近付く生体反応。
それはワイバーンのものだろうと感知できた。だが何かが違う。キメラから悪意や殺気のようなものを感じる事など今までなかった。まるでそれはアニマの意志そのもののようにも錯覚できた。
(この感覚……まさか、OBISなの?)
だからなのだろうか。
体は無意識に拘束されて、震える。そして意識は更に深遠へと滲んでいく。敦子は不愉快に背筋を這いずり回る悪寒に歯噛みした。
たとえ足掻いたとしても変わらないもの。それは過去。絶対的に過ぎた時間で狂ってしまった心の奥にある全ての断片を手繰り寄せて、それを丁寧に紡いでいく。
仄めく答え。
だが、所々が抜け落ちた未完成のパズルのように、まだ何かが足りない。何かが……
「大丈夫?」
不意の言葉。いつの間にかみなみが目の前に立っていた。咄嗟に取り繕うようにして口元を緩めていた事を滑稽に思いながらも、敦子は頷いて見せた。
「……うん、大丈夫。知ってるよ。キメラの反応が近い」
重い。何もかもが。
動かす唇も。発する声も。呼吸も。瞼も。踏み出そうとする足も。
当然の事だが、ここにも避難命令が出たらしい。エンジニア達も、作業半ばに避難を始めている。負傷したハイブリッドの処置もまだ万全ではなく、たとえ万全だとしてもOBISらしきワイバーンが相手では彼等に勝ち目は無いに等しい。
「……恐い?」
「分からない」
首を振る。差し出されたみなみの手を避けるように敦子はおもむろに歩き出した。みなみの手はそれ以上伸びてはこなかった。そのまま戸惑いと不安を振り切る心地で足を踏み出す。
と、その時。
天井からくぐもった爆発音が聞こえた。やがて天井全体に広がり、激しく振れ動く。
「来た。みんな早く逃げて!」
更に続く轟音。それはゆっくりと地響きへ変化していく。ワイバーンはこの真上にいる。天井が崩れ落ちるかもしれない。
すかさず辺りを見回した。ハイブリッドやエンジニア達はまだ避難し終えていない。
「何してるの? たかみなも早く逃げて」
今できる精一杯の険悪な気配を言葉に含めたつもりだったが、みなみに気後れした雰囲気はなかった。それどころか、微笑を浮かべて言ってくる。
「今のあっちゃんを一人にできるわけないよ」
みなみの何気ない気遣いが胸の奥底にある傷口に染み入る。だが、それは同時に今すべき決意を揺るがす起因にも思えた。
それは自らの甘さか?
単なる動揺か?
逃避なのか?
それともーー私が卑しいだけ?
「情けない」
そう呟き、敦子は俯くようにみなみから顔を背けた。
結局、巡り巡った思考はただ曖昧になっていく。そうなる事は分かっていたはずだった。
「あっちゃん。あっちゃんは何を願う?」
「私の、願い?」
「願望は生きる意思ーー意志ーーになる。願いは叶うものじゃなくて、叶えるものなんだよ。あっちゃんならそれができる」
吸い寄せられるように、顔がみなみへと向く。彼女は再び笑みをこぼしていた。
過去に答えがあるという確証はどこにもない。しかし、みなみの残した数々の言葉が鮮明に蘇ってくる。優しさに満ちた温かな思い。アニマとは似ても似付かない。
(……私は)
一つ確かな願望がある。それは今、誰も傷付かない事。
耳鳴りに似た振動が増し、エレベーター付近の天井の一部が絹を裂くような爆音を響かせて瞬く間に崩壊した。それと同時に、口にハイブリッドーーすでに生命反応は無いーーをくわえたワイバーンが姿を現した。
「っ!」
敦子はみなみに叫ぼうとしたが、それは声にはならず消え失せた。
シャフト内部の隔壁を突破して来たワイバーンは、瀕死としか思えない傷を負っているにもかかわらず立っている。生命の生きようとする本能ではない異質の輝きを宿す瞳に、敦子は言い知れぬ恐怖を感じた。思い起こされるのは、悪意の表象が渦巻く青藍の瞳。ふと見えたのは、間違いなくアニマだった。禍々しくもあるその視線に、為す術無く竦み上がる。
動けない。以前感じた寒気ではない震えだけが体の芯に付き纏う。
それを見透かしたのか、ワイバーンはくわえていたハイブリッドを戯れていた遊具のように放り投げた。
(来る!)
