二通のはがきは、光太郎の妻、智恵子が精神を病んだため母や妹の住む九十九里に預けられることになった年に出されたもの。
一通目は、光太郎が「小生の三年間に亘る看護も力無いものでした」と悲痛な思いを生涯無二の友である葉舟に吐露している。同日、光太郎は智恵子へも「あの松の間から来るきれいな空気を吸ふとどんな病気でもなほつてしまひませう。」というハガキを出している。
二通目は、水野から折り返し届いた見舞状への返信。文中の「大変動」とは前年、妻が水野との農耕生活に適応できず二児を連れて千葉から去っていったことを指す。光太郎の「お互いに力の限りやるより外ありません」という言葉には苦境への共感と連帯感がこめられている。

昭和十三年の智恵子の死から三年後、光太郎は妻への愛を綴った詩集「智恵子抄」を出版した。

 

 

高村光太郎

木彫家高村光雲の長男として、東京下谷西町に生まれる。本名光太郎(みつたろう)明治・大正・昭和三代にわたって活躍。詩人として、また彫刻家として芸術家の名をほしいままにした。光太郎は4歳ごろまで病弱であった。光太郎は5~6歳の頃から、父にもらった小刀で彫刻のまねごとを始め、15歳の時、父が教壇に立つ東京美術学校予備の課程に進みました。翌年には本科へ進み、彫刻の道を目指すことを本格的に決意。しかし、知識欲は人一倍、あらゆる事を吸収するため、図書館通い、英語を正則英語学校にて学び、歌舞伎や落語にも興味を持ち、ボディビル・鉄棒・弓で体を鍛え、身心両道を学び続けたという。彫刻の道を選んだことで、その道の先達としての父への負い目、抵抗を終生ひきずることになります。明治35年、20歳で同学校を卒業し、その2年後ロダンの作品と初めて出会います。その後、22歳の時ロダンの彫刻写真『考える人』を見て衝撃を受けた光太郎は、父への反発も含めて傾倒。15歳に東京美術学校予科(日本画)に入学。大正3年に結婚した智恵子は、『青鞜』の表紙絵も担当した洋画家でしたが、やがて精神に異常をきたし、入院生活の末に亡くなります。その最後の2年程で制作された切り紙絵千数百点は、光太郎が「智恵子の詩であり、抒情であり、機知であり、生活記録であり、此世への愛の表明」と言うくらい見事な造形を示し、今日、高い評価を得ています。3月なかばから度々喀血、絶対安静を続ける。1956年4月2日早暁中野のアトリエに没する。東京染井の高村家墓地に埋葬される.74才。彼は死の4日前「The end か!人間の一生なんて・・・」という言葉を残している。

 
 
 
 

 


葉舟51歳 光太郎51歳
水野葉舟様。

 

久しくご無沙汰していましたが君の方は皆御無事ですか、ちえ子は一時かなりよくなりかけたのに最近の陽気のせいか又又逆戻りして、いろいろ手を尽したが医者と相談の上やむを得ず片貝の片田舎にいる妹の家の母親にあづける事になり、一昨日送って来ました。小生の三年に亘る看護も力無いものでした。鳥の啼くまねや唄をうたふまねしているちえ子を後に残して帰つて来る時は流石の小生も涙を流した。

 

おてがみありがたう、ちえ子の事をほんとに悲しんでくれるのをありがたいと思ひます、君のほうにもいろいろ大変動があることを知り痛心に堪えません、お互いに力の限りやるより外ありません、詩稿の事、今推敲している時がないので一寸送れさうもありません、此事大急ぎてお返事まで、

 

 

 

ありがとうございました