園で優勝した花咲徳栄高校の兄弟校でした。)

 

僕のクラスの1組は私立ということもあり周りの同級生は僕にはお嬢様、おぼっちゃまのような感じに見えました。

 

とてもまじめな印象があり、

 

小学生のときに相当な悪いことをしてる同級生が周りにいて僕もたまに一緒になって便乗犯になってたので僕にとっては少し刺激が足りない感じがしました。

 

部活はサッカーを小学生の頃にずっとやってきたのでサッカー部に入ることにしました。サッカー部の同級生は話が合うような友達もできて一緒にいろんな悪さをしましたね。

 

落書き、酒タバコ、消化器をばらまく、ホースで放水し廊下を水浸しにする。

 

学校の車をサッカーボールで破壊

 

 

 

(これひどいですがもう時効です。笑)

 

 

 

あげたらきりがないですが汗。

 

中学で意気投合した悪友たちとはほんとに色んな悪さをして先生に怒られてばかりいて、

 

それを面白がる人たちもたくさんいたのでどっちかというとクラスの人気者とか問題児タイプのグループにいたと思うのですが、まじめに勉強をしたい友達やその親からは

 

「きしらと〇〇には関わらないほうがいい」

 

とか

 

「きしら君と〇〇君とは遊んじゃいけません!」

 

 

 

みたいなことをどうやらお母様方たちに言われていたようです。笑

 

当時はあまり気にしていませんでしたが。やはり中学に入ってもある種の孤独感みたいなのは少し感じていましたね。

 

 

まぁこう書くと結構充実した中学校生活に思えるかもしれませんが、本当に心から楽しかった中学校の思い出は中学1年生の前期くらいだと思います。

 

再びこのあと病魔に楽園から地獄へと突き落とされることになるのでした・・・。

 

 

〜海賊王物語〜第三話へと続く

 

”『統合失調症体験物語』〜統合失調症と僕と大道芸〜”

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●はじめに

僕は19歳の頃に初めて統合失調症を患いその後2回再発を繰り返し、
精神科の閉鎖病棟には6回位入院を繰り返していました。

今までの人生を振り返って、

今まで僕が体験してきた統合失調症の闘病記録、また統合失調症になる前の自分について振り返って物語形式の連載ブログで文章を書いてみたいと思います。

どういう人間がどういう環境で育ったら統合失調症になってしまうのかという参考になるかもしれないので是非ご覧になってみてください。

 

 

●第1話  ~どうして自分だけ・・・?~

 

僕は東京都の板橋区中台に生まれました。
その中でもサンシティーという緑がとても多い東京の中でも自然に囲まれた街で幼少期を過ごしました。

サッカーとゲームがとても好きな子供で習い事をたくさんやっていて、

 

サッカー、そろばん、空手、書道、プール、塾。ほぼ一週間まるごと習い事みたいな感じで子供の頃の方が今より忙しかったかもしれませんね笑。

外でよく遊ぶ活発な子供ではありましたが、性格は小さい頃からとても人見知りで内気で人と話すことがすごく苦手で友達ともうまく会話もできないような子供でした。

人といると常に落ち着かなかったり緊張してしまうような感じだったんです。

赤ちゃんの頃に大きな腎臓の手術を受けたくらいで小学生低学年くらいまではそういった内気な子供ではありましたが、

ある程度周りの同級生と同じように普通に生活が送れていました。

しかし小学4年生位の頃に同じ学年の友達とのトラブルがきっかけで対人恐怖症の症状が現れるようになり、以前に比べてより人との繋がりが苦手になってしまいました。学校にいても常にびくびくしているよな状態で自然な会話ができなくいつもぎこちない不自然な子供だったと思います。

そんな自分の内面の辛さを周りに気づかれたくなくていつも笑ってごまかしていました。

 

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「なんで自分だけこんなに人と違うのだろう・・・」

 

とこの頃からどうしても周りと馴染めずに生きているのが辛くて辛くて仕方ないように感じるようになりました。


そして、さらに精神の異常が現れ始めました。

小学5年生の時に受験勉強のために塾で勉強をしていたのですが、

ある日塾の算数の授業でノートに文字を書いている時。

ノートに書かれた自分の文字を見て、

「こんな汚い文字じゃダメだ!なんで僕はこんな醜い文字を書いているんだ。」

と思い家に帰ってから、

何度も何度も何度も。

書いては消してを繰り返し自分が納得いく完璧な文字を書けるようにするまで、

塾の授業の内容を深夜まで全て書き直していました。

(今考えたらそんなことばっかりやってて受験勉強全然やってなかった気がします。苦笑)