ハイブリッドとしての本能が疼いた。ワイバーンの最初の挙動は何か、攻撃の手段は何か、どう対処すべきか。戦闘でのあらゆる可能性が瞬時に考察される。しかし、やはり体は動いてくれない。
みなみが目の前にいるというのに。
「たかみな、逃げて!」
「言ったでしょ、一人にはできないって」
どんなに格好が付く言い回しができたとしても、生身の人間であるみなみにどうにかできる相手ではない。ハイブリッドでなければキメラは倒せない。自分に言い聞かせるまでもなくそんな事は分かっていた。ならば、今何をすべきかひとりでに具現するはずである。
(そう。私には闘わなきゃならない理由があるのに)
刹那ーー
みなみの肩越しにワイバーンが動くのが見えた。中程から千切れ役目を果たさなくなった翼を律動させ、飛び掛かって来る。
敦子は伸ばした手でみなみの肩をなんとか掴み、そのまま倒れるように引き寄せた。間一髪のところでワイバーンの巨体が掠めていく。
直ぐにみなみを庇いながら素早く起き上がる。それくらいなら何とかなった。視線を移すと、ワイバーンは身を翻し次の挙動体勢に入っていた。その射るような眼差しに、死の予感が過る。このままでは殺される。必死で恐怖に勝る何かを探すが、今の状況ではそれも覚束ない。
床を蹴る鈍い音と共に、殺気が迫った。体に動けと念じる。
と、どうにか体が微動した。みなみよりも無力だと痛感できる程に歯痒く。
今度のワイバーンの攻撃は避けられそうにもなかった。しかし、そんな状態でも現実を見続ける事を諦めないのは不思議でしかない。
見える。弱っていても力強いワイバーンの足の動きが。脈動する筋肉が。荒い息遣いが。そして、浮き上がる自分の体も。
「えっ?」
気付くと、みなみに抱き抱えられていた。
まさかこのまま逃げ切るつもりなのだろうか。
だとすれば、あまりに考えが浅はか過ぎる。
案の定、ワイバーンのスピードとリーチの前では無駄なあがきだった。みなみが数歩下がったところで、ワイバーンの尾が大理石の床を叩いた。その衝撃は触れているみなみからも伝わってくる。圧倒的な破壊力は弱々しい見た目からは信じがたいが、直前で砕け散った大理石は違う脅威となって襲い掛かってきた。風圧も加わり、二人分の体重が軽々と吹き飛ぶ。
「うぐっ!」
大小いくつもの破片が飛散するなか、そのうちの一つがみなみの頭部へ直撃した。血飛沫が飛び、視界が赤く滲む。呻き倒れるみなみの腕から落ちた敦子は、自分の受け身は構わず、尻餅をつきながら逆にみなみを抱き留めた。
「たかみな!」
「……う……ぅ」
「何でこんな無茶を!」
いったいみなみが何故そこまでするのか。いったい何がみなみにそこまでさせるのか。
答えを教えてほしい。
導いてほしい。
意識が薄れているのか、力の抜けたみなみを、敦子は脆いガラス細工を扱うように抱き寄せた。
「生きるとは、意志を示す事だ。躊躇わないで、自分の意志を」
「……」
「それとも、信じられない者の為に闘うのは、馬鹿馬鹿しい?」
蚊の鳴くようなみなみの悲痛な問い掛けが、心に突き刺さる。敦子は躊躇わず、首を振った。
「違う。違うよ、たかみな。私は、信じ“たい”んだと思う」
その時、心のどこかで何かが弾けた。強く引き付けるように。曖昧だった思考が、その何かを見出そうとする。足りない何かを。意味ある意志を。
「そう……よかった」
流れ落ちる涙と、静かな囁き。そして訪れる沈黙。敦子は、気を失ったみなみを横たわらせた。
「ごめん。私、たかみなみたいに意志は強くないから。……でも」
気付くと、自分の頬も涙で濡れていた。それはかつて苦しみで流したものとは違う、温かい雫。心の奥底から湧き出た感情。赤く滲んでいた視界が洗われていく。
それはワイバーンのものだろうと感知できた。だが何かが違う。キメラから悪意や殺気のようなものを感じる事など今までなかった。まるでそれはアニマの意志そのもののようにも錯覚できた。
(この感覚……まさか、OBISなの?)
