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昨夜、私の友人である牧師の前夜式(葬儀)がありました。
家族全員でかけつけましたがキリスト教式の葬儀を見るのは私の子供たちにとってもよい体験となったと思います。
まだ51歳という若さで召されたこともあり、特に残された遺族をはじめ、その教会の方々には大きな悲しみや不安もあるでしょうが、天国という希望があることが大きな慰めです。
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私達が信じているものが本物だと改めて感じさせられたのはこのようなことでした・・・
もちろん葬儀というものはおごそかなものですが、プログラムが全て終わり、遺族の方々が列をなしている参列者一人ひとりにあいさつしている間に
その他のあいさつが終わった人たちは雑談をしているのですが、時々笑い声も聞かれました。
葬儀の場で笑いというのは変かもしれませんが、それが不謹慎という感じではなく
その場の雰囲気にうまく溶け込んでいるのです。
BGMの希望を与える雰囲気の賛美の曲がそれを助けていたと思います。
よく見たら、喪主である故人の奥様も、一人ひとりに挨拶をしているときに、涙をこらえながらも時には笑顔を見せておりました。
神の臨在(神がそこにおられるという感覚)がそこにあり
悲しみ、喜び、感謝、希望、歌声、それらが織り交ぜられ、愛に基づいた共同体がそこにあったのです。
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聖書にこのような言葉があります。
「祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。」( 箴言 7:2 )
祝宴すなわちパーティーというものは楽しいですが、そこにおいては人生について、また生きることの意義について考えさせられることはありません。
しかし、葬儀においては「どのような生き方をするのか、死ぬこと、そして死後どこに行くのか」について考えさせられます。
すなわちそれは、人生においてもっとも大切なことなのです。
そのもっとも大切なことを人は日常生活の中でできるだけ考えないようにして生きております。
葬儀の場は、私達の肉体は塵に過ぎない事を思い起こさせ
永遠に続くもの、そして天(神のおられる場所)に目を向けさせるのです。
そしてその、もっとも悲しい場面において
悲しみや不安だけでなく、それを支える愛と手助けがあり
そしてまた、喜び、感謝、歌声、そして希望があるのであるなら
私はこのイエスキリストを信じて本当に良かったと思います。
天国で再び再会できる希望があるのです。
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翌日の葬儀にも子供たちも出席しました。
しかも喜んで。
そこで見たものは、退屈な儀式ではなく、本当に神が生きておられるという証だったからでしょう。
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