数あるピアノ協奏曲の中でも、チャイコフスキー・ピアノ協奏曲第1番は、最も有名で、傑作とされる曲の一つである。私の両親は、ピアノ協奏曲の名盤を集めていた。まだLPレコードの時代だ。私は高校の時、その中にヴァン・クライバーンが演奏した、チャイコフスキー第一番を見つけた。彼が第一回チャイコフスキー国際コンクールで優勝した直後の凱旋録音。キリル・コンドラシン指揮RCA交響楽団との共演だった。聴いて激しい感動を覚えた。魂を揺さぶられたと言っても過言ではない。繰り返し聞いて、飽きることがなかった。
自分でもこの名曲を弾いてみたくなった。さっそく楽譜を買ってきて譜読み。聞きしに勝る難曲だ。作曲者がピアニストではないこともあり、ピアノにかなり無理な奏法を求めている箇所もある。前にも書いたが、私がオケと共演した唯一の協奏曲は、モーツァルト第27番「戴冠式」。この成功のおかげで、ベートーヴェン第5番「皇帝」を共演する話も持ち上がった。しかも二度も。ピアノパートは仕上げた。しかし二度とも支障が生じて、共演は実現しなかった。「戴冠式」や「皇帝」が弾けると言っても、チャイコフスキーは段違いに難しい。
それでも練習に練習を重ねた。そうこうするうちに、ピアノパートは《あるパッセージ》を除いて、ほぼ完全に弾けるようになった。あるパッセージとは、例によってオクターブの連打(しかも両手)が続く10小節。一楽章の展開部にあるピアノソロの中に出てくる。三楽章のコーダ直前にも9小節ある。この部分が、どうしてもクライバーンの弾く速度と滑らかさでは、弾けないのだ。「そんなこと、当たり前ではないか?」と言われてしまいそうだ。彼は何と言ってもチャイコフスキーの優勝者。しかし同じ人間なのに、同じように弾けないのは悔しい。
だいたい、コンサートで弾く機会が99%ない作品に、エネルギーを費やすのはバカげているかもしれない。何のために山に登るのかと聞かれた登山家が、そこに山があるからと答えたと言うが、その心境に似ている。熱心に練習する上の最大の動機づけは、人前でうまく弾くという目的だ。しかし、それがなくても、熱心に練習してもよいではないか。私はこの作品が好きなのだ。第一楽章のあの有名な序奏が、ではない。抒情的な第二主題とその展開、ピアニスティックなカデンツァ、コーダの盛り上がり。弾けた時の喜びは最高である。
ピアノの曲を仕上げる過程は、高い山に登るのに似ている。登山道は、途中まで鬱蒼とした森におおわれている。最初は全く視界がきかない。どこまで登ったのか、あとどのくらい歩くのか、皆目見当がつかない。しかし一歩一歩進んでいるうちに、突然森林限界を超えて眺望が開ける。この時の感激は何ものにも代え難い。頂上まではまだ遠い。しかしここまで来ると、めざす目標が見えてくる。ただ最後の胸突き八丁で苦しい。人前で弾く機会が少ない私は、大体このあたりで休憩している。それでも、山に登る喜びは味わえるのである。