だからなのだろうか。
体は無意識に拘束されて、震える。そして意識は更に深遠へと滲んでいく。敦子は不愉快に背筋を這いずり回る悪寒に歯噛みした。
たとえ足掻いたとしても変わらないもの。それは過去。絶対的に過ぎた時間で狂ってしまった心の奥にある全ての断片を手繰り寄せて、それを丁寧に紡いでいく。
仄めく答え。
だが、所々が抜け落ちた未完成のパズルのように、まだ何かが足りない。何かが……
「大丈夫?」
不意の言葉。いつの間にかみなみが目の前に立っていた。咄嗟に取り繕うようにして口元を緩めていた事を滑稽に思いながらも、敦子は頷いて見せた。
「……うん、大丈夫。知ってるよ。キメラの反応が近い」
重い。何もかもが。
動かす唇も。発する声も。呼吸も。瞼も。踏み出そうとする足も。
当然の事だが、ここにも避難命令が出たらしい。エンジニア達も、作業半ばに避難を始めている。負傷したハイブリッドの処置もまだ万全ではなく、たとえ万全だとしてもOBISらしきワイバーンが相手では彼等に勝ち目は無いに等しい。
「……恐い?」
「分からない」
首を振る。差し出されたみなみの手を避けるように敦子はおもむろに歩き出した。みなみの手はそれ以上伸びてはこなかった。そのまま戸惑いと不安を振り切る心地で足を踏み出す。
と、その時。
天井からくぐもった爆発音が聞こえた。やがて天井全体に広がり、激しく振れ動く。
「来た。みんな早く逃げて!」
更に続く轟音。それはゆっくりと地響きへ変化していく。ワイバーンはこの真上にいる。天井が崩れ落ちるかもしれない。
すかさず辺りを見回した。ハイブリッドやエンジニア達はまだ避難し終えていない。
「何してるの? たかみなも早く逃げて」
今できる精一杯の険悪な気配を言葉に含めたつもりだったが、みなみに気後れした雰囲気はなかった。それどころか、微笑を浮かべて言ってくる。
「今のあっちゃんを一人にできるわけないよ」
みなみの何気ない気遣いが胸の奥底にある傷口に染み入る。だが、それは同時に今すべき決意を揺るがす起因にも思えた。
それは自らの甘さか?
単なる動揺か?
逃避なのか?
それともーー私が卑しいだけ?
「情けない」
そう呟き、敦子は俯くようにみなみから顔を背けた。
結局、巡り巡った思考はただ曖昧になっていく。そうなる事は分かっていたはずだった。
「あっちゃん。あっちゃんは何を願う?」
「私の、願い?」
「願望は生きる意思ーー意志ーーになる。願いは叶うものじゃなくて、叶えるものなんだよ。あっちゃんならそれができる」
吸い寄せられるように、顔がみなみへと向く。彼女は再び笑みをこぼしていた。
過去に答えがあるという確証はどこにもない。しかし、みなみの残した数々の言葉が鮮明に蘇ってくる。優しさに満ちた温かな思い。アニマとは似ても似付かない。
(……私は)
一つ確かな願望がある。それは今、誰も傷付かない事。
耳鳴りに似た振動が増し、エレベーター付近の天井の一部が絹を裂くような爆音を響かせて瞬く間に崩壊した。それと同時に、口にハイブリッドーーすでに生命反応は無いーーをくわえたワイバーンが姿を現した。
「っ!」
敦子はみなみに叫ぼうとしたが、それは声にはならず消え失せた。
シャフト内部の隔壁を突破して来たワイバーンは、瀕死としか思えない傷を負っているにもかかわらず立っている。生命の生きようとする本能ではない異質の輝きを宿す瞳に、敦子は言い知れぬ恐怖を感じた。思い起こされるのは、悪意の表象が渦巻く青藍の瞳。ふと見えたのは、間違いなくアニマだった。禍々しくもあるその視線に、為す術無く竦み上がる。
動けない。以前感じた寒気ではない震えだけが体の芯に付き纏う。
それを見透かしたのか、ワイバーンはくわえていたハイブリッドを戯れていた遊具のように放り投げた。
(来る!)
