以前このブログで言いかけた話をしましょう。
既に本を読んでくださった方はご存知かと思いますが、
僕が反戦平和を言う切っ掛けとなったのは、
1977年9月27日、地元・横浜市青葉区で起きた米軍機墜落です。
もう29年も経つんですね。
当時僕は幼稚園児。この教室から炎を目撃しましてね。

一同大騒ぎで外に飛び出たわけです。

当時はこの桜の樹もさほど大きくはなかったし、
街にはビルなどほとんどなかったので、
約1.6キロ先の現場まで見通すことができたんですね。
いまはもう全然見えません。
巨大なオレンジの炎、秋空に立ち上る黒煙……
その中で、幸せだったであろう
家庭が燃やされていたと知るのは1~2年後のことです。
小学校の図書館で『パパママバイバイ』という絵本を見ましてね。
あの光景がフラッシュバックしたのもあって、本当に恐ろしかったな。
罪もない子どもが2人、命を失いました。
その母親も4年4ヵ月後に亡くなりました。
気管支に問題があったのに、何故か精神病棟で。
一方で、
墜ちたF4ファントムを操縦していたパイロットにミスはなかったのか、
それを整備した人にミスはなかったのか。
そんなことは追求されないまま、
この事故は米軍によって処理されてしまいました。
日本国はそれを黙認するだけ、という体たらく。
2年前に起きた沖縄国際大の米軍ヘリ墜落と同じですよ。
僕はこれらを事件と呼びます。
で、こう考えるわけです。
「安全保障は必ずしも個人の生命や財産を守るものではない」と。
日米安保体制なんかなくしちまえとは言いませんが、
日米地位協定を見直す必要はあるはず。
昨日発足した安倍内閣にはゼヒ、
米国に対しても毅然たる行動をとっていただきたいものです。
ただの皮肉なんかじゃなくてね、切なる願いってやつ。
いま、1977.9.27を語る何物も現場には存在しません。
当時は造成地だったから、
その件を知らず近隣に住まわれている方も多いでしょう。
唯一あるのは、ご遺族が横浜・港の見える丘公園に寄贈した「愛の母子像」。
それも役所の判断により、由来を記すことはNGということに……。
今年1月にようやく碑文が添えられたものの、故人たちの名前は入らず。
何だか、都市公園法ってやつの縛りがあるらしいんですがね。
そのへんについて、横浜市の見解はこう。
「特定の人物を形象化した彫像等が公園の施設として認められるためには、その人が高度に精神化、もしくは広く伝説化された人物であるとか、あるいは、芸術的な価値が相当高いとか、美的価値を有しているものであるとか、さらには、当該人物の業績が広く顕彰されるべきものであるなど、そうした法的解釈を当てはめて、お断りしていたということです」
(出所:市長定例記者会見 2006年1月11日)
……ま、これをゆるめて碑文ができたと。
それだけでも良しとするしかないんでしょうかね。
あとはもう僕ら名もなき付近住民が記憶をつなげていくしかなかろうと。
だから、せいぜい続けますよ。
風化を防ぐために。
安易な米国追随と軍拡に少しでもブレーキをかけるために。