その頃から1つのことに執着した異常な完璧主義みたいなところがありましたね。


それでもなんとか受験に合格することができて志望校に2つ受かることができ埼玉県の私立の中学に入学することになりました。


小学校でも特別仲のいい友達もいなかったですし、
イジメまではいかないと思うのですがしょちゅう意地悪や悪口を言ってくるどうしても嫌いな同級生がいたので、

そういった全ての人間関係を絶って一から中学校で充実した青春が送れるとばかりその頃は思っていました。

しかし、中学校で僕を待っていたのはさらなる過酷な地獄の日々でした。



『統合失調症体験物語』 ~統合失調症と僕と大道芸~ 第2話へと続く


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僕にはいくつか夢があります。

その1つが自分の路上でのアーティスト活動を通して人の命を救いたいということです。

人の命を救いたいというのは少しおこがましいかもしれないですが、


僕の路上のアートをきっかけに見てくれたお客さん達に何かしらのプラスの変化が与えられたらなと思っています。


以前お客さんから貰ったメールに、


「命を断とうと思ってた。でもやめた。あなたの踊りを見たから。。」


という感想を頂いたことがありました。


その時程自分の存在意義を感じたことはないし、統合失調症になって色んなことができなくなってしまったけれども諦めずにアーティストとして活動してきて良かったと心から思えました。


このブログを読んでくれてる人がどれだけいるのか分かりませんが、


あなたの夢はなんですか?


夢が1つ叶うならどんなことを願いますか?


良かったらコメント欄で教えて下さい。


僕もあなたの夢を応援したいし何か力になれたらと思っています。


どんなことでも構わないので良かったら教えて下さいね^ ^
統合失調症の傑作映画ベストコレクションその②

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どうも。今サッカー日本代表の試合を観戦中です。

試合観戦中にトイレに行くとなぜかいつも必ず点数が入ってるという謎の現象が起きることが良くあります。

さて今回は統合失調症をテーマにした傑作映画の第二弾をご紹介していきたいと思います。
この映画は僕もかなり好きな映画なので是非お近くのツタヤで借りてみてくださいね!


今気がついたんですがアメブロって

 

「ペタ」

 

 

ってなくなったんですかね?

 

 

以前やってた時はペタっていうのがあったと思うんですが、

 

 

まぁよくペタがなんなのかわかってなかったので

 

 

特になくなっても関係ないんですが。

 

 

統合失調症の陽性症状の時に

 

 

僕が言ってい妄想や言動について記事にまとめてみました。

 

 

今となっては笑話になっていますが本当、

 

 

当時はいろんな人に迷惑をかけてしまったと思ってます汗。

 

 

ちゃんと薬を毎日服用して二度と再発しないように気をつけたいと思います。

 

 

最新記事はこちら↓↓

 

統合失調症の症状「発言」の具体例。熊本大震災の予言的中!?

おはようございます。

 

 

めっちゃ久しぶりに自撮りしてみたキシラです(笑)

 

 

 

昨日からアメブロをスタートしましたがいろんな方のブログを読んでいると同じ統合失調症でも全然症状が違っていたり、

 

お互い悩んでいることも異なったりして新しい気づもあり改めてこうやって他の同じ障がいと闘っている方との交流を持つことの大切さに気づきましたね。

 

僕がブログを始めた理由の一つがある夢を叶えたいと言う目的があります。

 

 

それは今までの自分の統合失調症との闘病生活を面白おかしくまとめた電子書籍を作ることです。

 

統合失調症の症状は確かに辛く苦しいものですが逆を言えば一般の人たちにとって僕らの体験は未知なるものでありどんな世界が見えているのかというのはとても気になるところもあると思うんですよね。

 

幻覚や幻聴とか映画やドラマでしか聞いたことがないという人も大勢いると思いますし、

 

閉鎖病棟のカオスな世界とかまず一般の人には触れる機会がないですからね(笑)

 

と言うわけで『統合失調症体験物語』〜統合失調症と僕と大道芸〜

 

というタイトルで今日から電子書籍化を目指して執筆活動の方を行って行きたいと思っています。

 