ハイブリッドとしての本能が疼いた。ワイバーンの最初の挙動は何か、攻撃の手段は何か、どう対処すべきか。戦闘でのあらゆる可能性が瞬時に考察される。しかし、やはり体は動いてくれない。
みなみが目の前にいるというのに。
「たかみな、逃げて!」
「言ったでしょ、一人にはできないって」
どんなに格好が付く言い回しができたとしても、生身の人間であるみなみにどうにかできる相手ではない。ハイブリッドでなければキメラは倒せない。自分に言い聞かせるまでもなくそんな事は分かっていた。ならば、今何をすべきかひとりでに具現するはずである。
(そう。私には闘わなきゃならない理由があるのに)
刹那ーー
みなみの肩越しにワイバーンが動くのが見えた。中程から千切れ役目を果たさなくなった翼を律動させ、飛び掛かって来る。
敦子は伸ばした手でみなみの肩をなんとか掴み、そのまま倒れるように引き寄せた。間一髪のところでワイバーンの巨体が掠めていく。
直ぐにみなみを庇いながら素早く起き上がる。それくらいなら何とかなった。視線を移すと、ワイバーンは身を翻し次の挙動体勢に入っていた。その射るような眼差しに、死の予感が過る。このままでは殺される。必死で恐怖に勝る何かを探すが、今の状況ではそれも覚束ない。
床を蹴る鈍い音と共に、殺気が迫った。体に動けと念じる。
と、どうにか体が微動した。みなみよりも無力だと痛感できる程に歯痒く。
今度のワイバーンの攻撃は避けられそうにもなかった。しかし、そんな状態でも現実を見続ける事を諦めないのは不思議でしかない。
見える。弱っていても力強いワイバーンの足の動きが。脈動する筋肉が。荒い息遣いが。そして、浮き上がる自分の体も。
「えっ?」
気付くと、みなみに抱き抱えられていた。
まさかこのまま逃げ切るつもりなのだろうか。
だとすれば、あまりに考えが浅はか過ぎる。
案の定、ワイバーンのスピードとリーチの前では無駄なあがきだった。みなみが数歩下がったところで、ワイバーンの尾が大理石の床を叩いた。その衝撃は触れているみなみからも伝わってくる。圧倒的な破壊力は弱々しい見た目からは信じがたいが、直前で砕け散った大理石は違う脅威となって襲い掛かってきた。風圧も加わり、二人分の体重が軽々と吹き飛ぶ。
「うぐっ!」
大小いくつもの破片が飛散するなか、そのうちの一つがみなみの頭部へ直撃した。血飛沫が飛び、視界が赤く滲む。呻き倒れるみなみの腕から落ちた敦子は、自分の受け身は構わず、尻餅をつきながら逆にみなみを抱き留めた。
「たかみな!」
「……う……ぅ」
「何でこんな無茶を!」
いったいみなみが何故そこまでするのか。いったい何がみなみにそこまでさせるのか。
答えを教えてほしい。
導いてほしい。
意識が薄れているのか、力の抜けたみなみを、敦子は脆いガラス細工を扱うように抱き寄せた。
「生きるとは、意志を示す事だ。躊躇わないで、自分の意志を」
「……」
「それとも、信じられない者の為に闘うのは、馬鹿馬鹿しい?」
蚊の鳴くようなみなみの悲痛な問い掛けが、心に突き刺さる。敦子は躊躇わず、首を振った。
「違う。違うよ、たかみな。私は、信じ“たい”んだと思う」
その時、心のどこかで何かが弾けた。強く引き付けるように。曖昧だった思考が、その何かを見出そうとする。足りない何かを。意味ある意志を。
「そう……よかった」
流れ落ちる涙と、静かな囁き。そして訪れる沈黙。敦子は、気を失ったみなみを横たわらせた。
「ごめん。私、たかみなみたいに意志は強くないから。……でも」
気付くと、自分の頬も涙で濡れていた。それはかつて苦しみで流したものとは違う、温かい雫。心の奥底から湧き出た感情。赤く滲んでいた視界が洗われていく。