ミュージカルについて書いてみましょうか。いきなりの思いつきで何を書くか分からないけれど、思いつかなければ書けないので、書いてみよう。
 ミュージカルが苦手だ、という人はまだまだ多いのではないか、と推測する。そもそも僕も昔は苦手だった。月並みだけれど、突然、歌い躍りだす事が不自然だと感じていたからだ。だいたい、昔はミュージカルをまともに見られる環境ではなかった。機会が無かった。だから、多少なりとも、見る事が多くなったのはやはり、大学の為に上京してからだ。と言っても、映画は好きだったし、演劇の様に見る機会が限定されたりしないので、ミュージカル映画全盛期のMGM映画やフランスの『シェルブールの雨傘』等、有名な作品は見ていた。それは、面白いと思っていたし好きだったのだから、あまり自覚的ではなかっただけだろう。
 今はミュージカルも他と隔たり無く好きだ。やはり、良質のミュージカルを見た、というのもあるだろう。良い作品にはやはり、それだけの理由がある。
 ミュージカルの魅力はやはり歌だ。だからこそ、日本ではいまいち浸透しない理由ではないかな、と思う。そもそも、演劇自体が浸透していないというのは、ここでは度外視しよう。どういう事かと言うと、それぞれの国には、戦争という物も含めて、その時代背景から歌、音楽という物が必要不可欠な時代、歌、音楽を生み出す文化的な力があったという事。音楽の持つ力という物に対する、人々の思い入れが日本とは比べられないのかな、と思う。
 つまり、突然歌い躍る事に対して、不自然だと批判するのは、とても野暮だ。それは、人は楽しければ歌い躍るし、悲しければ、叫び地団駄を踏む(それだって歌だし、踊りだ)。そういう、原始的な初動を前提として持っているからこそ、ミュージカルはあれだけの力を持っているのだと思う。
 もともと、歌も踊りも信仰の為に捧げる物だ。だからこそ、歌や踊りは演劇等に比べても純粋な力を持っているし、それだけうちに溜め込まれた力がすごい(だから僕は、演劇よりダンスの方が好きだ、と言ったりする事がある)、例えば、赤ん坊の産声は人として初めて響かせる歌だと思っている。そう言うシンプルな力を演劇は、様々なジャンルを組み合わせる事で、エンタテイメント性を高め、神性をなくした(そういえば、こういうことを大学の副論文で少し書いた)。
 ただ、ミュージカルというのはエンタテイメントを土台に、歌の持つ力を演劇という空間で最大限に利用する事で、再び力を得た。これは、実に劇的だし、演劇的な事だと思う。
 日本も、そう言う蓄えられた力はあるにしても、爆発的に吐き出したりしない。蓄えられたものは、抑制され、少しずつ滲み出る。だから、ここで提案なのだけど、長唄ミュージカルの様な物を作れば良いのではないかな、と思う。どうだろう。
 いや、ふざけていない、結構まじめだ。





11月29日

 大久保、以前共演した3人のライブがあるので観に行く。

Gala Ribbon Cafe Live
大久保 cafe Dolce Vita

 ミュージカルナンバを中心に、MCを交えて1時間30分。とても聞き応えのある楽しいライブだった。以前共演した音楽劇で使用矢野絢子さんの曲も歌われていたので、ふわっとそのときの記憶が蘇って、どんどん背中が丸まる思いだった(椅子職人のおじいさんの役をやったのです。その他に絵本作家とドアの修理屋)。とても力のある歌声で楽しませて頂いた。

池谷裕子さん、岡村さやかさん、本井亜弥さん、お疲れ様でした。