ちなみに何話まで続くかはわかりません。(笑)

 

 

こちらから記事の方はご覧いただけます↓↓

 

『統合失調症体験物語』〜統合失調症と僕と大道芸〜第1話 

統合失調症の傑作映画ベストコレクションその①

 

 

 

 

さて今回は統合失調症を題材にした傑作映画3選のご紹介をしたいと思います。

 

僕は小さい頃から映画が大好きだったのですが、

 

 

19歳で統合失調症を患ってからは何かに集中することが難しくなってしまいあまり映画を以前より見なくなってしまいました。

 

ある程度寛解の状態に回復してから統合失調症を題材にした映画を観るようになり、

 

その中でも非常に感銘を受けた作品をこちらのブログで紹介したいと思います。

 

 

統合失調症の映画『ビューティフル・マインド 』 主演:ラッセル・クロウ

 

 

この映画は僕が一番最初に観た統合失調症を題材にした映画でとても有名な映画なのであなたも知っているかもしれませんね。

 

実在した統合失調症を患う数学者ジョン・ナッシュという人物が主人公の映画です。

 

 

●ビューティフル・マインドのあらすじ

 

ラッセル・クロウが演じるジョン・ナッシュという大学院の数学科に入学した学生

 

『この世の全てを支配できる理論を見つけ出したい』

 

という願いを持っています。

 

 

ナッシュは「ナッシュ均衡」という画期的な理論を発見し優秀な成績で大学院を卒業します。

 

そしてナッシュは数学の研究に没頭し周りから変人扱いされる日々を過ごします。

 

ちなみに僕もよく変人と言われます。

 

 

そしてある日ナッシュはその才能を買われソ連の暗号解読を以来されます。

 

世界の危機を救えるとナッシュは歓喜しスパイ活動を密かに続けることになります。

 

その後ナッシュは結婚し極秘のスパイ活動のプレッシャーも大きくなり命の危険にさらされることも多くなってきます。

 

やがてナッシュは幻覚に悩まされることになります。

 

 

彼の病気は統合失調症であり、

 

 

 

彼がスパイ活動を依頼された諜報員も彼の脳が生み出した幻覚だったんです。

 

 

長く静かな統合失調症との闘病の日々が続き年老いたナッシュは大学教授としてその後ナッシュは教壇に立ち続けました。

 

 

ある日ナッシュの前に見慣れる人物が現れました。

 

 

ナッシュは近くにいた学生に自分が幻覚を見ていると思い、

 

「すまんが・・そこに人はいるか?」

 

 

と不安げに聞くナッシュでしたがその人物は実在する人間でした。

 

その人物にナッシュはノーベル経済学賞の授賞の知らせを受けることになります。

 

結局ナッシュの幻覚は完治はしませんでしたが、

 

穏やかな気持ちと日常を取り戻すことができ授賞式では妻への心からの感謝の気持ちを伝えるのでした。

 

 

● この映画を観て僕が思ったこと

 

非常に衝撃的で自分と重なる面がたくさんあり感銘を受けた映画でした。

 

僕には幻覚の症状がなかったのでナッシュの苦しみは測りしれませんが、

 

自分が思い描いていた世界が全て空想のものだったときの絶望感や虚無感はよく分かります。

 

統合失調症を患う人間はどこか人と変わっていたり、

 

なかなか周囲の環境や人に馴染めず社会から孤立してしまうことが多いと思います。

 

 

その孤独の中で彼は闘っていてスパイ活動をしていたというのもナッシュにとっては現実であり彼は強い正義感を持ってその任務にあたっていたことでしょう。

 

映画の中でナッシュが見ていたスパイ活動の幻覚がリアルに描かれたいたのがとても印象的でしたね。

 

そして彼は服薬を続けながら闘病を続けノーベル経済学賞を受賞するという偉業を達成する。

 

 

この映画は実話を元に制作をされておりジョン・ナッシュの存在は世界中の統合失調症や精神病患者にいつまでも勇気と希望を与え続けるでしょう。

 

 

まとめ

 

今回はビューティフル・マインドの紹介ということで、

 

なんの断りもなく思い切りネタバレが始まったのですが

 

今後も僕が今まで観てきた統合失調症を題材にした傑作映画を紹介していけたらと思います。

 

それでは最後までごらんいただきありがとうございました。

 

 

never give up! take a step forward!