3月12日 開腹手術にて子宮と卵管を摘出しました。

腹水は臭いはおさまっているが、鮮血とピンク色の液体を繰り返しつつもまだ出続けている。下痢がひどい。痛みのレベルも退院時の段階にすら立っていないが、少しずつ回復してきた。

手術のときのことをまとめてみようと思う。
長くなります。

何度か書いているが、私は術後せん妄になった。
らしい。

術後せん妄と知ったのは、退院前々日あたりだった。精神科医が病棟まで来て、話をしたり筆跡を見て経緯を伝えたところ、術後せん妄という症状だと教えられた。

なんかおかしい、と気づいたのは自分のメモや行動だった。術後当日でも辛うじてちゃんと書けていた文字が、術後2日目にメモを取ろうとすると文字が頭に浮かんでこない。筆跡もめちゃくちゃだ。

コレが術後2日目のメモだ。



何かを聞いたとしても頭の中が一瞬で真っ白になったり、時間の感覚も行動も何がなんだか分からなかった。メモを書いているときに、こっち側の手(ペンを持つ右手)と書こうとして「右手」と文字を頭に浮かばせて書こうとしても、右手と書けないのに左手と混ざった。

自分の状況判断がしやすくなるので、メモを取っていてよかった。メモの中身というより、メモを取るということによって、頭の中のアウトプットがうまくできているか客観的に知ることができた。そして経緯を他人にうまく伝えることができた。

めちゃくちゃな筆跡は術後3日目あたりまで続いた。

行動としては、術後2日目はスマホを持てるようになったので、メッセージが来ていた人に返信をしていたようだが、それも退院する頃になっていつのまにか返信していたことに気づいた。謎の猫語で返していてビビった。誰ですかコレという。

手術当日より翌日、翌々日とおかしくなるのはなんでだ?と、自分の言動が変だと気づいた私は、精神科の先生に診て欲しいと頼んだ。

病棟に来てくれた精神科医によると、術後せん妄は手術のダメージが大きくてショックを受けたことにより起こるらしい。手術を受けた人は誰しもがかかる可能性があり、手術当日よりも数日後に急に症状が出ることが多く、またしばらくすると落ち着いてくる。

(診てもらった退院前々日には)ほぼ治っているように見受けられ、退院して帰宅する頃には治っていますよ、とのことだった。

手術の諸々のダメージを真正面から受け止めてショックを受けないような自浄機能なのかねえ?

今までなかなか余裕がなくてまとめることができなかったが、聞いた話やメモ、つぎはぎだらけの記憶をまとめてみると術前術後は下記のような流れだったらしい。

手術前日、入院。
入れ替わり立ち替わりで人が次々と来て、入院生活の説明や手術の説明、術後ケアにつく方の挨拶などがあった。

採血のあと麻酔医の説明があった。APTT(血液が凝固する数値)が52.5秒と基準値から外れていて凝固しにくいため、硬膜外麻酔以外の麻酔で手術することになった。

凝固しにくい人が硬膜外麻酔をすると、術後に下半身付随になる可能性があるという。硬膜外麻酔をしないと予後が痛いのでご検討くださいと言われたが、数日の痛みと術後の下半身付随は天秤にかけるまでもなく即答した。痛みは鎮痛剤が効けば我慢できる。

手術は何時の予定かを看護師に聞くと、まだ決まらないが一番早い時間帯は9時からだと伝えられる。9時以外は急患とか前の手術の流れで何時から手術になるか分からないという。その後、朝9時から手術決定となった。

弾性ストッキングのサイズを看護師が計る。手術のときの服と弾性ストッキングを持ってきたので、そこにT字帯や腹帯も重ねて置いてスタンバイする。 

ちなみに弾性ストッキングは履いていたほうが足の怠さが無くてラクだったので、シャワーに入るようになるまで自発的に履き続けた。退院時も大事にお持ち帰り。

お風呂に入り、食事をし、術後の生活の支度を整えて早めに就寝した。通常食なのにこの内容かと食事の質に絶望した…唐揚げ3個って。3個って。

当日、朝5時に一旦起床。飲み物が朝6時までで脱水症になりやすいため、水を1時間かけてチビチビと飲む。点滴が無事入ったので、水はストップ。着替えの声かけがあるまで時々うがいをしつつダラダラ。

ホテルに泊まっていた母が到着。貴重品の管理や術後に出して欲しい荷物などの話を伝えた後、8時50分くらいに着替え。

弾性ストッキングは思ったよりふわさらで無事装着。T字帯はどうしたのか記憶なし。靴も何を履いていたのか記憶なし。ナプキンください、と看護師に言われたので夜用ナプキンを棚から出して手渡しした。

行ってきまーすと母に挨拶して、歩いて手術室に。誘導の看護師が手術室のドアを開けようと左足元にあるロックを解除しようとするがなかなか解除できず、中にいた人がロック解除して中に入る。

手術室は安室奈美恵の曲が流れてた。そういや選曲出来るとか言っていたけど言い忘れたな、壮大な交響曲かパイプオルガンとかBGMにしたかったなあ、どうせすぐ聞こえなくなるからいいか、でも私の選曲だと思われたらイヤだなあとか思っていた。

名前などの確認があり、執刀医のM医師とも言葉を交わし、よろしくお願いしまーす、と挨拶して手術台に。麻酔医が一応硬膜外麻酔ができるか最終確認するが、やはり硬膜外麻酔はナシで、マスクをつけて深呼吸。数回後に落ちて、術後の病棟までワープした。

手術は麻酔の時間を含めても予定時間を大幅に超えて4時間かかり12:57に終わった。摘出した子宮と卵管は母が見た。子宮全体がボコボコに変形していて、右の卵管の先には膨らんだ何かがあったという。

M医師によると、ボコボコは全部筋腫。卵管の先の膨らみは、卵管膿腫とのこと。その後、退院前の診察にて写真を貰えて、私も確認することができた。写真では子宮を切り開いた様子も見ることができた。

手術が終わり、私が病棟に到着する間に病室にモニタなどが配置された。5人くらい病室に入り処置が行われたあと、母が入ってよくなった。痛そうにしながら、先生は何か言っていたかと何度か同じことを聞いていたそうだ。

痛くなったら押してくださいと看護師が麻酔のボタンを私の左手に握らせる。どの程度の痛みで押していいのか、1日何回押していいのか聞いていたそうだ。ちなみにこのボタンは自分が何を握っているのか存在を忘れていて、看護師に言われて気づき夜になってから押すようになった。

病室に入ってから鼻に酸素が入った。これがイヤだったらしい。取ろうとして阻止されるを繰り返して、そのうち外してよしとなったらしい。右の枕元をふと見ると酸素マスクがあり、これはいらないんじゃないかと誰かに手渡したような気がする。右の枕元は嘔吐が続いたので嘔吐対策スペースになった。

何かあるたびに私を覗き込む険しい表情の母をよく覚えている。大丈夫だろうか、心配かけているなと思っていた。面会時間が終わって母はホテルに戻った。

夜は嘔吐と発熱が続いた。氷枕に頭を乗せて横になり、看護師にもらった氷を舐めては吐き出して様子見。痛みが強くなったら麻酔のボタン押して様子見を繰り返していた。

右側に寝返りを打つ癖があり、右手のバイタルが何度も外れてそのたびに看護師が直してくれていた。夜中に何度も申し訳ないとバイタルが外れかけるたびに付け直していたが、ウトウトするとまたモニタのランプがチカチカして看護師が。

そうしているうちに点滴がついている左手にバイタルが付けられ、体の上を走っていたケーブル類もほぼ左側に集まって、ようやく落ち着いて眠れるようになった。

翌日、歩行訓練中に親が来た。お辞儀じゃなくて手を挙げて挨拶。尿の管を抜いてトイレに行って帰って来たら、歩行訓練はこれで終わりです、と看護師。歩行訓練ってトイレの往復だけですか?と聞くと、はじめのうちはその程度です、と言う。

このあたりで両親は帰宅。
私の手術前後はこんな様子だった、らしい。

その後は術後の経過や不安なことを、たびたびメモを取り続けていた。看護師が回って来たときや術後診察のときに質問まとめメモを見せながら説明を聞いていた。

入院中は、右脚の痺れ(手術が長引いたこともあったが、すべり症になった)で整形外科にかかり、誘導係の人にリハビリさんの存在を教えてもらったのでリハビリさんを2日間依頼。

歩き方のほか、どこにも寄りかからずにベッドから起き上がる方法や、横になった状態でモノを取る方法、荷物の持ち上げ方、転んだ時の起き上がり方、体のストレッチや腹筋の仕方などを教わった。

まさか退院したあと部屋で最大のピンチが来て、転んだ時の起き上がり方が有効活用するとは想像もしていなかったが、リハビリのおかげで動くことには緊張はしなくなった。

来週、4月11日は術後再診だ。摘出した子宮と卵管の病理検査のほか、先日の濁った腹水の検査結果も説明がある。

仕事復帰はいつになるのか焦るところだが、先ずは結果を聞いて、自分の体の状況に折り合いを付けて、それから考えよう。